世界一わかりやすい道徳の授業づくり講座 対話でつくる道徳の学び
いよいよスタート目前の「特別の教科 道徳」。身構えなくても大丈夫。考え、議論する道徳にはもやもや・ワクワクがたくさん!対話的な子どもを育てる道徳の授業づくりを始めましょう。
世界一わかりやすい道徳の授業づくり講座(6)
考え、議論する道徳に変えるためには?〈3〉
対話への道徳教育
立命館大学大学院准教授荒木 寿友
2017/11/25 掲載

 前回はもったいぶった終わり方をしてすみませんでした。いよいよ対話への道徳教育を明らかにしていきましょう。政治の世界では「対話路線」なんていう言葉がよく用いられますが、実はそんな簡単なものではないのです!

対話とは何か?

 対話(dialogue)の語源を見てみると、"dia"(between, through:〜の間で、〜を通じた)と"logos"(word:言語、論理、意味)から成立していることがわかります。言葉を通じて新しい意味をつくっていくことが対話であって、単に二人組でおしゃべりをすることを意味するわけではありません。
 言葉を通じて社会変革の道を探っていったのが、ブラジルの著名な教育学者フレイレ(P.Freire)です。彼は識字教育を通して、当時の抑圧された人たち(その多くは読み書きのできない農民)が自分たちの生活を変えていくことを目指しました。
 フレイレによる対話の定義が非常にわかりやすいので紹介します。彼の対話の要点は、第一に、対話はAとBの水平的な関係であること。第二に、対話は批判的探究であること。第三に、対話は愛、謙虚、希望、誠実、信頼を基盤としていることです。つまり、上下の垂直的な関係(教える―教えられるの関係)ではなく、お互いが対等な関係、しかもお互いに信頼で結ばれた中で、批判的な探究活動を行うことが対話だと定義しています。(彼は教育における垂直的な関係を徹底して批判しています。その代表的な批判が「銀行型教育」(あたかも預金を増やしていくように、教師が子どもたちに一方的に知識を与えていく教育)と呼ばれるものですが、ご興味ある人は彼の著作を読んでみてください。)
 フレイレの対話の捉え方で最も興味深い点は、批判的探究があるということです。対話という言葉は、なんだか柔らかくてほっこりとしたイメージがありますが、決してそうではないのです。これについては後ほど考えていきましょう。

 さて、フレイレの場合、彼が対象としたのは主として成人で、かつインフォーマルな学校外の教育でしたので、水平的な関係で実践することが可能だったかもしれませんが、学校教育は教師と子どもの間に必ず明確な権力関係が存在します。残念ながら、これは紛れもない事実です。となると、日本の道徳教育の枠組みで考える場合は、“すでにある権力関係に教師がどれだけ自覚的になれるか”が大きなポイントになります。そして、とりわけそれに自覚的になる方法として、「傾聴」が考えられます。

傾聴ってよく話を聴くこと?

 私は「傾聴」に、「よく話を聴く」という意味以上のものを込めています。私たちの口から出てくる言葉は、私たちが経験したこと、考えていることで、経験していないことや考えたこともない言葉は決して発せられません。つまり、発せられる言葉にはその人の歴史が隠されているといえます。それは子どもであっても一緒です。私たち大人と比べれば人生経験は短いかもしれませんが、その歴史の中で子どもたちも生きています。傾聴には、言葉の意味を探り、推測すること(なぜこの人はこういうことを言うのだろう? 発言の背後には何があるんだろう? と思いを巡らせること)が含まれるのです。だからこそ、さらに「聴く」という行為が必要になってきます。そういった意味を込めて、「積極的傾聴」と名付けておきましょう。
 さて、私たちがより話を聴いていくためには、発言に対する判断の保留(合っているか間違っているか、好きか嫌いかなどを意識的にやめてみること)をする必要が出てきます。哲学の現象学の分野では、こういう判断の保留のことを「エポケー」と言いますが、まさに先入観に凝り固まって即断即決をしていては、「聴く」という行為が妨げられてしまいます。この判断を保留した「聴く」という行為、かつ、相手の思いに考えを巡らせることが、他者に対する尊重(フレイレの言葉を借りるなら相互信頼)の基盤となります。やや楽観的かもしれませんが、教師のこういった態度が「隠れたカリキュラム(ヒドゥンカリキュラム)」として子どもたちにいい影響を与え、子どもたち自身に「傾聴」の態度を育んでいくのではないかと思っています。

なるほど…。「子どもにとって教師が最大の教室環境」と言われるのは、こうした「隠れたカリキュラム」があるからなのですね。

批判的探究活動って必要?

