著者インタビュー
新刊書籍の内容や発刊にまつわる面白エピソード、授業に取り入れるポイントなどを、著者に直撃インタビューします。
生徒指導の<目的>と<目標>を区別し、率先垂範することが鍵
麗澤大学非常勤講師寺崎 賢一
2015/4/7 掲載
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  • 生活・生徒・進路指導
 今回は寺崎賢一先生に、新刊『生徒指導入門』について伺いました。

寺崎賢一てらさき けんいち

1953年生まれ。1976年早稲田大学教育学部卒。2002年早稲田大学大学院教育学研究科修士号取得。同博士課程に4年間在学。元公立中学校教諭。麗澤大学非常勤講師。「M・F・Cチームワーク指導」の提唱者。また、構造主義による文学的文章の主題読み指導の提唱者。日本生徒指導学会」「日本道徳教育学会」「全国大学国語教育学会」「教育哲学会」に所属。著書に『分析の技術を教える授業』(明治図書)、『問いの読み方』(吉野教育図書)、『危険な教育改革』(鳥影社)、編著書に『THE 生徒指導』(「THE 教師力」シリーズ、明治図書)などがある。

―本書は「THE教師力ハンドブック」シリーズの1冊として、テーマは「生徒指導」です。まず本書の特徴とねらいについて教えて下さい。

 それこそ全国的な校内暴力真っ盛りの初任の時代からずっと、中学校の生徒指導を前線で担ってきました。その長い体験から行き着いた「生徒指導の極意」を披露しています。
 初任のころからもう「俺がやらなきゃ誰がやる」という気概を持っていて、誰もが避けたがる嫌な役割を率先してやってきました。まず、番長格の生徒との渡り合い、クレーマーの親との交渉(聞くべきは聞いて、言うべきはきっぱりと言ってきました)、つっぱりの他校生が集団で押しかけてきた時には先頭をきって対応をし、不審者が来た時にも身の危険を感じつつも先頭に立って毅然と対応してきました。
 45歳までの私はどちらかというと、「ツッパリ教師」でしたね。管理職に対しても納得がいかない時には牙をむくことがありました。しかし、独断専行であったために生徒指導上の失敗も当然あって、行き詰まりを感じたことも多かったんです。ところが、私自身が「徳を求める心のコップを上向きにして生きる」ことを決意した時点から、生徒指導上の失敗が減少し、成功が増えていき、教師としての生きがいを感じる場面が急増していきました。そんな物語も交えつつ、指導理論を展開してみました。

―第1章では、まず「生徒指導において方針や行動がブレると崩壊へつながる」ことが述べられています。ブレない毅然とした指導には、まずどのようなことが大切でしょうか。

 一番大切なのは、「肚を据える」ことです。荒れた学校を収束させた校長は、みな腹を据えています。つまり、気概をもった教師を前面に立てて「後の責任は俺が持つ。思いっきりやれ」と肚を据えた校長のいる学校が正常化しています。
 私は初任早々荒れた生徒たち相手に「肚を据え」、番長格と渡り合いました。その時の校長たち上層部は肚を据えるまでに至らず逃げ腰でしたから、結果として私が先頭に立ちました。そうすると後ろから他の気概のある若い先生方が必ずついてきてくれました。もちろん、内心ドキドキものですよ、いつだって。しかし強い「使命感」で自分を叱咤激励するのです。「教師としての使命は何か」と、大きな問題にぶち当たるたび、私はかなり深い部分まで熟考しました。そしてそれを「信念」にまで育て、その信念が私の肚を据えてくれたのです。
 学級経営にしろ生徒指導にしろ使命感、つまりは目的、志を強く持つことで肚が据わるのではないでしょうか。「荒れた学校は学校なんかではない。ならばつぶしてしまうべきだ。しかし、つぶすことができないのなら、立て直すしか道はない」と自分を鼓舞したものです。

