教育オピニオン
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学び合い学習は、日本の教育を崩壊させる
元東京都大田区公立小学校長舘野 健三
2013/2/1 掲載

 先日、「学び合い学習」授業風景のTVを見た。
 唖然とした。子どもを怒鳴り散らしている。
 教卓の所に座っている先生に、子どもが一生懸命考えて算数の答えを見せにいったらいきなり言われた。
 「何でこうなるのだ!」
 「おまえは何を考えているのだ!!」
 教室中とどろく大声で怒鳴り散らしていた。
 この子がかわいそうだ。
 この子に対して、子どもたちが教え合っている。
 別の場面では、全校児童が体育館に集められて、学年のグループごとに固まって座っていた。教師が紙に書いた問題を見せて、「みんなで考えて解きなさい」とやっていた。しかも多くの教師がマスクをしていた。顔を隠しての授業なのか。これでは教師の表情がわからない。こんなことで、算数の力がつくわけがない。
 算数を教師が教えないで、子どもたちに教え合わせている。塾等で先に学んできた子が先生役になって教えているようだ。算数が苦手な子は置いてきぼりである。算数の得意な子は停滞である。塾に行って先々を学ぼうとすることに躍起になる。

 「学び合い学習」のどこがよいのかわからない。「学び合い学習」は犯罪的である。なぜなら、教師が算数を教えないで、子どもたち同士で教え合わせている。これでは教師は不要である。子どもたち同士が話し合って算数の力がつくと本当に思っているのか。現場のまじめな教師なら、力がつかないことは百も承知である。
 私が見た「学び合い学習」では、教科書をしまわせていた。子どもが教科書を見て答えがわかってしまうから、考える力がつかなくなるからだ、という。
 教科書を見てわかることが、なぜいけないのか。わかることは大事である。そして、考える力は、教科書の問題を全部解かせることによってつくのである。
 算数の得意な子には、さらに発展問題を与えて力をつけていくことである。

 そもそも教科書を使わないのは、法律違反である。福岡の伝習館高校の教科書不使用の最高裁判決では、教科書を使うこととされた。
 プリントやワークシートは、教科書ではない。教科書は、間違いがなく、子どもの発達段階に応じてよくできている。教科書を丁寧に教えれば算数の力はつくのである。
 それをしまわせて、子どもたち同士で話し合わせて算数の問題を解かせている。これで力がつくわけがない。

 しかも「学び合い学習」は、一斉指導を否定している。まさに犯罪的である。一斉指導によって子どもの理解度を確認しながら、教え、できたことを褒め、やる気にさせることが教育なのだ。どの子にもわかるように指導するのが教師なのだ。
 それを否定するとは、ひどい指導法である。子どもたちに丸投げをして子どもたちの話し合いで、算数の力がつくわけがない。
 私が指導してきた算数の授業は、先生が問題の解き方を説明する。それを板書する。子どもたちは、ノートに写す。さらに、教科書の問題をノートに写して解かせる。早くできた子は、黒板に解答を書く。さらに早くできた子には発展問題をやらせる。答え合わせをする。
 教科書の練習問題を全部解いているので、ノートは1年間に4冊も5冊も使っている。「学び合い学習」では、子どもたちの話し合い活動なのでノートを使うことが少ない。実際に「学び合い学習」をやっているクラスのノートを見てほしい。ほとんど書いてないはずだ。

 習いごとを例にする。
 自動車教習所で、運転の仕方を習いにきた教習生たちに、話し合って解決しなさいと言って丸投げされて、免許をとれるはずがない。危なくて運転ができない。命がかかっているから、とてもではないができない。算数とて同じ。子どもの将来がかかっているのだ。
 子どもに丸投げして、教師が教えないで叱ってばかりいたら、子どもたちに力をつけることはできない。
 まさに「学び合い学習」は日本の教育を崩壊させる学習法である。即刻止めるべきである。

舘野 健三たての けんぞう

千葉県公立中学校教諭2年、東京都港区立小学校教諭10年、東京都大田区立小学校教諭8年、東京都大田区立小学校教頭6年を経て、東京都大田区立小学校長10年。

【主な著書・編著書】『<校長が学校を変える2>指導力不足教員に立ち向かう』(2007年4月)、『すべての学校に特別支援教育の体制を』(2006年4月)、『特別支援教育で学校を変える』(2006年4月)、他多数。すべて明治図書刊。

