先日、「学び合い学習」授業風景のTVを見た。
唖然とした。子どもを怒鳴り散らしている。
教卓の所に座っている先生に、子どもが一生懸命考えて算数の答えを見せにいったらいきなり言われた。
「何でこうなるのだ!」
「おまえは何を考えているのだ!!」
教室中とどろく大声で怒鳴り散らしていた。
この子がかわいそうだ。
この子に対して、子どもたちが教え合っている。
別の場面では、全校児童が体育館に集められて、学年のグループごとに固まって座っていた。教師が紙に書いた問題を見せて、「みんなで考えて解きなさい」とやっていた。しかも多くの教師がマスクをしていた。顔を隠しての授業なのか。これでは教師の表情がわからない。こんなことで、算数の力がつくわけがない。
算数を教師が教えないで、子どもたちに教え合わせている。塾等で先に学んできた子が先生役になって教えているようだ。算数が苦手な子は置いてきぼりである。算数の得意な子は停滞である。塾に行って先々を学ぼうとすることに躍起になる。
「学び合い学習」のどこがよいのかわからない。「学び合い学習」は犯罪的である。なぜなら、教師が算数を教えないで、子どもたち同士で教え合わせている。これでは教師は不要である。子どもたち同士が話し合って算数の力がつくと本当に思っているのか。現場のまじめな教師なら、力がつかないことは百も承知である。
私が見た「学び合い学習」では、教科書をしまわせていた。子どもが教科書を見て答えがわかってしまうから、考える力がつかなくなるからだ、という。
教科書を見てわかることが、なぜいけないのか。わかることは大事である。そして、考える力は、教科書の問題を全部解かせることによってつくのである。
算数の得意な子には、さらに発展問題を与えて力をつけていくことである。
そもそも教科書を使わないのは、法律違反である。福岡の伝習館高校の教科書不使用の最高裁判決では、教科書を使うこととされた。
プリントやワークシートは、教科書ではない。教科書は、間違いがなく、子どもの発達段階に応じてよくできている。教科書を丁寧に教えれば算数の力はつくのである。
それをしまわせて、子どもたち同士で話し合わせて算数の問題を解かせている。これで力がつくわけがない。
しかも「学び合い学習」は、一斉指導を否定している。まさに犯罪的である。一斉指導によって子どもの理解度を確認しながら、教え、できたことを褒め、やる気にさせることが教育なのだ。どの子にもわかるように指導するのが教師なのだ。
それを否定するとは、ひどい指導法である。子どもたちに丸投げをして子どもたちの話し合いで、算数の力がつくわけがない。
私が指導してきた算数の授業は、先生が問題の解き方を説明する。それを板書する。子どもたちは、ノートに写す。さらに、教科書の問題をノートに写して解かせる。早くできた子は、黒板に解答を書く。さらに早くできた子には発展問題をやらせる。答え合わせをする。
教科書の練習問題を全部解いているので、ノートは1年間に4冊も5冊も使っている。「学び合い学習」では、子どもたちの話し合い活動なのでノートを使うことが少ない。実際に「学び合い学習」をやっているクラスのノートを見てほしい。ほとんど書いてないはずだ。
習いごとを例にする。
自動車教習所で、運転の仕方を習いにきた教習生たちに、話し合って解決しなさいと言って丸投げされて、免許をとれるはずがない。危なくて運転ができない。命がかかっているから、とてもではないができない。算数とて同じ。子どもの将来がかかっているのだ。
子どもに丸投げして、教師が教えないで叱ってばかりいたら、子どもたちに力をつけることはできない。
まさに「学び合い学習」は日本の教育を崩壊させる学習法である。即刻止めるべきである。
一斉指導も同じだ。授業の前半は教師がしゃべりっぱなしで教科書の解説。後半は練習問題類題を解かせていく。生徒の半数以上は前を向いているが、頭は授業についてきてはいない。3人くらいは机に突っ伏したまま。
しゃべりっぱなしや、練習問題が悪いのではない。授業についてきている子どもが一部であり、教師がはだかの王様になっている状態に気が付かない点がまずいのだ。
学び合いもしかり。学び合いが悪いのではなく、悪い学び合いが何かを見抜くことが大事だ。学び合わない組織ほど恐ろしい組織はない。そして、学び合えない人を育ててしまうことほど、罪な教育は無い。
この人は本当に「学び合い学習」の「授業風景のTV」を見たのだろうか? 「学び合い」を批判する前提として、それについて書かれた理論書や実践書を読んだのだろうか?