―では、その次に「ブレない」ために大切なものはなんでしょうか。

 教育の目的の一つである「徳育」の重要性に気づき、「徳育」を基準に据えて教育問題を考える習慣を身に付けることです。習慣化して「信念」にまで育てることが大事です。たとえば、学校をサービス業と考えてわがまま放題にいろいろ要求してくる親や子どもに対しても、「徳育」の立場から「それは徳育上よくありませんので、できません。我慢こそ大切です」とはっきり言えるようになります。しかし、教育の目的を「知育」だけとしか考えていない今日の多くの教師はそれができないために、振り回され、ブレて、崩壊を招いてしまうのです。

―本書の中で生徒指導の在り方として「M・F・Cチームワーク指導」についても触れられています。この指導について教えてください。

 「M」はマザー教師のことで、カウンセリング・マインドで生徒に接する教師のことです。愛情を持って世話をし、話を聞いてやり、そのうえで進むべき道を説得して示し、最後まで見捨てない、そういう役割の教師です。
 「F」はファザー教師のことで、学年全体の規律、進むべき方向性を示し、そこからはみ出すツッパリ系の生徒を毅然と指導する役割の教師です。
 「C」はチャイルド教師のことで、生徒のお姉さんお兄さんのような役割の教師のことです。生徒と一緒に遊び、愚痴を聞き、冗談を言い合える教師です。生徒のガス抜きの役割をします。対等になってしまうと指導が入りませんから、兄貴肌、姉貴肌の雰囲気は必要です。
 教師集団は教師それぞれのキャラクターに合わせてこれらを役割分担し、自分の役割では足りない部分を他の役割の先生にフォローしてもらいます。このチームワークによって教師も生徒も救われるのです。詳しくは私が編集・執筆している『THE 生徒指導』 (明治図書、2014年)を参照して下さい。

―第4章では「感化の力」の重要性が述べられています。これについて教えて下さい。

 とりわけ「徳育」というものは、その大部分が「感化」によって教えられていきます。大人が口で教えようとしても、その大人が教えに反することをしていては、子どもは白けてしまいます。
 反対に、口で言わなくとも、日常生活を通して背中で徳の道を示していれば、子どもはその美しさに感動してその教師を尊敬し、真似ていこうとします。ただし、子どもに教えるためにしているのではすぐに見透かされてしまいます。教師自身が自らの徳を磨こうという意志をもちそして実践し、その結果としてたまたま背中でみせることになる、というのが理想です。
 カントも孔子も仏教もキリスト教もいずれも、人間の使命は「徳性を高めることだ」と説いています。多くの人が考えているように、自分の欲望(善い欲望にしろ)が満たされた心的状態であるところの「幸福」、それを手にいれることが使命ではないと言っているのです。むしろ「幸福」は徳性を高める(これを精進と言います)ための手段だと言いきっています。「行く道は精進にして、忍びて終わり。悔いなし。」とは千日回峰行を2度も満行された酒井雄哉大阿闍梨の言葉ですが高倉健さんが座右の銘としていた言葉だそうです。

―憲法では国民の表現の自由を保障しているのに、なぜ学校ではその自由を規制できるのでしょうか。

 憲法で保障されている「国民の表現の自由」は、「国民の表現の自由を国家権力は侵してはなりませんよ」と国家権力に対して命じたものであり、それ以上でもそれ以下でもありません。つまり国民に命じたものではないのです(国民に命じている章は「国民は」と明確に書かれています)。この憲法の精神を「立憲主義」と言います。そして憲法で保障された国民の自由空間(これを消極的自由空間と言います)は、今度は国民同士で埋めていく空間となります。法律や条令や就業規則や校則や約束によって……。これ以上の詳細は本文に譲ります。

―最後に、読者の先生方にメッセージをお願いします。

 本書では成功の極意やたくさんの成功例が載っております。しかし、成功の背後にはたくさんの失敗がありました。その失敗から謙虚に学んだからこそ、成功が生み出せたのです。中でも一番の失敗は、45歳になるまで「徳」の大切さに気づくことができなかったことです。それだけは、無念でなりません。また、恥ずかしい限りです。皆さんにはそのような後悔をしていただきたくないのです。

(構成:及川)

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