コメントの一覧
47件あります。
    • 1
    • 協働学欲
    • 2013/2/1 11:52:46
    協働学習には三つの“いい協働”がある。やった方がいい協働、やってもやらなくてもいい協働、やらない方がいい協働。

    一斉指導も同じだ。授業の前半は教師がしゃべりっぱなしで教科書の解説。後半は練習問題類題を解かせていく。生徒の半数以上は前を向いているが、頭は授業についてきてはいない。3人くらいは机に突っ伏したまま。

    しゃべりっぱなしや、練習問題が悪いのではない。授業についてきている子どもが一部であり、教師がはだかの王様になっている状態に気が付かない点がまずいのだ。

    学び合いもしかり。学び合いが悪いのではなく、悪い学び合いが何かを見抜くことが大事だ。学び合わない組織ほど恐ろしい組織はない。そして、学び合えない人を育ててしまうことほど、罪な教育は無い。
    • 2
    • 名無しさん
    • 2013/2/1 13:59:24
    舘野氏の投稿を読んで唖然とした。
    この人は本当に「学び合い学習」の「授業風景のTV」を見たのだろうか? 「学び合い」を批判する前提として、それについて書かれた理論書や実践書を読んだのだろうか?

    私は、「学び合い」を特に礼賛するつもりはない。しかし、舘野氏の投稿に事実誤認(あるいは曲解)が含まれ、教育に関する建設的な思考が欠如していることは指摘できる。

    例えば、冒頭の「子どもを怒鳴り散らしている」とされる教師。私もテレビを見たが、教師は「怒鳴り散らして」などいなかった。この子は、できなかった問題を、自分で考えるのではなく友達のノートを丸写しして教師のもとに持っていった。持っていく前、周りの子は、答えを写すだけでは意味がないのではないかと何度もその子に確認していたが、その子はそれを断っていた。これらすべてを見届けたうえで、教師は、その子に対して怒鳴ったのである。もちろん、「教師はいかなる場合でも怒鳴ってはならない」という主張はあり得るが、少なくとも、舘野氏が言うように「一生懸命考えて算数の答えを見せにいった」子どもを教師が「いきなり」「怒鳴り散らして」いたわけではない。
    • 3
    • 2の続き
    • 2013/2/1 14:30:31
    舘野氏は、自らがこれまで行ってきた授業スタイルを信奉するあまり、他の実践や理論を冷静に評価することができなくなっているのではないか。
    舘野氏の文章には、「一斉指導を否定している。まさに犯罪的である」、「これで力がつくわけがない」、「考える力は、教科書の問題を全部解かせることによってつく」、など、根拠が伴わない断定が多々見られる。そこには、「一斉指導」とは異なる形での教育方法の可能性や、教科書の問題を「全部解かせる」というやり方の(「考える力」をつけるうえでの)長所と短所などを丁寧に検討する発想はない。国内外の実践を振り返ってみれば、「一斉指導」以外のスタイルや教科書に沿って進むというのでないやり方で成果を上げてきた例も多数存在することが明らかであるにもかかわらず、である。

    教育者が柔軟な発想を失ったら、教育の発展はストップする。指導的な立場にいるのであろう舘野氏の硬直化した思考に私は暗澹たる気持ちになる。
    • 4
    • 名無しさん
    • 2013/2/1 14:40:35
    舘野氏の言う「学び合い」の定義は?
    一般に言われる「”良い”学び合い」の定義は?

    舘野氏の見た授業風景は、学び合いではなく、職務放棄。
    私がかじり聞いた「学び合い」は、教師が上手く導いて、それでいて生徒たちが「自分たちで考えた」という感覚を持たせる学習形態である。

    ズレた意見に取れるのだが・・・。

    「”良い”学び合い」に対する意見を聞きたい。
    そのためには、氏に、そして多くの人に、良い授業風景を見せ、広めていくことが大切か。
    • 5
    • これは酷い
    • 2013/2/1 15:46:40
    管理職の立場にある人が、理論書を読み正しく実践している授業を確認もせずに、理論どおりにやっていない授業を見ただけで理論全体を否定しちゃうとは、恐ろしすぎる。
    最低限、協働学習の理論を理解した上で批判すべきなのに、それすら出来ない人が教育云々を語る資格があるとはとても思えない。民間だとこんな人間はリストラ対象なのに、公務員だとこの程度でも管理職になれるんだね。そこも恐ろしい。
    • 6
    • ひまわり
    • 2013/2/1 21:41:46
    舘野先生がご覧になった授業は、さぞひどい授業だったのでしょう。
    お怒りになるのもわかります。

    しかしその授業は、少なくとも『学び合い』とはかけ離れていますね。
    「学びの共同体」とも違うようですし・・・どんな授業を参観されたのでしょうか。

    とりあえず1つだけ誤解を訂正しますと、

    『学び合い』では教科書とノートが大活躍しますよ。

    実際に教科書を使用している『学び合い』の先生がほとんどだと思います。
    というか教科書を使用せずに『学び合い』ってできるんでしょうか・・・?