私は、「学び合い」を特に礼賛するつもりはない。しかし、舘野氏の投稿に事実誤認(あるいは曲解)が含まれ、教育に関する建設的な思考が欠如していることは指摘できる。
例えば、冒頭の「子どもを怒鳴り散らしている」とされる教師。私もテレビを見たが、教師は「怒鳴り散らして」などいなかった。この子は、できなかった問題を、自分で考えるのではなく友達のノートを丸写しして教師のもとに持っていった。持っていく前、周りの子は、答えを写すだけでは意味がないのではないかと何度もその子に確認していたが、その子はそれを断っていた。これらすべてを見届けたうえで、教師は、その子に対して怒鳴ったのである。もちろん、「教師はいかなる場合でも怒鳴ってはならない」という主張はあり得るが、少なくとも、舘野氏が言うように「一生懸命考えて算数の答えを見せにいった」子どもを教師が「いきなり」「怒鳴り散らして」いたわけではない。
舘野氏の文章には、「一斉指導を否定している。まさに犯罪的である」、「これで力がつくわけがない」、「考える力は、教科書の問題を全部解かせることによってつく」、など、根拠が伴わない断定が多々見られる。そこには、「一斉指導」とは異なる形での教育方法の可能性や、教科書の問題を「全部解かせる」というやり方の(「考える力」をつけるうえでの)長所と短所などを丁寧に検討する発想はない。国内外の実践を振り返ってみれば、「一斉指導」以外のスタイルや教科書に沿って進むというのでないやり方で成果を上げてきた例も多数存在することが明らかであるにもかかわらず、である。
教育者が柔軟な発想を失ったら、教育の発展はストップする。指導的な立場にいるのであろう舘野氏の硬直化した思考に私は暗澹たる気持ちになる。
一般に言われる「”良い”学び合い」の定義は?
舘野氏の見た授業風景は、学び合いではなく、職務放棄。
私がかじり聞いた「学び合い」は、教師が上手く導いて、それでいて生徒たちが「自分たちで考えた」という感覚を持たせる学習形態である。
ズレた意見に取れるのだが・・・。
「”良い”学び合い」に対する意見を聞きたい。
そのためには、氏に、そして多くの人に、良い授業風景を見せ、広めていくことが大切か。
最低限、協働学習の理論を理解した上で批判すべきなのに、それすら出来ない人が教育云々を語る資格があるとはとても思えない。民間だとこんな人間はリストラ対象なのに、公務員だとこの程度でも管理職になれるんだね。そこも恐ろしい。
お怒りになるのもわかります。
しかしその授業は、少なくとも『学び合い』とはかけ離れていますね。
「学びの共同体」とも違うようですし・・・どんな授業を参観されたのでしょうか。
とりあえず1つだけ誤解を訂正しますと、
『学び合い』では教科書とノートが大活躍しますよ。
実際に教科書を使用している『学び合い』の先生がほとんどだと思います。
というか教科書を使用せずに『学び合い』ってできるんでしょうか・・・?
