教育オピニオン
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「チームとしての学校」実現のために教職員は何をすべきか
東北大学大学院教育学研究科准教授青木 栄一
2017/5/1 掲載

ヒット作品としてのチーム学校

 「チーム」という語はスポーツにおける「チームプレー」や「チームワーク」を想起させる。文部科学省は、この好ましいイメージの言葉を用いることで、学校運営の改善、教員の多忙対策、教職員配置に至る包括的な政策パッケージを構成することに成功し、2015年から2017年度予算編成でも「チームとしての学校」関連の教職員定数改善が持ち込まれるという「戦果」をあげた。

「チームとしての学校」の範囲

 中央教育審議会答申「チームとしての学校の在り方と今後の改善方策について」(以下、答申)では「チームとしての学校」の範囲を、「(前略:引用者)校務分掌上、職務内容や権限等を明確に位置付けることができるなど、校長の指揮監督の下、責任を持って教育活動に関わる者(後略:引用者)」と示されている。
 しかし、「チームとしての学校」の範囲についてはゆらぎや誤解が生じているのも確かである。議論の発端となった自民党教育再生実行本部の議論においては、学校と地域がチームを組む状態を「チーム学校」と表現されており、地域住民や保護者のボランティア精神への期待がにじんでいた。これに対して、中教審の議論では一貫して「チームとしての学校」という用語法であった。また、答申が出された後でさえ、校長たちは「チーム」という語を教員が構成するチームが外部の専門家を活用するという文脈で用いる(『内外教育』2016年2月19日、15頁)。

異なるバックボーンの同僚同士であることを認識する

 さて、答申では従来の教職員のほかに、専門スタッフというカテゴリを設けた。専門スタッフには、スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー、ICT支援員、学校司書、外国語指導助手、部活動指導員、特別支援教育支援員が例示された。このような専門スタッフも教職員ともども「チームとしての学校」の一員となる。つまり、教職員も専門スタッフも職場としての学校における同僚である。
 ここで重要なことは、教職員と専門スタッフは異なるバックボーンの同僚同士だという事実である。すでに配置されているスクールカウンセラーを中心に考えてみよう。第一に、学歴が異なる。スクールカウンセラーの多くは臨床心理士資格をもつから修士の学歴である。これに対して、教職員のほとんどは学士の学歴である(地域によっては学校事務職員は高卒採用である)。第二に、雇用形態が異なる。教職員の多くは、非正規雇用が増えてきたとは言え、依然としてフルタイム・終身雇用の教諭で占められている。他方、スクールカウンセラーは日給や時間給で雇用されることが多く、終身雇用でもない。特定の学校でのみ勤務するというよりは、拠点校に配置され、巡回することがある。

教職員と専門スタッフの人間関係を耕すのは校長の仕事

 「チームとしての学校」のトップは言うまでもなく校長である。校長はこれまで主席教諭という性格が強く、マネージャーとしての能力を問われることは実際にはなかった。むしろ管理職となってからも、自らの専門とする教科にこだわる校長が多いほどである。このように、ほとんどの校長は、教員の世界観を理解することはできるが他職種に対する想像力は働かない。答申では「多職種」とさえ表現されている「チームとしての学校」において、校長は果たしてマネージャーとして務まるのだろうか。そもそも学校はモノカルチャーの職場であり、その歴史的慣性の法則が働く限り、校長が不作為を続ければ、「チームとしての学校」のスローガンの下では教員だけが一致団結してしまう。しかし、マネージャーとは本来、異なる職種を束ねることで、組織力を発揮させることに存在意義がある。比喩的に言えば、「温泉旅館の女将」のように各部門に目を配らなければならない。

