スペシャリスト直伝! 高学年担任の指導の極意
「最高学年を最高のクラスにしたい!」そんな思いを実現するために必要な様々な指導の極意を伝授します。
スペシャリスト直伝! 高学年担任の指導の極意(2)
去年との違いをどう埋めるか
去年の先生は、●●でしたに対応する
北海道旭川市立啓明小学校宇野 弘恵
2018/7/10 掲載
  • 高学年担任の指導の極意
  • 学級経営

 

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「どうして去年は〇〇だったのに」を翻訳すると、「今より去年の方がいい」。つまり、現状に不満や不安があることを示しています。私たち教師にできることは、不満や不安を満足と安心に変える、不満や不安の中身を聴く、不満や不安を生まない努力をするの3つではないでしょうか。

笑顔で引かない、迎合しない

 「ねえ、宇野ちゃ〜ん!」
 赴任した年に受け持った高学年女子から、いきなりこう呼びかけられたことがありました。 私は笑顔で振り向いて、
 「私、あなたの友だちじゃないの。宇野先生って呼んでください」
 と言いました。するとその子は
 「ええええー!?いいじゃん別に。吉田(仮名)はいいよって言ってくれたのになあ。あーあ、吉田は親しみやすくてよかったなあ」
 と返してきました。吉田というのは去年までの担任。どうやら吉田先生は、自分を呼び捨てで呼ぶことを認めていたようでした。
 「吉田先生って呼んでいなかったの?」
 と尋ねると
 「うん。よっしーとかよっちゃんって呼んでも、ちゃんと返事してくれたよ、吉田は」
 と得意顔。私は
 「そう。でも私はそう呼ばれたくないな。卒業したらどう呼んでもいいけど、それまでは宇野先生って呼んでください」
 とにこやかに、小さな声ではっきりと言いました。恐らく「この先生には通用しなさそう」と思ったのでしょう。その子は
 「はあい、わかりましたあ」
 と言いました。

図1

「去年は〇〇だったのに……」と戦わない、逃げない

 世界の中心が自分、自分が世界のすべてと思っていたよう時期を経て、子どもたちは自分と他者を分離し、自分と周りの世界との距離と差異が徐々に見えるようになってきます。低学年の子どもたちの常套句
 「どうして○○君のうちはいいのにうちはだめなの?」
 という発言も、成長の証と見ることもできます。しかし、高学年になれば人との関係性や距離感をもっと複雑に観ることができるようになるため、「うちはうち、よそはよそ!」的なお母さんたちの常套句では納得しなくなるのです。
 ところで、「うちはうち、よそはよそ!」は、いわば頭ごなしの言葉です。これには「そんなによそのお家がいいんなら、よそのうちの子におなり!」といった、「言うことをきかないんだったら、うちから出てお行き」的突き放しです。
 低学年であれば「嫌だ。よそのおうちの子にはなりたくないから我慢する」といった論で諦めますが、高学年になれば「できることならそうしたいけど、できるわけないじゃん」といった気持ちになります。よそのうちの子などになれるわけがないのにそれを持ち出す親への怒り、どうしたって思い通りにはならないことへの諦め、うちだけダメといった疎外感を抱き、やがて親への反発、反抗、嫌悪、侮蔑といったネガティブな感情を増大させてしまうのです。
とはいえ、親子間の問題であれば、他でフォローやカバーできるチャンスはいくらでもあります。また、「ここのうちに生まれたから仕方ない」といった諦め(というか受容)もあるはずです。ですから、親子間で繰り広げられるこの手の問題は、修復し難い亀裂に発展することはそう多くはありません。
 ところが、対教師となれば話は別です。「去年はよかったのに、どうして今年はだめか」「A先生は許してくれたのに、どうして先生はだめか」「1組は○○しているのに、どうしてうちはしないのか」といった不満や疑問に、「うちはうち、よそはよそ」的受け答えをすれば、一気に子どもたちの心は離れてしまうでしょう。「この先生は私たちの気持ちをわかってくれない」「私たちのことより、自分のやりたいことをやってるだけじゃん!」となり、学級全員から総スカンを食らって学級崩壊まっしぐら…ともなりかねません。
 かといって、全てのことを去年の先生と同じにすることは不可能です(なぜなら別な人間だから)。また、いちいち子どもたちの要求に応えると、「便利な先生」「操りやすい先生」と思われ見下されるか、あるいは「信念がない先生」と思われ頼りないと評されてしまいます。戦うも地獄、逃げるも地獄(笑)。では、どうすればよいのでしょうか。