西川教授自身、『学び合い』の手引書の中で
「教科書の○ページから○ページまでをすべて説明できるようになる」という授業課題を例に挙げるなど
教科書中心の授業を推奨していますし・・・
ノートに関しても、うちはノートが大活躍しています。
舘野先生がおっしゃるように、
『学び合い』を始めた頃は授業のときその場で理解して満足してしまい、ノートをとらなかった生徒が多かったのは確かです。
しかし、
それからはどんなノートがあとあと役に立つのかをみんなで研究しています。
ノートのまとめ方が上手い子をお手本にしながら、いろんなアイデアを出しあって
みんなのノートが1年間でどんどんよくなってきています。
(あとは個人的な感想ですが)
『学び合い』を始めてから、
一斉指導よりずっとずっと一人ひとりの子どもの理解度は確認しやすいし
子どもを褒める機会は何倍にも増えました。
そのぶん、教師が褒めてやる気を引き出すことの重要性が身に染みます。
だって教師が子どもたちのやる気をひき出さないと、本当に学級崩壊してしまいますから。
教師が妥協すると、こどもたちの学びの質が「がくっ」と落ちるのは感じますね。
まあ確かにうまくいくことばかりではないので
私もいろいろ悩みながらやっていますが、
子どもたちが学力だけじゃなくて(もちろん学力「も」ですが)いろんな力がついているのが見えるので
『学び合い』を始めてよかったな、と思いますね。
もう昔の授業には戻れません。
みな、自分の思いこんでいる虚像か、悪しき拡大解釈によって
気に入らないものを否定し、それがあたかも世界を崩壊させるかのように煽る。
われわれはこうした悪文を批判的に読み解く力を付けなければならないし、
批判できる子どもを育てなければいけません。
算数の勉強ができて尚且つ他に教えることが出来るなら凄い才能ですよ(仮の話になりますが)
教える技術は個人のセンスが問われるので体験できるきっかけがあるのは羨ましい。
社会に出てしまうと教え方は自分で考える必要があるので教え方や聞き方の勉強はやらないよりやったほうが損はしないと思う。
私は学び合いをすすめているものではありません。
ただ、非常に読んでいて不快に感じました。
あまりに一方的で偏狭なのです・・驚きすら感じます。
>みな、自分の思いこんでいる虚像か、悪しき拡大解釈によって
気に入らないものを否定し、それがあたかも世界を崩壊させるかのように煽る。
私も同感です。
全否定される根拠がまるでなく、個人的な見解で書かれていて、
大変驚いています。
こうした文章を載せる出版社もおかしいと思いました。
私は教職大学院時代に「学び合い」を知り、その「学び合い」を授業で取り入れている学校で教えています。「学び合い」に対する多少の批判はありますが、そうかと言って一斉授業が100%ベストであると言うつもりも毛頭ありません。人間が考え出したものですから、どんな教育法にも必ず一長一短があり、各々の短所は他の方法で補ったり、組み合わせればいいのです。
教育の発展は、まさにこの教育する側一人ひとりの教育法や教材の絶え間なき創造や共有、そして教育される側一人ひとりの共鳴・創造ではないでしょうか。本来はそれが「学び合い」授業の最高の目的であるはずです。舘野氏の意見は、この「教育する側による創造」という作業を放棄している(してきた)ようにしか思えません。まだまだ若手の教師である私が言うのもおこがましいですが、舘野氏の教育者としての資質を私は大いに疑います。
4番さんの意見にもありますが、良き「学び合い」の実践例を多く作り、仮に舘野氏が近い将来「まともな」批判をするにしてもそれに耐えうる理論にすることが必要だと思います。
でも全時間それでは行えないと聞きました。
舘野氏の発信はすぐさまの反応があり興味を持つことができました。
「学び合い」というの言葉の美しさに惑わされてはいけない、と言う意味だと思います。
少なくても舘野氏に誤解を与えるものを「学び合い」とおっしゃってる方がいるのだと思います。
私は「学び合い学習」に対しては肯定的に受けとめています。
ただし、もちろん、批判的な立場の方もいらっしゃることは了解済みです。
ただ、氏の論考の内容は非常に一方的で「不快」に感じました。
この氏の論考を教育zineを通して発信した意図は何なんでしょうか?
「学び合い学習」に対する議論を生むために発信されたのでしょうか?