 さて、話を聴いているだけでは対話ではありませんでしたね。その先に進んでいく必要があります。たとえば、「私は“正直”についてこう考えているけど、あなたはどう考えているの?」で終わるのが対話ではありません。そこで終わると共通了解ができあがることなく、「みんな違ってみんないい」で終わってしまう可能性があります。道徳はそもそも、私たちが住んでいる場所が安定した場(安心・安全な場)であることを求めて成立していますので、共に生きていくためにはどうすればいいかということを考える必要があるのです。そこで必要になるのが、物事を批判的に捉えてお互いに合意できる点を探ってみるという視点です。
 批判と聞くと、私たちはどうしても身構えてしまいます。非難されたり、否定されたりというようなニュアンスで、なんか文句を言われそうってね。もともとは、様々な角度から分析的に物事を解釈していくという意味があります。何より大事なのは、自分たちの当たり前や前提を問い直すという作業です。批判とは、自分自身や自分たちのものの見方を改めて考え直してみるということなのです。そして、よりよく生きていくためにはどうすればいいんだろうとお互いの主張が調和するところを探していくこと、まさに思考停止せずに考え続けることが、批判的な探究活動であるといえます。
 対話の結果として、私たちはお互いに共通了解をつくりあげることができるかもしれません(それは納得解と言われたり、最善解、最適解と呼ばれたりします)が、対話にゴールはありません。その瞬間瞬間において最善なものを探し出すことであって、未来永劫それが最善であるわけがありません。対話とは、常によりよきものを探し出す生き方そのもの、自分たちのあり方そのものかもしれないですね。(そういえばこの前、「納得解を見つけた瞬間に思考停止するから納得するな」とおっしゃっている方がおられましたが、その通りだと思います。)

対話がもたらすもの

 最も強調したいのが、傾聴によって始まった対話によって、お互いの存在を認め合う、「存在の相互承認」というものが獲得されるということです。要は、あなたと私がここにいることをお互いに認めましょうという態度です。傾聴がどちらかと言えば一方向からの働きかけであるのに対して、「存在の相互承認」はお互いの関係が「相互の水平的な関係」に近づくことを意味しています。

図
荒木寿友「道徳教育における対話理論」『やさしく学ぶ道徳教育』ミネルヴァ書房

 児童生徒の道徳性を育んでいくために教育手段として対話を用いるというよりも、対話を継続して行っていくことそのものが、お互いの存在を承認し、より安定した場で生活していくことにつながっていくのではないでしょうか。このように対話への道徳教育は捉えられますが、これはもはや、道徳科の授業の中でどうのこうのするというものではなく、学級経営、学校経営そのものの「あり方」の話になってきます。
 ゆえに、第6講は、対話こそが教育の目的という意味で、「対話への道徳教育」というネーミングにしているのです。

第6講のまとめ

  • まずは傾聴。言葉の裏にあるその人の歴史に耳を傾けてみよう。
  • 即断即決をやめて、判断を一旦保留してみよう。
  • 自分や自分たちのものの見方や考え方を疑ってみよう。
  • 自分たちの生き方やあり方そのものをよりよいものにしていくことが、対話だ。

【参考文献】
P.フレイレ『被抑圧者の教育学』亜紀書房、1979年
P.フレイレ『伝達か対話か−関係変革の教育学』亜紀書房、1982年
金光靖樹、佐藤光友(編著)『やさしく学ぶ道徳教育』ミネルヴァ書房、2016年
有光興記・藤澤文(編著)『モラルの心理学』北大路書房、2015年
田中耕治(編著)『教職教養講座第6巻道徳教育』協同出版、2017年

荒木 寿友あらき かずとも

1972年宮崎県生まれ,兵庫県育ち。2002年京都大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。専門は道徳教育、教育方法、ワークショップ、カリキュラム開発。現在,立命館大学大学院教職研究科准教授。NPO法人EN Lab.代表理事。セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン,アドバイザー。NPO法人cobon理事。国内外、大人子どもを問わず、さまざまなワークショップを展開する。
単著に『学校における対話とコミュニティの形成』(三省堂、2013年)、共著に『モラルの心理学』(北大路書房、2015年)、『考える道徳を創る「私たちの道徳」教材別ワークシート集』(明治図書、2015年)、『やさしく学ぶ道徳教育』(ミネルヴァ書房、2016年)、『戦後日本教育方法論史 下』(ミネルヴァ書房、2017年)など。

(構成:林)
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