- 勇気づけリーダーの学級経営
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1 怒りで人は変えられない
【エピソード2】で、担任が注目したことは、「授業中に机の上に立つこと」ではなく、「積極的に挙手をして発言をすること」です。もし担任が、前者に注目したら、「ツヨシ君、まず、席に着きましょう」という注意をしたことでしょう。すると、ツヨシ君はどういう反応をしたでしょうか。この段階では、ツヨシ君は担任のその言葉を意に介せず、机の上で「ハイ、ハイッ!」と大きな声を出しながら自分をアピールしたことでしょう。それでも担任が、注意を繰り返せば、間違いなく「キレる」という行動に出たはずです。そこで彼がそうなったらそれこそ保護者の前で大立ち回りが始まる可能性があります。
ただでさえ、大勢の保護者の方が教室にいてツヨシ君は興奮していました。だから、担任は、着席して挙手をしているかのように机上で仁王立ちをして挙手をしているツヨシ君に「はい、どうぞ」と指名をしました。ツヨシ君は、元気よく自分の意見を言うと満足げに着席しました。そこで担任は、目を合わせてニコリと笑いました。ここでは、「次は、着席して手を挙げてください」とか「机の上に立ってはいけません」などと注意することはしません。「挙手をして発言したこと」や「着席したこと」に注目をしたのです。
しかし、それを見た保護者の方は、「なんと生ぬるい」と思ったことでしょう。保護者のみなさんの腹立ちはよく理解できます。しかも、保護者は、「彼のせいで昨年は教室が混乱していた」と思っているのです。保護者の多くは、あそこで担任が彼をビシッと注意して彼をシュンとさせる姿を望んでいたに違いありません。それは、ちょうど時代劇で、ヒーローが悪人を圧倒的な力でねじ伏せるような場面です。しかし、目の前で展開されたのは、それとは真逆の光景だったのです。
保護者からクレームめいたことを言われると、子どもたちを叱りたくなりますが、ここで担任が注目したのは、保護者の怒りやクレームではなく、授業が成り立つことです。ツヨシ君の不適切と思われる行動は、この机の上に立ち上がったことくらいで、あとは通常通りに授業を受けました。言い方は悪いですが、保護者のクレームについては、頭を下げていながらもスルーをしたことになります。しかし、それは保護者のクレームに向き合わないということではなく、「今は敢えて注目しない」ということです。保護者に深々と頭を下げ、保護者が帰るのを見送った後は、教室に戻り、笑顔で帰りの会をしました。
このように書くと、さも「スマート」に事態を乗り越えているように思われるかもしれませんが、感情の整理はそう簡単にはつきません。このときの担任は、とても悔しい思いをしています。しかし、悔し紛れにツヨシ君を叱っても、また、保護者と戦っても何のいいこともありません。ここはまさしく「臥薪嘗胆」です。
怒りで人は変えられない。
ツヨシ君にそれを教えようという担任が、怒りで人を変えようとしては、それは矛盾というものです。
2 不適切な行動を無意味化する
エピソードに対する解説をお読みになっても、「理屈はわかるが、それではツヨシ君の行動は変わらないのではないか」と思われる方もいることでしょう。しかし、逆に考えてみてください。ツヨシ君に注意や叱責を繰り返したらどういうことが起こるでしょうか。ツヨシ君に注意や叱責をして、不適切な行動をやめてくれるならば、私は、注意や叱責をすることを否定はしません。しかし、彼は、担任に出会うまでにすでに多くの注意や叱責を受けてきたと思われます。もちろん、担任もそうしたけど効果がないことを思い知らされたわけです。注意や叱責の効果がない場合は、注意や叱責が報酬となって不適切な行動を強化している可能性が考えられます。
つまり、不適切な行動をすると教師はよかれと思ってその子に注意や叱責を繰り返しますが、それはちょうど火に油を注いでいるようなものです。例えば、教室の中で授業を受けているとします。もし教室に30人いたら、教師からその子への注目の配分は30分の1です。教師が、「それでは、教科書の○頁〜○頁まで読みましょう」と言ったときに、全員がスムーズに読み始めれば、注目は分散されたままです。しかし、教師の注目を集める方法があります。もうおわかりですね。
他の子と違うことをすればいい
のです。
適切な行動をして注目を集めることができる子は、発言をしたり、より適切な考えをノートに書いたり、素早く作業をしたりすることでそれをすることができます。教師が指名してくれたり、感心してくれたり、ほめたりしてくれることで注目されるわけです。これを別なベクトルでやろうとするのが、不適切な行動をする子どもたちです。やる気のない態度を示したり、やるべきことをしなかったりするのです。「立ち歩き」や「奇声を上げる」、「私語をする」などの行動は、かなり効率的に教師の注目を集めることができます。しかも、適切な行動よりも不適切な行動は、強い感情を引き出すことができます。それだけ、強い注目と言えます。なぜ、そこまでして注目を引きたいのでしょうか。それは、
注目は居場所そのもの
だからです。整然としている教室で立ち歩けば、その瞬間に教師の注目は、30分の1から1分の1になります。つまり、一瞬にして居場所ができるわけです。
ツヨシ君は、不適切な行動で1分の1の注目を得てきました。それは彼にとって社会生活を送る上での「誤学習」を繰り返してきたと言えます。このときのツヨシ君に必要なことは、そういった「誤学習」によって得た認識の上書きをすることなのです。不適切な行動をして、注目されるということは、ツヨシ君にとっての教室は
不適切な行動に意味が与えられている
ということになります。不適切な行動をする子どもたちは、その意味を求めて不適切な行動を繰り返します。よく私たちは、やっても無駄なことをしてしまうと、「こんなことしても意味ないじゃないか」と思ったり、言ったりすることがありますよね。ここで言う意味とは、「価値や重要さ」ということです。
教師は、しばしば指導という名の下で不適切な行動に意味を与えてしまうことがあります。注意されることや叱られること、そして怒られること、それが注目であると学んでしまった子にとっては、それらの行為は報酬でしかありません。注意する度、叱る度、そして怒る度にご褒美をあげていることになります。「火に油を注ぐ」状態です。
叱るからこそ、不適切な行動は続く
状態を創り出してしまっています。だから、彼が、机の上に立って挙手をしようが、「デザートジャンケン」に負けて大暴れしようが、その行動には意味を与えないようにします。机の上に立とうが、普通に指名し、大暴れしようがジャンケンのルールには従ってもらうのです。
しかし、不適切な行動は、同時に適切な行動が起こるチャンスを内包しています。そこに教師が注目することで意味を与えます。キレるという行動は、キレる状態から回復するという適切な行動を起こします。机の上に立ち上がって発言しようとする行動は、積極的に学習しようとする意欲、行動の表れです。
不適切な行動が起こったときは、適切な行動を見つけるチャンス
なのです。