    西川教授自身、『学び合い』の手引書の中で
    「教科書の○ページから○ページまでをすべて説明できるようになる」という授業課題を例に挙げるなど
    教科書中心の授業を推奨していますし・・・

    ノートに関しても、うちはノートが大活躍しています。

    舘野先生がおっしゃるように、
    『学び合い』を始めた頃は授業のときその場で理解して満足してしまい、ノートをとらなかった生徒が多かったのは確かです。
    しかし、
    • 7
    • ひまわり
    • 2013/2/1 21:44:34
    「次の単元に進んだ時に前の単元のことを忘れてしまっていることが多い」ということになり
    それからはどんなノートがあとあと役に立つのかをみんなで研究しています。
    ノートのまとめ方が上手い子をお手本にしながら、いろんなアイデアを出しあって
    みんなのノートが1年間でどんどんよくなってきています。

    (あとは個人的な感想ですが)
    『学び合い』を始めてから、
    一斉指導よりずっとずっと一人ひとりの子どもの理解度は確認しやすいし
    子どもを褒める機会は何倍にも増えました。
    そのぶん、教師が褒めてやる気を引き出すことの重要性が身に染みます。
    だって教師が子どもたちのやる気をひき出さないと、本当に学級崩壊してしまいますから。
    教師が妥協すると、こどもたちの学びの質が「がくっ」と落ちるのは感じますね。

    まあ確かにうまくいくことばかりではないので
    私もいろいろ悩みながらやっていますが、
    子どもたちが学力だけじゃなくて(もちろん学力「も」ですが)いろんな力がついているのが見えるので
    『学び合い』を始めてよかったな、と思いますね。
    もう昔の授業には戻れません。
    • 8
    • JJ
    • 2013/2/1 22:31:30
    「○○が××を崩壊させる」といった類の言説にろくなものはないですね。

    みな、自分の思いこんでいる虚像か、悪しき拡大解釈によって
    気に入らないものを否定し、それがあたかも世界を崩壊させるかのように煽る。

    われわれはこうした悪文を批判的に読み解く力を付けなければならないし、
    批判できる子どもを育てなければいけません。
    • 9
    • 匿名希望
    • 2013/2/1 22:56:43
    意見が極端。YESとNO以外にもあると思う。
    算数の勉強ができて尚且つ他に教えることが出来るなら凄い才能ですよ(仮の話になりますが)
    教える技術は個人のセンスが問われるので体験できるきっかけがあるのは羨ましい。
    社会に出てしまうと教え方は自分で考える必要があるので教え方や聞き方の勉強はやらないよりやったほうが損はしないと思う。
    • 10
    • 一市民
    • 2013/2/2 0:24:45
    根拠がTVの内容で一方的で、考え方も一方的な方ですね。
    私は学び合いをすすめているものではありません。
    ただ、非常に読んでいて不快に感じました。

    あまりに一方的で偏狭なのです・・驚きすら感じます。

    >みな、自分の思いこんでいる虚像か、悪しき拡大解釈によって
    気に入らないものを否定し、それがあたかも世界を崩壊させるかのように煽る。

    私も同感です。
    全否定される根拠がまるでなく、個人的な見解で書かれていて、
    大変驚いています。

    こうした文章を載せる出版社もおかしいと思いました。
    • 11
    • MK
    • 2013/2/2 13:59:21
    表題を見た瞬間、「えっ?!(そんな馬鹿な!)」と思いました。

    私は教職大学院時代に「学び合い」を知り、その「学び合い」を授業で取り入れている学校で教えています。「学び合い」に対する多少の批判はありますが、そうかと言って一斉授業が100%ベストであると言うつもりも毛頭ありません。人間が考え出したものですから、どんな教育法にも必ず一長一短があり、各々の短所は他の方法で補ったり、組み合わせればいいのです。

    教育の発展は、まさにこの教育する側一人ひとりの教育法や教材の絶え間なき創造や共有、そして教育される側一人ひとりの共鳴・創造ではないでしょうか。本来はそれが「学び合い」授業の最高の目的であるはずです。舘野氏の意見は、この「教育する側による創造」という作業を放棄している(してきた)ようにしか思えません。まだまだ若手の教師である私が言うのもおこがましいですが、舘野氏の教育者としての資質を私は大いに疑います。

