フル・インクルーシブ教育の学校&授業づくり
インクルーシブ教育の最先端の研究を担う,東京大学大学院教育学研究科と大阪市立大空小学校の取り組みを紹介。
フル・インクルーシブ教育の学校&授業づくり(12/最終回)
「何であれかまわない」学校をつくるために
東京大学大学院教育学研究科 副研究科長小玉 重夫
2019/5/28 掲載
  • フル・インクルーシブ教育
  • 特別支援教育

 本連載、「フル・インクルーシブ教育の学校&授業づくり」もいよいよ最終回となりました。最終回である今回は、これまでの11回の連載をふまえて、フル・インクルーシブ教育を可能にする条件が何なのかを考えてみたいと思います。

学校は排除を再生産する

 学校という場はともすれば、カリキュラムにおいても人間関係においても、同質的で、かつある特定のアイデンティティに適合的な差別構造を再生産する枠組みを内蔵させています。例えば、学習の進度には個人差がありますが、学校という場ではどうしても、学習の進んでいる児童や生徒に適合的な形で、人間関係の力学が形成される傾向があります。
 そうしますと、「習熟度別」や「特別支援」の名の下に、それがいかに児童や生徒のニーズにこたえようという名目のもとであったとしても、結果的に、差別、あるいは排除という形で可視化されてしまいます。そういう状況が、日本の学校教育において続いてきた現実があります。日本の学校は排除を再生産してきたのです。

障害の社会モデルという視点

 このような排除を再生産する学校の構造を組みかえていくために重要なのが、本連載の第2回で星加良司先生が提起された、「障害の社会モデル」という視点です。これは、社会の多数派にとって有利だと考えられてきた環境が、障害者(少数派)にとっての困難を生み出す社会的障壁になっており、学校もまたそうした社会的障壁にほかならないという視点です。そうした社会的障壁をなくすためには、学校自体を、特定の人々、多数派に有利な場から、誰もがアイデンティティや属性によってではなく、かけがえのない個人として認められる場へと、組みかえていく必要があります。
 このことは、障害の社会モデルに立って特別支援教育をフル・インクルーシブ教育へと転換させていこうという、東京大学バリアフリー教育開発研究センターがめざしている方向性ともつながります。この方向性を、多文化共生教育やクィア―教育などへと広げることで、学校を排除の場ではなく、市民性をはぐくむ場にしていくことが求められているのです。

何であれかまわない存在

 イタリアの思想家ジョルジョ・アガンベンは、上に述べた「誰もがアイデンティティや属性によってではなく、かけがえのない個人として認められる場」のことを、「何であれかまわない存在」が到来する共同体として概念化しています(『到来する共同体』)。ここでいう「何であれかまわない(whatever)」とは、「何であれ関係ない」という意味ではなく、「何であれOK」という意味です。すなわち、その人のことを障害者とか、外国人とか、性別とか、そういう属性によって何者(what)かとして見なすのではなく、その人自身(who)として見なすということです。これは、本連載の第3回で木村泰子先生が述べていた「「障害」をみると、その子がみえなくなってしまう」という言葉と、深いところでつながっています。

みんなでつくるパブリックの学校を

 人々が属性にもとづく何者(what)としてではなく、かけがえのない個性をもつ誰か(who)として集い、現れる場所のことを、パブリックと呼びます。みんなが「何であれかまわない存在」として受け入れられる学校は、したがって、みんなでつくるパブリックの学校だということになります。フル・インクルーシブ教育がめざすのは、まさにそのような意味でのパブリックな学校なのです。

まとめ

  • フル・インクルーシブ教育とは、すべての子どもたちをその属性で区別することなく、「何であれかまわない存在」として、分け隔てなく包摂していく教育です。すなわちそれは、みんなでつくるパブリック(公共)の学校だということができるでしょう。

〈参考文献〉
・ジョルジョ・アガンベン(上村忠男訳)『到来する共同体』月曜社、2012年

小玉 重夫こだま しげお

 東京大学教授。2019年3月まで大学院教育学研究科長・教育学部長、同4月より、大学院教育学研究科副研究科長・評議員をつとめる。教育の公共性の思想を研究し、シティズンシップ教育のあり方について提言を行っている。著書に『教育政治学を拓く』(勁草書房)など。

(構成:赤木)

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