教育オピニオン
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いかに分かりやすく、文法を教えるか
グローバル時代を生き抜く生徒のために
香川県高松市立桜町中学校教諭高木 照仁
2016/1/1 掲載

 最近、テレビをつけると、英語を多用したCMや歌が頻繁に流れており、また、街を少しでも歩けば、「英語塾」や「英会話スクール」などの建物が非常に多い。さらに、英語で書かれたポスター・看板なども林立しており、さながらアメリカに住んでいるかのようである。
 国際化の波が押し寄せてきているのは分かるが、あまりの日常生活における英語の氾濫に、どうなっているのかと首をひねりたくなるような思いになる。

1 日本の英語学習の始まり

 ところで、日本人がはじめて英語に接したのは、文化5年(1808年)にまでさかのぼる。
 当時、日本は鎖国政策をとっており、通商相手をオランダと中国のみに制限していたのだが、この年、オランダ商船に見せかけたイギリスの軍艦「フェートン号」が、いきなり長崎に来襲し、長崎奉行所の役人らを人質に取り、薪水と食料を要求してきたのである。このとき、長崎奉行である松平康英はオランダ商館長の説得もあり、やむなく彼らの要求に応じたのであるが、その後、康英はこれを国辱と思い、その責任をとって自刃、佐賀藩家老ら数名も連帯責任ということで自刃…という大事件になった。
 幕府は、この事件に強い危機感を抱き、ただちに長崎オランダ通詞に英語の習得を命じたのだが、これが日本の英語学習の始まりとなり、今に続いているわけである。

2 英語を使いこなすには、「ジョン万次郎」式ではなく「森山栄之助」式に

 ところで、幕末の日米和親条約の締結時に主席通訳として活躍した森山栄之助は、その場の外国人が驚嘆するほどの正確で流暢な英語を話したという。しかし、彼はそれまで、ただ毎日こつこつと独学で、地味な音読や訳読といった文法学習をしていたに過ぎない。
 それとは対照的に、同時代人にあの有名なジョン万次郎がいるが、彼は14歳のとき、出漁中に暴風雨にあって漂流し、アメリカの捕鯨船に助けられ、アメリカでの長期滞在を余儀なくされてしまう。そのおかげで流暢に英語は話せるようになったらしいが、何かを正確な文章で伝える場面では、途端に詰まってしまって何も話せなくなったそうだ。
 上記の例をあげるまでもなく、英語が日本語と言語体系が全く異なる言語である以上、日本人をいきなりただ英語漬けにしただけでは、挨拶やちょっとした軽い会話は上手になるかもしれないが、文法的に正しく豊かな内容の英語を話したり、まして書いたりすることは、到底できないのだ。
 しかし、現代の日本の英語教育界では、「日本人が英語を話せないのは,長年英語教育が読み書き・文法学習に偏っているから」という批判が強く、その結果、1989年の学習指導要領改訂からは、会話中心の「オーラル・コミュニケーション」へと大きく方向転換している。つまり、「読み書き・文法」が軽視され、「聞く・話す」中心の「オーラル・コミュニケーション」偏重の傾向が強まってきているのが現状だ。
 しかし、我々は、英語を「聞く」「話す」機会などめったになかったオランダ通詞が、正確で流暢な英語を話せたのは、地味な「読む」「書く」学習でしっかりと文法を身に付けていたからということを忘れてはいけない。英語に限らず、人は常に派手なものに目が行きがちだが、実は地味なものにこそ大きな存在価値があるものである。
 つまり、将来本当に使える英語をモノにしたいなら、「ジョン万次郎」式ではなく「森山栄之助」式に学習していかないといけない。それは、150年以上も前に、歴史がはっきりと証明してくれている。

3 いかに分かりやすく、文法を教えるか

 そこで、私が授業を行うにおいて、常に気を付けているのは、いかに分かりやすく、文法を教えるかである。文法をしっかり身に付けていないと、上記の例をあげるまでもなく、決して英語力は伸びないのだ。
 今の英語教育界の流行は、ろくにインプットもさせないで、すぐにアウトプットをさせたがり、何か派手なアクションをする生徒に高い評価が付きがちであるが、そんなことは全く意味がない。
 我々が現在、日本語を(とりあえずではあるが)流暢に話し、読み書きできているのは、小学校のときに厳しく徹底的に(昔の小学校教育は実に厳しいものであった)、読み書きのドリルを通して文法を教えられたおかげであって、それを忘れてはいけない(私たちは日頃、脳の中で無意識に、文法を意識しながら話しているのだ)。
 そこで私は、特に大切な文法事項に入るときは、次のようにだれが読んでもよく分かる授業形式の文法理解シートを作成するようにしている。だから、ここでまず留意すべきは、語彙の精選ということになろう。

図1

 以上、英語をきちんとマスターするには、いかに基本的な文法学習が大切かということを述べてきたが、しかし本当は、それ以前に、まずは母語である日本語の確かな習得が最重要事項であろう。なぜなら、どんな外国語も母語以上には伸びないからである。日本語が下手な人は、さらに下手にしか外国語を使えないのである。
 当たり前のことだが、こういった基本的なことを今の教育界は忘れているように思う。我々教員は、上記の言葉を箴言として、常に心に留めておきたいものである。

高木 照仁たかぎ てるひと

香川県高松市出身、1959年生、英語教師として35年間勤務。

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