にしては、そういった断りもないように思います。
ネットを通じた個人的な発信ならともかく、教育zineを通しての発信ですので、
どのような意図があるのか説明して頂きたいです。
ですから、法則化(TOSS)以外の実践は否定されるのでしょう。
私は、法則化からも学びましたが、学び合い学習や協同学習からも多くのことを学びま した。実際に「学び合い」学習に取り組んでみると、子どもたちからの支持が大きいで す。
上から目線ではなく、子ども目線に立って、子どもたちの学びに関わりたいと思いま す。
もし学び合いが効果的だとわかったら(実際に効果的かどうかはしらないけど)
舘野先生の考えも変わるのかしら。
個人の意見を述べることは自由ですが、明治図書という教育界において発進力をもつ会社のホームページで今回のような記事が出たことに対して、戸惑いを感じております。
舘野氏が例示した学び合い(?)の場面は、確かに問題があるでしょう。しかし、この事例をもって、学び合いを否定することは、果たしてこれからの教育を語る上で適切なことなのでしょうか。
舘野氏の主張の特徴は、教育を教師から子どもへの知識伝達という側面でしか捉えていない点にあります。この側面を否定するつもりは毛頭ありません。しかし、学校教育は、単に子どもに知識や技能を身につけさせることが目的なのでしょうか。そうでないことは、現場に立っていない学生でも十分認識できるはずです。
こういう場に記事を書かれるのでしたら、21世紀に求められる教育・学力をどのように捉えているのでしょうか。また、フィンランドやオランダといった諸外国の教育の成果について、どのように捉えているのでしょうか。
学び合いを否定するという大胆な主張をされる以上、こうした点に踏み込んだご意見を発信していただきたいと思います。そうでなければ、テレビのバラエティ番組ではありませんので、公の場での無責任な発言は現に慎んでいただきたいと思います。
1点目は、授業のねらいとは何か、ということです。ざっくり言えば、舘野氏は「学力の向上」です。指示・発問等を吟味し教師が教える一斉授業で。教えるー教えられる関係重視。一方、「学び合い」は、「学力の向上だけではなく、集団(人間関係)づくり」も授業(学び合い)を通して実現する。不登校やいじめの問題解決を、日常の学習そのものに含める」という学び合う関係重視。舘野氏の立場に立てば「学び合い」は「教えずに丸投げ」している批判の対象にしか見えないのでしょう。しかも、その「学び合い」が広がっている…。
2点目は、明治図書の戦略です。30年近く、教育技術の法則化やTOSSとともに明治図書は教育雑誌を販売してきました。しかし、法則化・TOSSをリードしてきた方は高齢化し、若い人の中で「学び合い」の広がる勢いがすごい。そこで、TOSSオンリーから「学び合い」も取り入れて新しい読者(若い教員)の獲得をめざしたい。その一歩でしょう。
舘野先生との対談が実現すれば面白そうですが、
そこまででなくても往復書簡的な連載でも興味深いです。
「学び合い」「学びの共同体」『学び合い』の理論を知ろうとはしたのでしょうか。
実際の授業での子どもたちの姿やノートを見たのでしょうか。
「学び合い」という言葉だけが人気になり、教師としての本質を見失う教師が増えることは、危惧されことであると思います。
ですが、子ども同士で学び合う姿が「学び合い」のゴールではないと思います。
「学び合い」はひとつの授業手段に過ぎず、他者との対話を通して、自らの知識を確立したり、多面的に物事をとらえる能力を身に付けることが「学び合い」の最大の目的であると思います。そのために教師は児童同士の思考をつなぐ支援をする必要があると考えます。
この本質を理解せず、「学び合い」に飛びつくと、何の効果も得られないと思います。
舘野先生の見た授業は「学び合い」の本質からずれているのではないでしょうか。
舘野先生のオピニオンは、先生方が指摘するとおり論理の飛躍があるかとは思います。
ただ、各先生方がNHkで紹介された授業映像を根拠にした意見交流になれば、もっと建設的な議論になるかもしれないと感じました。
このオピニオン上でするのが適切かどうかは分かりませんが、いずれにしても、様々な立場の方が具体的な事実で討論ができる雰囲気は、教育実践の質の向上につながると思います。連合雑誌等で特集になることを希望致します。
以下、部分を引用。
「不快、さらし首、一方的で偏狭、公の場での無責任な発言」