    4番さんの意見にもありますが、良き「学び合い」の実践例を多く作り、仮に舘野氏が近い将来「まともな」批判をするにしてもそれに耐えうる理論にすることが必要だと思います。
    • 12
    • 名無しさん
    • 2013/2/2 16:26:18
    わたしの周りでもよく聞きます。学び合い。
    でも全時間それでは行えないと聞きました。
    舘野氏の発信はすぐさまの反応があり興味を持つことができました。
    「学び合い」というの言葉の美しさに惑わされてはいけない、と言う意味だと思います。
    少なくても舘野氏に誤解を与えるものを「学び合い」とおっしゃってる方がいるのだと思います。

    • 13
    • 名無しさん
    • 2013/2/2 18:15:44
    「学び合い学習」に対する舘野氏の意見を読みました。
    私は「学び合い学習」に対しては肯定的に受けとめています。
    ただし、もちろん、批判的な立場の方もいらっしゃることは了解済みです。
    ただ、氏の論考の内容は非常に一方的で「不快」に感じました。

    この氏の論考を教育zineを通して発信した意図は何なんでしょうか?
    「学び合い学習」に対する議論を生むために発信されたのでしょうか?
    にしては、そういった断りもないように思います。

    ネットを通じた個人的な発信ならともかく、教育zineを通しての発信ですので、
    どのような意図があるのか説明して頂きたいです。

    • 14
    • いとP
    • 2013/2/2 22:04:22
     舘野氏は、「教育技術の法則化」運動を向山氏と一緒に進めてきた方です。
     ですから、法則化(TOSS)以外の実践は否定されるのでしょう。

     私は、法則化からも学びましたが、学び合い学習や協同学習からも多くのことを学びま した。実際に「学び合い」学習に取り組んでみると、子どもたちからの支持が大きいで す。

     上から目線ではなく、子ども目線に立って、子どもたちの学びに関わりたいと思いま  す。
    • 15
    • 名無しさん
    • 2013/2/2 22:31:31
    TOSSって、優れた教育実践を広めていくのがもともとの理念ですよね。

