私が主宰する花まる学習会では、某県を中心に公教育支援に入って8年目になる。交通費と給食という御礼のみで、なぜ続けてきたかというと、そもそも20年前に「塾という在野でモデルを作り、いつか公教育を改革すること」をスタート時の目標として設立したので、受け入れてさえくれればやりたかったからである。
最初はへっぴり腰で「とにかく先生の日常業務に新しい仕事を増やさないこと」に注意して、月1回の「思考力指導」の授業を、1日かけて全学年に行うというものであった。表面的な反発はまったくなかったわけではないが、一人ひとりの先生方は、みんな子ども思いでまじめな良い方ばかりだったし、中には非常に好意的に応援してくれる方もいらっしゃった。8年たってその数は増え続けている。
時間をかけて信頼を得てからは、クラス全体で「問題作成(私が作っている「なぞぺー」というパズルを土台として、パズルの問題をたくさん作ってもらうこと)」をお願いして協力していただいたり、花まる漢字テスト(略称「花漢」)という漢字検定のシステムを、学期ごとに行うことを承諾していただいたりして、確実にかかわりは深いものに育っている。
最近では、その現場で教頭先生だった方が異動で校長先生になられた学校で、同じシステムが始まったり、先生や役所の方がそこを見学に来た別の県の公立小から、とうとう弊社社員が自治体に年間常駐の形で学校支援をしてほしいという依頼まで来るようになった。きっと最初の感覚としては異物であったろう私たちを、温かく受け入れ協力してくださった、これまでかかわった先生方に心から感謝したい。
さて、もし夢がかなうならば、公設民営で、人事と予算に責任を持つような形で、やる気のある先生方と共に、新時代の公立のモデル校を構築したいという思いを持ってはいるが、カスミのような夢を語っても仕方ないので、ここでは公教育に足りないと思われる1点を指摘するにとどめる。
私は今、「学び方の学ばせ方」についての本を書いている(明治図書より近刊予定)。特に、学校の先生方向けに、児童・生徒の学び方指導、ノート指導法をどうすべきかを紹介するものだ。現在の学校制度の中では、「台形の面積の公式は5年生」「2次方程式の解の求め方は中学3年生」というように、知識をいつ教えるかというスケジュール表(指導要領)はあるけれど、個々の生徒がたとえば「テストで間違った問題を、どう次に活かすべく定着させればよいのか」という点での「具体的な学習の仕方」の指導法は、体系化された形では存在しない。
もちろん現場の先生方が、それぞれ困っている子にアドバイスはされているということもあるだろうが、我々の教室に通っている子たちから聞く最大公約数の声は、「学校では教えてくれない」である。先生方が悪いのではなく、制度の問題。日本中に、ものすごい数の学習塾が存在し成立しているのは、そこに陥穽があるせいで、「どう勉強すればよいかを教えてほしい」というニーズが発生しているからだとも言える。
「勉強をする」とは「ドリルなどをひたすらたくさん解くことだ」ととらえている生徒や親もたくさんいるが、もちろん誤りだ。学習の量はもちろん大切だけれど、一番大事なのはできなかったときの対処である。「1問を大切にして、『だいたい分かった』などという自分だましに走らず、やった以上絶対に理解して前に進む。分からないままにしない」という原則を見失わず、@何が分かっていないかを見極め、A今後できるようにするための教訓を引き出し、B完全に定着するまで、よい期間をおいて反復する、ということだ。この本では、そういうことができる子になるための低学年時代からの指導や、高学年以降を中心としたノート指導法などについてまとめた。
塾が学校と異なる最大の点は、生徒から「授業が分かりにくい」と言われたり、生徒の学力が伸びなかったら、即、メシの食い上げであることだ。養うべき家族を抱えつつ日々その切実の中で教えているので、必然的に学習の仕方の指導には注目せざるを得ない。だからノウハウもたまっている。私たちの花まる学習会だけでなく、全国津々浦々の個人塾から都会の大手学習塾まで、それは必ず持っているはずだ。
外部リソースとして、近くの学習塾にも協力を要請してみてはどうだろうか。学校も助かるし塾も誇らしい。
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- 恊働学欲
- 2013/3/21 20:31:51
私は子どもの頃、オール1の成績でした。「分からないという子どもの分からなさが分からない」「分かる授業よりも、わかりたくなる授業」・・・この辺りに問題があるのではないかと感じます。塾か公立かというディコトミーで捉えること事態が危ない。公教育の優れた実践家を数多く知っている者としては、こういう公教育の知見も生かしたいもの。理解研究は事例研究であり(白水・波多野)ここを疎かにすると体系化もシステム化も意味を失う。公立化が効率化が単純にとって変わることの危うさ、ハイパーメリトクラシーとモダンの枠に留まる基礎基本の重視をどう整理するか。ハイステイクスな分かりやすい大衆学力観をどう変革していくかだ大事ですね。