ここに書き込んでいる人間は匿名であり、舘野氏は名前をあかしている。
書きこんでいる人間こそが、「匿名であるが故の無責任な発言」をしているように見える。学び合いへ賛成の立場、反対の立場、双方が名前を明かして紙上討論して欲しい。
ただし、書き方が理解に苦しむ論理(なぜ教師がマスクを着用することが算数の力がつかないことにつながるのか?)を採用されていたり、「崩壊させる」「犯罪的である」という力強くキャッチーな断言をされていたりするため、なかなか賛同を得られなかったのではないかと思います。
宗教でない限り、断言をするにはそれを裏付けるだけの根拠(持論の展開や精神論だけでなく)や的を射た具体例を例示することが必要なのではないでしょうか。そうでなければ、良い主張をしようとしても袋叩きにあってしまいます。
いくつか、指摘したいところを述べます。
まず、教科書については、前にコメントされている方もいますが、使うことが多いでしょう。そもそも、教科書は「学びあい」「問題解決学習」を前提として作成されています。実際の編集委員からも伺いました。算数でも一つの問題について、子どもの発言の形式で複数の意見が書かれていますね。教科書に準拠した学習は、「学びあい」になるはずです。
「学びあい」の成果ですが、たとえば、秋田県、富山県、石川県では、県の学力向上プログラムの柱に「学びあい」を置いております。それぞれの県名と「学びあい」で検索すると、具体的な事例が沢山出てきます。
これらの県は、文部科学省の学力テストでも上位に入っている県です。
また、文部科学省の学力テストの結果を受けて出した授業改善の事例集、言語力育成のための事例集(いずれも文部科学省、国立教育政策研究所のホームページで閲覧できます)は、「学びあい」「問題解決学習」をもとに書かれています。
また、「学びあい」は、1990年代からはじまっており(問題解決学習はそれ以前から)、もし「学びあい」で教育が崩壊するのであれば、とっくに崩壊しております(教育が崩壊するという意味もよくはわかりませんが)。
私は、「学びあい」に対する学習は「一斉学習」ではなく、「講義形」の学習だと認識しております。「講義型」の学習は、各種調査で、「学習直後に成果は認められるが、時間が経つにつれて低下する」ことが明らかになっています。有名なのは、文部科学省の特定課題の調査です。つまり「覚えた事は忘れるが、理解した事は忘れない」ということで、この理解を深めるためには「学びあい」が欠かせないということです。
今後も向山氏をはじめ、TOSS関係の方から、こうした論調が出ると思いますが、以上のことについても論じていただければ、うれしいです。
舘野氏の言う教示タイプの学習状況が必要な場面もあれば、協働が意味を持つ学習の場面もあります。特定の形式や構造の学習にのみ指導の正解が存在する訳ではありません。
但し、知識も言語も社会的実践や他者との相互交換を前提として成り立つものです。教科の知識獲得も学習の目的ですが、これからは「考え合う能力」も学習の目的として重視する必要があるでしょう。協働できる能力も学力の一部です。教育や学習の目的を社会的方向にに拡張していくことが必要なのではないでしょうか。ヒトの学び型のデフォルトは、他者との関係を通して学ぶということなのですから。
誰かから教わる学びも学び、誰かと考え合う学びも学び、そして教えた側も別の次元で何かを学んでいるのです。勉強〈が〉できる人ではなく、(多様な状況を)勉強〈に〉できる人を育てたいですね。
ここまでのコメントをみながら、ラーニングデザイン(学びを設計する)という立場から意見を言わせていただきます。
「生徒の学力を伸ばすことと集団で協調・協業するマインドやスキルを学ぶこと」 学校にはこの双方の役割があると思います。その場合、指示・伝達による学びが有効な場面と、学習主体者どうしが能動的に学び合う協力協業的なモードが有効な場面が存在するのだと思います。
つまり、生徒個人の成長・集団の成長といったベクトルでみたとき、どのような教育内容でどんな方法(一斉的、学びあい的)を選択して望むのが理想かという議論が今、必要なのではないかと思います。 つづく
それらを含め、教えかたのベストミックスは何なのかといったラーニングデザインという観点でも議論いただけるとありがたいです。
算数の年間の学習計画のなかでの
何時間が当てられていたのでしょうか。
4時間?