    もし学び合いが効果的だとわかったら(実際に効果的かどうかはしらないけど)
    舘野先生の考えも変わるのかしら。
    • 16
    • SO
    • 2013/2/2 22:47:50
    学生に教育学を教えている者です。教育オピニオンはしばしば拝見させていただいておりますが、今回、このような極論に近い記事が掲載されたことに、正直驚いております。特に、今後教職に進もうという学生がこの意見に賛同し、学び合いに対してネガティブに受けとめることを大変危惧しております。
    個人の意見を述べることは自由ですが、明治図書という教育界において発進力をもつ会社のホームページで今回のような記事が出たことに対して、戸惑いを感じております。
    舘野氏が例示した学び合い(?)の場面は、確かに問題があるでしょう。しかし、この事例をもって、学び合いを否定することは、果たしてこれからの教育を語る上で適切なことなのでしょうか。
    舘野氏の主張の特徴は、教育を教師から子どもへの知識伝達という側面でしか捉えていない点にあります。この側面を否定するつもりは毛頭ありません。しかし、学校教育は、単に子どもに知識や技能を身につけさせることが目的なのでしょうか。そうでないことは、現場に立っていない学生でも十分認識できるはずです。
    • 17
    • SO
    • 2013/2/2 22:49:23
    舘野氏が例にあげる自動車教習所は、学校教育法で定められた学校ではありません。学校と教習所を一緒に議論すること自体が不適切なことですが、この例にしたがって意見を述べるのであれば、教習所には、運転技術の獲得や免許取得という全員共通の目的・目標を目指して生徒が通います。教習所でこれからの生き方を学ぼうという人はいないでしょう。もしいるとすれば、教習所もこれまでの教官からの知識技術伝達というスタイルから、生徒同士の学び合いに変わっていくでしょう。
    こういう場に記事を書かれるのでしたら、21世紀に求められる教育・学力をどのように捉えているのでしょうか。また、フィンランドやオランダといった諸外国の教育の成果について、どのように捉えているのでしょうか。
    学び合いを否定するという大胆な主張をされる以上、こうした点に踏み込んだご意見を発信していただきたいと思います。そうでなければ、テレビのバラエティ番組ではありませんので、公の場での無責任な発言は現に慎んでいただきたいと思います。
    • 18
    • いとP
    • 2013/2/3 8:13:15
    極論に近い記事を掲載した明治図書の意図を私なりに解釈すると、
    1点目は、授業のねらいとは何か、ということです。ざっくり言えば、舘野氏は「学力の向上」です。指示・発問等を吟味し教師が教える一斉授業で。教えるー教えられる関係重視。一方、「学び合い」は、「学力の向上だけではなく、集団(人間関係)づくり」も授業(学び合い)を通して実現する。不登校やいじめの問題解決を、日常の学習そのものに含める」という学び合う関係重視。舘野氏の立場に立てば「学び合い」は「教えずに丸投げ」している批判の対象にしか見えないのでしょう。しかも、その「学び合い」が広がっている…。
    2点目は、明治図書の戦略です。30年近く、教育技術の法則化やTOSSとともに明治図書は教育雑誌を販売してきました。しかし、法則化・TOSSをリードしてきた方は高齢化し、若い人の中で「学び合い」の広がる勢いがすごい。そこで、TOSSオンリーから「学び合い」も取り入れて新しい読者(若い教員)の獲得をめざしたい。その一歩でしょう。
    • 19
    • 協働学力
    • 2013/2/3 8:38:40
    教習所での学びと教科の学びを比較する例は、素人がよく陥る教育学的無知からくるものです。学習者が知らないことを教えるには、教える人がいないと学べないという古い学習観ですね。学習者の知識は常に知らないところから出発し、教えないと知ることができないという考え方です。しかし、学習者は無知ではありません。先週拝見した算数の授業ではすでに知っていることを使いあって、学習が進んでいました。既知を用いた協働学習や学び合いでは、知らないことを教えるために、すでに知っていることを生かします。行動主義(させる学び)、認知主義(する学び)、社会構成主義(しあう学び)と学習のメタ理論が拡張する中で、今回のような主張が出ることはさせる学びへの逆戻りを良しするということでしょうか。新指導要領の記述で増えた、伝え合う、考え合う、協同して、・・・等とも相容れぬ考え方だと感じます。このままさらし者になるのもかわいそうな気がしますが・・・・・。
    • 20
    • 名無しさん
    • 2013/2/3 8:45:38
    是非「学び合い」を推進されている先生側の意見も聞いてみたいです。

    舘野先生との対談が実現すれば面白そうですが、
    そこまででなくても往復書簡的な連載でも興味深いです。
    • 21
    • 名無しさん
    • 2013/2/3 12:04:11
    このような印象批判がメルマガで流れてくることに疑問を感じます。

    「学び合い」「学びの共同体」『学び合い』の理論を知ろうとはしたのでしょうか。
    実際の授業での子どもたちの姿やノートを見たのでしょうか。
    • 22
    • ひろ
    • 2013/2/5 21:10:06
    このような文章を書くかたが管理職として学校のリーダーと勤務されていたことに愕然としました。職場でこのような論理を展開すれば、まさにウエから目線のパワハラです。いやパワハラという言葉さえ適当でない、暴力です。「学びあい」以前の問題です。残念でなりません。
    • 23
    • さん
    • 2013/2/8 18:41:02
    「学び合い」について卒業研究をしている大学生です。今年の春から教員になります。
    「学び合い」という言葉だけが人気になり、教師としての本質を見失う教師が増えることは、危惧されことであると思います。
    ですが、子ども同士で学び合う姿が「学び合い」のゴールではないと思います。
    「学び合い」はひとつの授業手段に過ぎず、他者との対話を通して、自らの知識を確立したり、多面的に物事をとらえる能力を身に付けることが「学び合い」の最大の目的であると思います。そのために教師は児童同士の思考をつなぐ支援をする必要があると考えます。
    この本質を理解せず、「学び合い」に飛びつくと、何の効果も得られないと思います。
    舘野先生の見た授業は「学び合い」の本質からずれているのではないでしょうか。
    • 24
    • 新里
    • 2013/2/8 22:11:31
    失礼致します。50代の教師です。色々なコメントを拝聴して、教育界に討論できる状況がまだ残っていることに感心致しました。ありがとうございます。
    舘野先生のオピニオンは、先生方が指摘するとおり論理の飛躍があるかとは思います。
    ただ、各先生方がNHkで紹介された授業映像を根拠にした意見交流になれば、もっと建設的な議論になるかもしれないと感じました。
    このオピニオン上でするのが適切かどうかは分かりませんが、いずれにしても、様々な立場の方が具体的な事実で討論ができる雰囲気は、教育実践の質の向上につながると思います。連合雑誌等で特集になることを希望致します。
    • 25
    • 名無しさん
    • 2013/2/10 3:01:59
    私は、氏が取り上げていると思われる(引用もないのではっきりしませんが)「学び合い学習」の「授業風景のTV」を視聴しました。氏が述べている「いきなり言われた」「大きな声で怒鳴り散らした」という事実は間違っています。子どもと教師にはやりとりがあり、教育的な文脈がありました。そこを一切に描写なさらず、事実誤認の文章を元に論を展開されること自体が残念です。結論先にありきの文章だと考えられても仕方がないと思います。事実に基づいて「検討」していく姿勢を大切にしたいと痛感しました。
    • 26
    • 名無しさん
    • 2013/2/11 23:51:07
    舘野氏への批判コメントが、上に多数ある。
    以下、部分を引用。
    「不快、さらし首、一方的で偏狭、公の場での無責任な発言」