同僚であることを可視化する

 しかし、そもそも専門スタッフも校長の指揮監督下で仕事をしていると考えたくないかもしれない。専門スタッフにはそれぞれの業界があり、そちらへの帰属意識が強いからである。それでも、校長はマネージャーとしての役割を果たさなければならない。教職員個々人も、専門スタッフと同僚として付き合っていかなければならない。その理由は簡単である。そうしないのは、マンパワーと人件費の無駄遣いだからである。そして、いつものように専門スタッフとの「連携」担当教員を置くようなことはしない方がよい。そういう悪しき「担当」主義による担当への丸投げは「チームとしての学校」を阻害する。
 では、具体的にどうすればよいか。専門スタッフもすべて職員名簿に掲載するのは当然だとしても、顔写真付きで、自己紹介を学校だよりに掲載するのはどうか。ところで、例えば、スクールカウンセラーだよりを発行する学校はあるが、それは校長と調整したうえでのものだろうか。むしろ、学校だよりと「タテワリ」状態となっていないだろうか。これは、学校事務職員の発行する「事務室だより」と共通する分立状態である。児童生徒や家庭にとっても教職員や専門スタッフがばらばらに情報を提供する状態は果たして好ましいことだろうか。学校の内部管理の問題としても情報の重複が生じたり、情報の齟齬が生じたりするのではないか。確かに、それぞれがばらばらに発行する方が楽かもしれない。しかし、情報のやりとりをする中で生じるコンフリクトを克服することではじめて、「チームとしての学校」らしさが見えてくるのではないか。
 また、時間勤務のため、打ち合わせ時間がとれないのであれば、専門スタッフ全員が集まれるのが午前中だとすれば、そこで職員会議を開催してはどうか。学校としての意思決定の場に専門スタッフが同席しないのは「チームとしての学校」の姿ではない。その前提条件として、職員室に専門スタッフの座席を設ける必要があるだろう。専門スタッフのための部屋が設けられるのはよいとしても、「チームとしての学校」の可視化された姿として、職員室の重要性を再考すべきである。保護者や地域住民にとって学校を感じるのは、学校行事であろう。学校としても学校行事を重視するのが一般的である。そうであるならば、専門スタッフもまた学校行事に参加するのを前提に、スケジュール調整や予算措置を行うのがマネージャーとしての校長の役割であるし、それに協力するのがチームの一員それぞれの責務である。

 ここで示したアイデアを見て、肩すかしを食らったと思う方も多いだろう。しかし、これまで提唱されてきた企業経営の模倣策をどれだけの学校管理職が実現できたであろうか。横文字を読んだり使ったりすることで、何となく自分が有能な経営者になった気持ちになっても、何も状況は変わらない。むしろ、今日からできることから始めるしかないのではないか。

参考文献
青木栄一(2016)「『チーム学校』政策の背景についての教育行政学的解釈」『教育展望 臨時増刊』第48号、62-68頁
青木栄一・廣谷貴明(2016a)「専門スタッフとの連携をどうするか」『教職研修』第44巻第6号、25-28頁
青木栄一・廣谷貴明(2016b)「チーム(としての)学校の政策過程がもたらしたインパクト」『教育制度学研究』(日本教育制度学会)、第23号、162-169頁
文部科学省(2016)『平成27年度スクールカウンセラー実践活動事例集』

青木 栄一あおき えいいち

■東北大学大学院教育学研究科准教授■東京大学教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)■専門分野:教育行政学、行政学、地方自治論、公共政策論■日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院教育学研究科基礎学力研究開発センター拠点形成特任研究員、国立教育政策研究所教育政策評価・研究部研究員を経て現職■単著書『地方分権と教育行政』(勁草書房)、同『教育行政の政府間関係』(多賀出版)、編著書『復旧・復興へ向かう地域と学校』(東洋経済新報社)、分担執筆 Five Years After: Reassessing Japan's Responses to the Earthquake, Tsunami, and the Nuclear Disaster. Keiichi Tsunekawa ed. University of Tokyo Press.■中央教育審議会専門委員(初等中等教育分科会チームとしての学校・教職員の在り方に関する作業部会)、文部科学省「学校評価の推進に関する調査研究協力者会議」委員、宮城県高等学校入学者選抜審議会副委員長、横浜市教育委員会「横浜教育改革会議」教育行財政部会専門委員、品川区立八潮学園「校区外部評価委員会」委員長等を歴任■日本教育行政学会理事、日本教育経営学会理事、日本教育制度学会理事■ホームページ(東北大学):http://www.sed.tohoku.ac.jp/cgi-bin/psced_wiki/wiki.cgi?page=FrontPage
ホームページ(リサーチマップ):http://researchmap.jp/read0124718/

コメントの一覧
2件あります。
    • 1
    • 名無しさん
    • 2017/5/7 12:08:42
    午前中の職員会議を提案する段階で、現場をわかっていない人の理想論です。しかも、今どき、専門スタッフのイスが準備されてない学校があるのでしょうか?どんなことかいても、参考にしたいとおもいません。
    • 2
    • go
    • 2018/1/25 18:56:15
    同感します。午前中の職員会議は別として、チームとしての学校が成立しなくなってきていることには共感します。自己責任で片づけてしまい、生徒の利益に焦点が合っていない、現在の教育に憂います。
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