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授業のねらい―社会的な見方・考え方を鍛えるポイント
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太平洋戦争末期、戦局悪化の中、「死」をかけて、敵艦に体当たりしていった特攻の背景を考える。非国民の汚名を着せられるのと、自分の死とどちらをとるかと問われたら? その苦悩と、戦況について正確な情報を知らせず戦意をあおったマスコミや、同調圧力についても、考えたい。
1 「死んでもらいます」
〈発問〉
「6月15日にあなたに死んでもらいます」と国から言われたらどうしますか?
「なにそれ?」
「なんで死なないといけないのかと怒りまくる」
「逃亡だわ」
「町中の建物に投石」
教師『怒り爆発って感じだね、大切な命を国により抹殺されるって許せないよね。でも、過去において日本では国から命を奪うという命令がありました』
「戦争中?」
「戦争中でも死んでもらいますとは言わない」
「先生!日付も指定されているのですか?」
教師『○月○日に死んでもらうという命令です』
「特攻隊では?」
教師『太平洋戦争での、神風(しんぷう)特別攻撃隊といわれる作戦です。重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦隊に体当たりする攻撃で、パイロットは必ず“死ぬ”ことが「必死」条件の作戦でした』
「死ぬ日が決められてるんだ」
「どれくらいの方が亡くなったのですか?」
教師『3948名といわれています。10代から20代の若者が多い。鹿児島知覧の特攻平和会館にいくと、亡くなった方の遺影がかざられています』
Point▶ 「特攻隊」を“自分事”として考えるよう工夫することが必須だ。知覧特攻平和会館にかざられている遺影の写真を見せてもいい。
2 子犬を抱いた少年兵
子犬を抱いた少年兵を囲み、4人の若者がほほ笑んでいる写真がある。飛行服に飛行帽、白いマフラーを巻き、首から飛行時計をぶら下げている。飛行帽の上には「必勝」と書かれた日の丸の鉢巻きを着け、真ん中で子犬を抱いている青年は17歳だった。ほかの4人はいずれも18歳。5人は陸軍少年飛行兵で、沖縄に押し寄せていた米艦隊を撃滅するため、昭和20年5月27日未明、鹿児島県の万世飛行場を出撃し、沖縄近海で特攻を敢行した。写真は出撃の2時間前に撮影された。撮影された時点では死が2時間後に迫っていたことになる。特攻出撃を間近に控えての笑顔。彼らは何を語り、伝えようとしていたのか? 生徒の心の声を聞く。発表させる必要はない。
3 特攻はいつからはじまったか?
〈ペアワーク〉
神風特攻隊は、いつからはじまったのか? AからDで選びなさい。
第二次世界大戦(1939年9月)
↕ A
真珠湾攻撃(1941年12月)
↕ B
ミッドウェー海戦(1942年6月)
↕ C
沖縄戦(1945年3月)
↕ D
ポツダム宣言(1945年8月)
「AとDはない」
「ミッドウェー海戦の敗北で戦局が悪くなるって教科書に書いてある」
「Cかな」
「でも沖縄に米軍が上陸したので、それを阻止し、本土決戦にさせないためかもしれない」
「Dの可能性もある」
「教科書をみると、Cの時期に、ガダルカナル、サイパンで負けて撤退している」
「学徒出陣も1944年あたりだからCが正解だ」
教師『1944年10月にフィリピン戦線で海軍が最初に出撃させました。1945年8月15日の夕方、18〜24歳の特攻隊員22人が、大分県の海軍航空基地から沖縄を目指して出撃したのが最後です』
〈発問〉
特攻機約3300機のうち敵艦に到達したのは、どれくらいか?
5割 3割 1割
約1割だったといわれている。
Point▶ 本議論を通して、日米開戦以降の戦局を脈絡・文脈をもち再確認する。
4 死ぬとわかっているのに……なぜ?
〈考えよう〉
死ぬとわかっているのに、なぜ出撃していったのだろう。
「みんなが出撃していくのに自分だけ出撃しないわけにはいかない」
「どこかの島に着陸すればいいのでは」
「非国民だ!」
「そんなことして島から帰っても世間から冷たい目で見られるだけ」
「自分だけではなく家族もそうなる」
「特高から目を付けられるだけ」
教師『つまり同調圧力だね。世の中がそんな雰囲気だったから、出撃せざるをえなかったってことだね。他は?』
「お国のために死ぬのが素晴らしいと教育されてきた」
教師『教育の問題だね』
「天皇のために死ねって教育された」
「兵隊さんは死ぬときに“天皇バンザイ”って死んでいった」
教師『1944年10月というのは、戦争末期です。物量や兵力もアメリカが圧倒的に有利で勝利の可能性がない時期なのに無駄死にとは思わなかったのでしょうか?』
「勝つと思わされていた」
「新聞が全戦全勝って報道していた」
教師『マスコミが本当のことを報道しなかったってことかな』
Point▶ 戦争色の強い国定教科書をはじめ絵本、雑誌などの「教育」、戦況について正確な情報を知らせず、逆に国民の戦意を高める「マスコミ」、戦争批判や反対はもちろん、言論の自由を弾圧する「特高(国からの圧力)」、“ぜいたくは敵だ”をはじめ、戦争への疑問を呈すると“非国民”とされる「世間(同調圧力)」等から、特攻に行かざるをえなかったことを確認する。
5 おわりに
ある特攻隊の言葉、「自分が死んで勝つものならと、死を志した。しかし、特攻隊は出撃したらもう帰って来ない。果たして死ねるだろうか」。この言葉からその苦悩がわかる。また、“国のため”というのに従わず、非国民の汚名を着せられるのと、自分の死というものとどちらをとるかと言われると、結局死より汚名のほうを恐れたのではないだろうか。そして、当時の若者にとって、自己実現を図ろうとすれば、国家という「公」の中でこそ「自分が生きる場所」つまり「個」を追求できると考えたのだろう。
【参考】
・京都女子大学学生、重田鮎美氏の「学習指導案」を参考にした。
・安井俊夫『戦争と平和の学び方』明石書店
【イラスト】山本松澤友里