    ここに書き込んでいる人間は匿名であり、舘野氏は名前をあかしている。
    書きこんでいる人間こそが、「匿名であるが故の無責任な発言」をしているように見える。学び合いへ賛成の立場、反対の立場、双方が名前を明かして紙上討論して欲しい。
    • 27
    • 場外乱闘
    • 2013/2/12 20:03:52
    やっぱり出た、場外乱闘。問題のすり替え。このレベルでは・・・・。
    • 28
    • デモニカスーツ
    • 2013/2/15 20:22:04
    流行りの共同学習にも弱点はあり、ともすれば教師の丸投げになってしまう危険性を秘めている。今こそ一斉学習の良さにも目を向けるべきではないかという主張であれば、耳を傾ける価値はあるかと思います。
    ただし、書き方が理解に苦しむ論理(なぜ教師がマスクを着用することが算数の力がつかないことにつながるのか?)を採用されていたり、「崩壊させる」「犯罪的である」という力強くキャッチーな断言をされていたりするため、なかなか賛同を得られなかったのではないかと思います。
    宗教でない限り、断言をするにはそれを裏付けるだけの根拠(持論の展開や精神論だけでなく)や的を射た具体例を例示することが必要なのではないでしょうか。そうでなければ、良い主張をしようとしても袋叩きにあってしまいます。
    • 29
    • AA
    • 2013/2/16 9:40:07
    11月に向山氏が産経新聞に書かれていたのと、ほぼ同じ論調ですね。今までの問題解決学習批判とも通じるものを感じます。
    いくつか、指摘したいところを述べます。
    まず、教科書については、前にコメントされている方もいますが、使うことが多いでしょう。そもそも、教科書は「学びあい」「問題解決学習」を前提として作成されています。実際の編集委員からも伺いました。算数でも一つの問題について、子どもの発言の形式で複数の意見が書かれていますね。教科書に準拠した学習は、「学びあい」になるはずです。
    • 30
    • AA
    • 2013/2/16 9:44:25
    続きます。
    「学びあい」の成果ですが、たとえば、秋田県、富山県、石川県では、県の学力向上プログラムの柱に「学びあい」を置いております。それぞれの県名と「学びあい」で検索すると、具体的な事例が沢山出てきます。
    これらの県は、文部科学省の学力テストでも上位に入っている県です。
    また、文部科学省の学力テストの結果を受けて出した授業改善の事例集、言語力育成のための事例集(いずれも文部科学省、国立教育政策研究所のホームページで閲覧できます)は、「学びあい」「問題解決学習」をもとに書かれています。
    • 31
    • AA
    • 2013/2/16 9:48:55
    続きます。
    また、「学びあい」は、1990年代からはじまっており(問題解決学習はそれ以前から)、もし「学びあい」で教育が崩壊するのであれば、とっくに崩壊しております(教育が崩壊するという意味もよくはわかりませんが)。
    私は、「学びあい」に対する学習は「一斉学習」ではなく、「講義形」の学習だと認識しております。「講義型」の学習は、各種調査で、「学習直後に成果は認められるが、時間が経つにつれて低下する」ことが明らかになっています。有名なのは、文部科学省の特定課題の調査です。つまり「覚えた事は忘れるが、理解した事は忘れない」ということで、この理解を深めるためには「学びあい」が欠かせないということです。
    • 32
    • AA
    • 2013/2/16 9:57:39
    ここのコメント欄自体が、「学びあい」になっており、誰もが日常で学びあっています。子どもの休み時間の会話を聞けば、多くの「学びあい」に出会います。「このゲームのやり方だけど...」「こうすれば..」「こっちのほうがいいよ...」。学びあうことは、子どもの、人の自然な姿です。
    今後も向山氏をはじめ、TOSS関係の方から、こうした論調が出ると思いますが、以上のことについても論じていただければ、うれしいです。
    • 33
    • 協働学欲
    • 2013/2/20 8:24:21
     友と学び 共に学び 学びを友とす。教示‐模倣‐協働というどの状況でも学習は起きえます。

