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おもしろい教師からユーモア教師へ
おもしろい教師は素晴らしい。笑いをどっかどっかと教室に巻き起こしながら子供達を授業に惹きつけ、子供達は満足して授業を受けている……残念ながらそんな教師になれない私はうらやましく思います。
おもしろい教師に担任してもらった子供達は、次の年、前年よりもおもしろくない教師が担任し、「今年はおもしろくないからダメ」と評価をしてしまうかもしれません。そんな「おもしろ競争」に現代の教師はさらされているという部分があることを指摘できるのではないでしょうか。
この「おもしろ競争」は子供達にも伝染します。おもしろい、光の当たる子供は生き生きとしますが、おもしろくないとされた子供に光は当たりません。私は一人一人の子供に光を当てるため、教室におもしろさよりもユーモアを取り入れたいと考えています。
学校文化を相対化するユーモア
学校にはたくさんの絶対化されたルールがあります。例えば「人の失敗を笑ってはいけない」という学校的なルールがあります。一見するとこれは正しいように思います。
「人の失敗を笑ってはいけない」。こう教え込まれて子供達は失敗しても表では笑わず、陰でひそひそ噂をするかもしれません。失敗しても笑いがおこることはないがゆえに、逆に子供達は失敗が表出することを恐れるようになるかもしれません。そうして失敗の許されない学校文化を教師自身が作ってしまう。学校のルールを大事にしすぎるとそんな暗い側面が出てきてしまうと感じています。
ユーモアはこうした暗い側面に光をあてます。人によっては、時と場合によっては、笑ってもらった方が良いかもしれないのです。学校のルールの全てを否定するのではなく、「本当にそうなのかな?」と、目の前の子ども一人一人に当てはめてじっくりと吟味するところにユーモアが生まれると考えます。
ユーモアのある学級づくりアイデア1「ドッキリ」
学校的なルールを覆す実践として、「ドッキリ」を挙げます。例えば、教室に遅れて入ってきた子がいた時に、みんなで寝たふりをします。遅れてきた子のキョトンとする様子に、教室はドッと笑いに包まれます。「ドッキリ大成功!」と書いた画用紙を用意しておくとさらに盛り上がるでしょう。ポイントは笑われることを嫌がらない子を初めのターゲットに選ぶことです。
慣れてきたら、徐々に子どもに主導権を渡していきます。ターゲットは教師です。例えば教室のドアに黒板消しを挟むことを教えます。服が汚れるといけないので黒板消しをきれいにしておくことも礼儀として伝えておきます。わざと当たってあげると子どもは大いに喜びます。そのうち、教室に入ると誰もいない、はじめのあいさつを集団でふざける、などの「ドッキリ」を子ども自身が考えるようになります。こういうことを考える時の子どものアイデアは素晴らしいです。みんなで協力して成功させようという団結力も自然と生まれます。
「ドッキリ」は「人を騙してはいけない」という学校的、社会的なルールから外れていると言えるでしょう。それでも、人によっては、時と場合によっては、騙してもらった方が良いかもしれないのです。もちろん授業に支障が出ない範囲で行わなければなりませんが、「ドッキリ」は笑い合う中で子供同士がつながることができる実践としてオススメです。
ユーモアのある学級づくりアイデア2「自由スピーチ」
他にも「自由スピーチ」という実践を紹介します。フランスの公立小学校教師、セレスタン・フレネ(Freinet Celestin, 1896-1966)が提唱した「自由作文」をもとにした実践です。自由の名の通り、題材は自由です。子供が書きたいことを書き、書いたことを話します。話の長さも許される限り自由です。
フレネの提唱する「自由作文」は子供の文章を学級全員で推敲し、本や教科書とすることに力を入れますが、私の実践では文章の推敲はほとんどせず、子供の作文を元にしたスピーチによる交流を主目的としています。こうした実践をすると、子供達は多様な会話を教室に持ち込むようになります。
今年度、私は4年生の担任をしています。妹についてのスピーチをしたYさんに対して、子供達はたくさんの質問をし、自分はこんなだという話をしました。話題の中心はきょうだいげんかに移っていきました。子供達は次々にこんなけんかをしたという話をします。けんかの話をすることは学校教育にはふさわしくないと思われるかもしれません。しかし、けんかの話を学校ですることがユーモアであり、その中で、一人一人が自己を表出することを認め合う空間が生まれてくるのだと私は考えます。
そして、ユーモアのある教室には、学習指導要領の枠では捉えきれないような、一人一人に光の当たる豊かな学級空間が育まれるのではないでしょうか。