教育オピニオン
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社会生活に対応した国語科授業を創る
インターネットを活用した学習を充実させるための方略
群馬大学教育学部教授中村 敦雄
2011/8/24 掲載

一 問題の所在

 近年、調査等でインターネットを活用した学習が総合的な学習の時間はもちろん、国語科でも行われるようになった。こうした学習は、以前ならば学校図書館の活用が定石であった。だが、人的資源不足や図書予算逼迫により、残念ながら多くの学校図書館は期待された役割を果たせなくなった。一方、学校へのインターネット導入には予算が投入され、膨大な量の情報が得られる環境が整った。経済的・社会的な理由により、学習が大きく転換したのである。
 インターネットを活用した学習について、先日わたしは日本各地の中学三年生の意見を読む機会に恵まれた。意外だったのは、インターネットを使った調べ学習に対して不満をもらした学習者が、肯定的な反応を示した者よりも多かった事実である。なぜ彼らはそう答えたのだろうか。興味深いことに、その理由はほぼ同じであった。
 すなわち、ウェブページによって、書かれている内容が異なっていて、どれを信用していいのかが分からないから、という声であった。なかには、検索したページの情報を各自が正しいと信じるあまり、授業中に言い争いが起こった教室もあるという。
 学習者はインターネットを好んでいる、と考える教師は少なくないだろう。だが、右のような声からすると、学習場面における機微は教師側には十分に把捉されていないのではないか。さらには、適切な対応も十分には取られてはいないのではないか。
 こうした問題に対して、わたしは以下に述べる理由から、国語科として直ちに対応すべき重要課題であると訴えたい。中学校の学習指導要領が「社会生活」という文言を挙げているだけに切実な課題である。

二 解決すべき第一の問題点

 前節の惨状について、じゃあ、インターネット活用をやめよう、という声もあるかもしれない。だが、現時点での浸透からすれば、時計の針を戻すことはむずかしい。
 第一の問題点はインターネット活用上の具体的知識や情報吟味の方法が学習活動として正当に位置づけられていない実態である。個々の教師の問題というよりも、もっと大きな問題である。教科が縦割りになっている弊害で、インターネットの管轄は技術科だろう、いや社会科だろう、と譲り合ってきたため、社会生活では必須であるのに、学習としての位置を得ていないのだ。
 そうしたなかでも国語教科書はつねに最新の内容へと更新され続けてきており、インターネットを扱った教材も掲載されている。だが、検索する時に、どんなキーワードを入力すれば、適切な情報が得られるのか、その正しさはどうすれば確認できるのか、といった点にまでは踏み込んでいない。
 そもそも検索ページは営利企業の提供によるものであり、特定の語に対して特定企業のページが優先的に紹介されている事実にお気づきの方も多いだろう。便利さや、親しみやすさの一方で、それが公平無私な索引ではない事実を知るところから始めなければならない。
 また、たどり着いたウェブページについても、その発信者は公共機関なのか個人なのか、客観的な情報提供なのか営利目的なのか、さらにはどういう思想や価値観の持ち主なのかを確かめる必要がある。
 おそらく読者諸賢はこうした注意を読んだのが初めてということはないだろう。一般論としてはよく言われている。だが、こうした知識も、一般論にとどまっているあいだは実効性に乏しい。教師が事例に即して具体的に指導を行う必要が指摘できる。

三 解決すべき第二の問題点

 第二の問題点は、先の中学三年生は「信用」「信じる」という語を多く使っていたが、情報とのつき合い方に慣れていない実態が指摘できる。インターネットに限らず、メディアの情報を鵜呑みにする向きは大人も含めて少なくないが、こちらの問題点は国語科の責任がより大きい。
 すなわち、ことばの働きがどうなっているのかを分析的に考える経験が少ない実態に由来する。その発話は客観的な報告であるのか、相手の解釈が入り込んだ推論であるのか、それとも主観的な断定であるのかが区別されないまま混同されがちである。さらには、次の二つの課題が指摘できる。
 一つ目として、一般的に教科書中心でカリキュラムが構成されていることから、ことばをクリティカル(批判的)に読むことが実感できない実態が指摘できる。教科書は検定制度を経ているため、基本的には、そうした意識を働かせなくとも、「ありのままに」理解すれば、正しく理解できるといった大前提が今もって生きている。こうしたあり方を克服して、社会生活への対応をはからなければ、学習指導要領に謳われた国語科の新課題は画餅に帰しかねない。
 二つ目として、宇佐美寛氏が早い時期から指摘していた(注)ように、学習指導要領の記述が「事実と意見」にとどまり、社会生活で出会うことばの機巧を捉えるには不足していることが指摘できる。右でわたしは、報告、推論、断定の区分に言及したが、これはS・I・ハヤカワ氏が『思考と行動における言語』(岩波書店)で挙げたものである。「事実と意見」という枠組みをより活用可能な概念へ改善する必要がある。
以上のことはインターネットに限ったものではない。印刷媒体についても通底している。だが学校図書館と教科書がフィルターの役目を果たしてきたので意識化せずに済んだのである。そうであったのが、外部の情報が直接学校に入ってきたことによって、わたしたちに突きつけられたのだ。わたしたちの迅速な対応が求められている。

注 宇佐美寛『国語科授業における言葉と思考』明治図書、一九九四年。

実践国語教育研究2011年8/9月号より転載

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