     舘野氏の言う教示タイプの学習状況が必要な場面もあれば、協働が意味を持つ学習の場面もあります。特定の形式や構造の学習にのみ指導の正解が存在する訳ではありません。

     但し、知識も言語も社会的実践や他者との相互交換を前提として成り立つものです。教科の知識獲得も学習の目的ですが、これからは「考え合う能力」も学習の目的として重視する必要があるでしょう。協働できる能力も学力の一部です。教育や学習の目的を社会的方向にに拡張していくことが必要なのではないでしょうか。ヒトの学び型のデフォルトは、他者との関係を通して学ぶということなのですから。

     誰かから教わる学びも学び、誰かと考え合う学びも学び、そして教えた側も別の次元で何かを学んでいるのです。勉強〈が〉できる人ではなく、(多様な状況を)勉強〈に〉できる人を育てたいですね。
    • 34
    • 福島 毅
    • 2013/5/7 9:08:57
    Link and Createの福島と申します。23年間高校の教員をしてきて、今春定年前退職して独立し、若手教員研修などの企画実践などをしております。
    ここまでのコメントをみながら、ラーニングデザイン(学びを設計する)という立場から意見を言わせていただきます。

    「生徒の学力を伸ばすことと集団で協調・協業するマインドやスキルを学ぶこと」 学校にはこの双方の役割があると思います。その場合、指示・伝達による学びが有効な場面と、学習主体者どうしが能動的に学び合う協力協業的なモードが有効な場面が存在するのだと思います。
    つまり、生徒個人の成長・集団の成長といったベクトルでみたとき、どのような教育内容でどんな方法(一斉的、学びあい的)を選択して望むのが理想かという議論が今、必要なのではないかと思います。 つづく
    • 35
    • 福島 毅
    • 2013/5/7 9:15:13
    私も授業では、一斉な指示的場面と生徒自身による学びあいの場面をブレンドして授業デザインをしてきました。ただ言えるのは授業の50分なりを一斉授業型オンリーでやることはなかったですね。また、今、一斉授業型といえば、VOD(ビデオオンデマンド)型の利用者が増えています。わからない場面を何度も再生できたり、わかる場面は飛ばして再生できるといったメリットが受けています。 つづく
    • 36
    • 福島 毅
    • 2013/5/7 9:22:00
    ラーニングデザインという立場で言えば、例えば新しい概念・生徒だけの学びあいでは理解が困難な事項については全員に注意を向かせて伝える方が能率的で浸透するでしょうし、問題演習場面でうまく学びあいを機能させれば教員が1対1で対応しているより速く、また生徒目線での教え合いが起きる方が効率的な場面も多いはずです。マルチプルインテリジェンスという概念もあり、単なる言語や論理的思考能力だけを人間の能力と考えるのではないというものですが、こうした観点も重要です。
    それらを含め、教えかたのベストミックスは何なのかといったラーニングデザインという観点でも議論いただけるとありがたいです。
    • 37
    • 山本
    • 2013/5/8 9:01:15
    その学び合い学習方式は
    算数の年間の学習計画のなかでの
    何時間が当てられていたのでしょうか。

    4時間?
    12時間?
    まさか全部じゃないですよね
    学期中のどのタイミングでやるのでしょうか。
    まさか春じゃないですよね

    そのへんだけが気になります。
    • 38
    • オムらひろし
    • 2013/5/8 10:46:49
    交通法規を違反する人や自動車事故を起こす人のほとんどが免許所持していますよね。
    でも、学校の先生の意見は、こんな感じがいいと思います!