12時間?
まさか全部じゃないですよね
学期中のどのタイミングでやるのでしょうか。
まさか春じゃないですよね
そのへんだけが気になります。
でも、学校の先生の意見は、こんな感じがいいと思います!
授業は一斉、みんな平等、成績バラバラ、不登校、授業崩壊、就職難、早期離職、自殺者30000人超。学校の校長先生は何を目指しているのか気になりますね。
結論から言えば、時代や社会システム、イノベーションの変化のスピードに置いて行かれている教育者が、経験にもとづく見地と、功績という発言力や影響力という権力にもとづいて、自身が「時代に取り残されていく不安」を感情的に投稿したと解すことができる。
すなわち、教師という職を安住の地として、学び続けることや研究し続けること、そして発展し革新していくことを怠り、過去の経験と功績を振りかざす「イノベーション否定」である。
教師たる者は学問を世に伝播する使命者として、常に学び続け、変化を観察し、受け容れるべきもの、受け容れるべきでないものを研究し、現代社会に生きる多様な人々と交流して対話を重ね、受け容れ難きは現地に足を運んで現状を理解しようと努めなければならない。温故知新、不易と流行である。
最後に、舘野氏の功績は心から敬服している。しかし、試行錯誤し研究している実践者たちを批判、否定してはならない。
思考錯誤は思考作語。意識は知識になり実践力の栄養分となる。日々挑戦している先生方にエールを送りたい気持ちです。
しかし”場面に応じて”でした。
常に”学び合い主体”では国が行う学力調査などに類する”学力”を身につけることが難しいと思います。
学力を身につけたとしても、そのこどもたちは、勉強のできるこどもたち だけではないでしょうか(私は映像を見てそう感じました)。勉強の難しい子どもたちは出来る子どもたちに聞きます。子どもが教師になります。
親はどう思うのでしょうか。子どもが子どもを教えていることに。
学校の中でアウトプットを保証することはもちろん大切であるけれども、それを多用しすぎることに違和感を感じます。
子どもたちが学び合う姿は美しい といいますが、”学力”は付くのでしょうか。
以上、まだまだ勉強不足の私見ですが、お読みいただきありがとうございました。
逆に反面教師として、この年代になっても自分の考えに固執せず、子どもたちのために学び続ける教員に
ならなければと決意を新たにすることができた。
九九や年号を覚えるだけのような知識を獲得する学習は学び合いは必要ではないでしょう。
でも、大学では、なぜゼミがあるのでしょうか。大教室での授業とゼミとの違いはなんでしょうか。そこを考えて見ましょう。
小学校と高校の違いがありますが、高校においても学び合いが実践される場面は少なくありません。授業でも、調べ学習や観察・実験、総合学習の時間で、生徒は未知の問題に対して相互に意見を出し、ときにインターネットや書物からの知見を持ち込みながら、問題解決に取り組んでいます。
また、特に高校においては、学校行事の運営や生徒会主導の企画、部活動などにおいて、生徒同士の高め合いが見られます。これらは発達段階によるものも大きいですが、初等教育段階からの継続した学び合い学習の成果による要素も少なくないでしょう。コメントを残してくださっている多くの先生方、教育関係者の皆さんの努力の賜物です。