「観」を語れるようにしておく

 まず第一に「なぜこのように指導するか」といった教育観や指導観をもつことが肝要です。なぜ呼び捨てやニックネームで呼ばせないか、去年の先生は許したのになぜ私は許さないのかということを言語化し、自分の内側にもっておくことです。
 「目上の人への接し方を教えたい」「立場の違いを鮮明にしたい」ということは指導観です。なぜ指導するかの理由が、明確に言語化されて初めて意識化されます。指導観の先にあるのが教育観です。目上の人への接し方を教えるのは、社会に出たときの必要なマナーだ。マナーよく接することで、人間関係も良好になるだろう。人とうまくかかわる基礎を小学校で教えたい」などのように、その指導をしなくてはならない必然性を突き詰めて考えるのです。どういう子になってほしい、どんな力をつけてほしいというのはつまるところ教育基本法に示されている教育の目的に辿りつくと思いますが、それを自分なりの言葉で噛み砕いて内在させておくのです。そうすることによって、揺るがない信念が生まれます。あるいは、どうでもよいことに固執し依怙地になることを避けられます。
 また、子どもが理解し納得できるよう表現することも必要です。自分の教育観や指導観をそのままぶつけるのではなく、揺るがないけれど受容されるように伝えるのです。前出の例では、「私はあなたの友だちじゃないから」と、端的に子どもと教師の立場の違いを伝えました。しかし、場合によってはそれ以上突っ込んで説明しなくてはならないことも考えられます。そういう場面であっても堂々と「観」を語る姿を見せることで、教師と子どもの一線を意識させることはできるのです。

理由と思いをきく

 高学年は、一方的・頭ごなしが大嫌いです。そもそも「どうして去年と違うの?」の奥には、「いいな」「ずるいな」という思いが少なからずあるのです。そうした思いをわかろうともせず、問答無用に切り捨てることは、子どもとの理解のパイプを断絶することと同じです。
子どもたちは、違い自体にではなく違いが不利益と感じたときにフォーカスするのです。よって、どこにどうして不利益を感じるのかに寄り沿わなければ、不満や不公平感は解消されないのです。そのためにも、なぜ訴えたかったのか、どうして去年のやり方がいいと思ったのかを知る必要があります。
 しかし去年の方がいいと言われると、現担任である自分が否定されたり嫌われたりしているように感じるかもしれません。そう思い込むと、無用に腹を立ててしまったり感情的に対応してしまったりします。そうすると、押さえつけが大嫌いな思春期の子どもたちの心はますます遠ざかっていくでしょう。
 感情的にならず、丁寧に理解を求めようとする姿を見せ続けることで、教師への信頼も増していきます。先生が好きで信頼していれば、おのずと去年や他クラスとの違いが不利益と思わなくなるでしょう。むしろ、「違い=独自性=この先生(クラス)だけの特性」と思えてくるかもしれません。

統一見解で指導する

 学校で指導基準がばらばらだと、「去年はよかったのに」「○○先生はこうだったのに」という思いを引きだしてしまいます。できる限り学校で基準を揃えること(現象面を揃えるのではなく、できれば理念を共有し指導に当たりたい)が肝要です。
 また、子どもは「去年は学級に担任の私物の遊びものをたくさん用意してくれたのに、今年はない」という目に見える違いに敏感です。よいものや便利なものは全学級に同じように配置されるのが理想です。学校予算で揃えられないときは、学年や生徒指導部、管理職などに相談し子どもが不公平感を抱かないよう配慮します。

今月のまとめ

  • 教育観、指導観を言語化し、内在させておく。
  • 裏側にある思いや願いをきく。
  • 学校で足並みをそろえて指導に当たる。

宇野 弘恵うの ひろえ

1969年、北海道生まれ。旭川市内小学校教諭。2002年より教育研修サークル・北の教育文化フェスティバル会員となり、思想信条にとらわれず、今日的課題や現場に必要なこと、教師人生を豊かにすることを学んできた。現在、理事を務める。

(構成:茅野)

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