    授業は一斉、みんな平等、成績バラバラ、不登校、授業崩壊、就職難、早期離職、自殺者30000人超。学校の校長先生は何を目指しているのか気になりますね。
    • 39
    • 校長→園長経験者
    • 2013/5/8 13:30:34
    舘野氏の経験、年齢を考慮し、現在の教育委員会や文科省の状況をみると、舘野氏の発想や発言、見解がまさに日本の教育界の現状であろう。
    結論から言えば、時代や社会システム、イノベーションの変化のスピードに置いて行かれている教育者が、経験にもとづく見地と、功績という発言力や影響力という権力にもとづいて、自身が「時代に取り残されていく不安」を感情的に投稿したと解すことができる。

    すなわち、教師という職を安住の地として、学び続けることや研究し続けること、そして発展し革新していくことを怠り、過去の経験と功績を振りかざす「イノベーション否定」である。

    教師たる者は学問を世に伝播する使命者として、常に学び続け、変化を観察し、受け容れるべきもの、受け容れるべきでないものを研究し、現代社会に生きる多様な人々と交流して対話を重ね、受け容れ難きは現地に足を運んで現状を理解しようと努めなければならない。温故知新、不易と流行である。

    最後に、舘野氏の功績は心から敬服している。しかし、試行錯誤し研究している実践者たちを批判、否定してはならない。
    • 40
    • 協働学欲
    • 2013/5/9 18:09:32
     個と社会集団は、相互基盤であり、双方に軸足を置かざるを得ない。一人だけでも生きられないが、いつも集団という訳にもいかない。今、こうして使っている日本語というシンボル・システムも、情報を共有できる他者、そして受け継いだ自分がってのこと。これを、切り離してしまうと、訳がわかならくなりますね。個か協同か、両方とも社会内存在であるということでは同じです。

    思考錯誤は思考作語。意識は知識になり実践力の栄養分となる。日々挑戦している先生方にエールを送りたい気持ちです。
    • 41
    • 名無しさん
    • 2013/6/5 22:27:06
    舘野さん、もっと勉強してください。あなたの時代が終わりかけていますよ。
    • 42
    • 名無しさん
    • 2013/9/11 0:29:44
    あの・・・・、舘野先生の反論はまだですか?
    • 43
    • 通りがかりのモノですが
    • 2013/10/5 21:04:14
    酷い論調ですね。不勉強の極みです。おしまい。ち〜ん・・
    • 44
    • 学生
    • 2013/10/11 2:30:52
    学び合い という学習形態は昔からありました。
    しかし”場面に応じて”でした。
    常に”学び合い主体”では国が行う学力調査などに類する”学力”を身につけることが難しいと思います。
    学力を身につけたとしても、そのこどもたちは、勉強のできるこどもたち だけではないでしょうか(私は映像を見てそう感じました)。勉強の難しい子どもたちは出来る子どもたちに聞きます。子どもが教師になります。
    親はどう思うのでしょうか。子どもが子どもを教えていることに。
    学校の中でアウトプットを保証することはもちろん大切であるけれども、それを多用しすぎることに違和感を感じます。
    子どもたちが学び合う姿は美しい といいますが、”学力”は付くのでしょうか。
    以上、まだまだ勉強不足の私見ですが、お読みいただきありがとうございました。
    • 45
    • 小学校教員
    • 2013/10/18 21:41:22
    おわってる。このひとが校長やっている学校に配属されなくて本当によかった。
    逆に反面教師として、この年代になっても自分の考えに固執せず、子どもたちのために学び続ける教員に
    ならなければと決意を新たにすることができた。
    • 46
    • 学生さんへ
    • 2013/11/24 9:37:09
    「子どもたちが学び合う姿は美しい」から学び合いが取り組まれているわけではありません。
    九九や年号を覚えるだけのような知識を獲得する学習は学び合いは必要ではないでしょう。
    でも、大学では、なぜゼミがあるのでしょうか。大教室での授業とゼミとの違いはなんでしょうか。そこを考えて見ましょう。
    • 47
    • 高校教諭
    • 2013/11/26 10:11:12
    高校で教員をしています。授業研究で学び合いを取り入れるために調べる中でこのページに辿り着き、館野氏の主張、全コメントを拝見致しました。
    小学校と高校の違いがありますが、高校においても学び合いが実践される場面は少なくありません。授業でも、調べ学習や観察・実験、総合学習の時間で、生徒は未知の問題に対して相互に意見を出し、ときにインターネットや書物からの知見を持ち込みながら、問題解決に取り組んでいます。
    また、特に高校においては、学校行事の運営や生徒会主導の企画、部活動などにおいて、生徒同士の高め合いが見られます。これらは発達段階によるものも大きいですが、初等教育段階からの継続した学び合い学習の成果による要素も少なくないでしょう。コメントを残してくださっている多くの先生方、教育関係者の皆さんの努力の賜物です。
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