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巻頭論文
算数授業へのこだわり
神は底部に宿り給う(原則は一見,小さなことの中にある)
向山 洋一
向山型算数の指導法を身につけるのは,それほど難しいことではない。
素直に学ぶ人なら,すぐに上達するだろう。
「素直に学ぶ」には,若いうちがいい。
我流にそまっていないからだ。
人間は誰でも,経験したことを身につけていく。例えば,「わり算の指導法は,こんなものだろう」と身につけていく。
「子どもの事実を直視する」人なら「分からない」と反応している子どもたちから,自分の指導法を反省することになる。
やり方を工夫し,少しは前進をする。
「子どもの事実を直視しない」人は,「分からない責任」を子どものせいにする。
「自分は,これだけ熱心に教えているのに分からないのは子どもが悪い」というわけである。
「子どもの責任にする教師」は,永久に技量は向上しない。
職員室で「子どもの悪口を言っている教師」は,教師の技量は最も低いところでストップする。
俗悪な指導で,子どもたちに害毒を流し続け,教師の生涯を終える。
そんな教師がいっぱいいる。
「学力テスト」などの評価をされることもなく,「技量検定」などの評定をされることもないから,教師は一生を,よどんだぬるま湯の中ですごすことになる。
ワタミフードの社長が,私立中高の理事長になった。「よどみ」を改善したとたん,教育の質は急上昇した。ただし,年をとった2割ほどの教師は,改革についてこれないで落伍していった。
「素直に学ぶ」人でも,年をとっていくと我流が身についてくる。
「我流の考え方」が頭の中を支配している。 「我流の見方」で,向山型算数を理解することになるのである。
「我流という色メガネ」で見ることになるのだ。
若いうちは色が薄く,年とると濃い色になってしまっているのだ。
そうした「我流」を抜け出すには,ライブで学ぶのがいい。本家からライブで学ぶのが一番だが,力ある先輩から学ぶのでもいい。
ライブを体験すると,「本では分からないとはこのことなのだ」ということに気づく。
あまたの人々が言っている通りである。
ただし,ライブでもときどき間違いがある。
例えば,わり算の指導の最初に「Aにたちますか,Bにたちますか」という部分がある。
簡単そうで難しい。
分かったつもりでやると99%の人が間違える。
有名人の講師が何人か,間違えて解説していた。有段者でも間違えるのだ。
何気ないこの指導について「難しさに初めて気がついた」のは,甲本氏だ。
日本中で,たった1人だ。甲本氏の解説は正しい。
従って,甲本氏は正しく再現できる。
しかし,正しく理解できてない人もいる。
上級になるほど「こんな小さなことが」と思えることが大切になる。小さいことだが,基本原則なのだ。料理でも,音楽でも,野球でも,同じことなのである。
例えば,今月号の論文審査。次の問題だった。(東京書籍『あたらしいさんすう1』P.94)
論文を審査するとき,焦点を絞って読む。
ポイントを見るのだ。
ポイントを読むだけで授業の力量は分かる。
今回の場合は,まずは前から6人目のひろしさんを確認することだ。何らかの印をつけることになるだろう。
これは,当然やるべきことで,これができてない人は,「教師に向いてない」と言われてもしかたがない。
それほど,初歩的なことだ。
さすがに,ほとんどの人はできていた。
次のポイントは「うしろに4人」のところだ。
簡単そうに見えて,ここで力量が分かれる。
「機械的に扱う人」と「子どもの考えに沿ってみる人」に分かれるのだ。
「機械的な人」は,「うしろに4人います」と,教師が確認して終わりとなる。
このように,授業する人は「5点」というところだろう。
少し,ましな教師は「木の所に2人隠れている人だね」と言ってしまう。
木の所に,人の形をかかせたりするわけだ。
このようにした人が,ほとんどだ。
点数にすると「12点」ぐらいになる。
「機械的な人Bタイプ」で,「5点」のAタイプと,さして変わらない。
「ひろしさんのうしろに2人しかいないよ。変だね」と聞く人は,「機械的に扱う人」を抜け出しつつあると言えよう。
子どもたちは「木の所に隠れているよ」と見つけることだろう。
このように扱った教師は,6名。
35点はつけられる。問い方が自然だ。
その上はいなかった(かすった人はいる)。
私なら「木のかげではなく,最後の男の子のうしろから遅れているんだ」と言う。
「そうだね」と言う子もいよう。
「木の所に隠れている人だ」と言い張る子も出てくるだろう。
教室は,2つに分かれる。
「私は,この絵だけじゃ分からないからどちらでもいいということにしよう」と言って,子どもたちの反応をうかがう。
先生方は,どう考えるだろう。
「木のかげにいるか,または遅れていると考えられる」という向山のまとめに対してである。
私は,しばらく,じっと待つ。
「これでいい」ということになれば,向山学級の「知的水準」は,低かったのだ。
つまり,向山の指導は,まだ未熟であったということになる。
でも,向山学級の子どもなら,必ず言う子が出る。「それは,おかしい。先生のまとめは間違っている」というようにである。
私は「そうかなあ」と言って「今の太郎ちゃんの意見に賛成の人」「先生のまとめに賛成の人」と手を挙げさせるだろう。
太郎ちゃんを追いつめるのだ。
「みんなは,先生の方が正しいと言ってるよ」と言って。
太郎は,必死に考える。
そして,叫ぶのだ。
「教科書に書いてある!」
――どこに書いてあるの?――
「この絵は,汽車ぽっぽ遊びだ!
だからみんな前の人をつかまえているんだ。
最後の子は,前の人の肩をつかまえているんだ。だから,2人は,やっぱり木のかげにいるんだよ」
そこで,私は,みんなに聞く。
「太郎ちゃんの言うことが正しいと思う人?」
今度は,たくさんの子の手が挙がる。
私は,言う。
「すごいなあ,太郎ちゃんは。たくさんの人と意見が違っても,正しいと言ったんだ。そして,証拠まで探したんだ。先生,びっくりしちゃった」
授業とは,このようにするのである。
知的な格闘技なのだ。
このような組み立てを考えた人はいない。
ただし,「汽車遊び」をおさえた人は2人いる。50点。
向山型算数は「教科書通りに教える」。
しかし,これができる人は,1000人に1人もいないと言い続けてきた。
次に「リズムとテンポ」がなっていないのだ。
まずは,余計な言葉が多すぎるのだ。
さらに私は言った。
「噛んで含めるような教え方はしないのだ」
それは,知的でないからだ。
「教え方の手抜き状態をあこがれるのだ」
ここが,難しいのだ。
教室には「できない子」と「できる子」がいる。両方を満足すべきだ。
すると「できない子」の満足ばかり考えてしまう。
「できない子」の満足は大切だ。一番目に考えるべきことだ。
しかし,「できない子」も進歩する。
「できない子」にも,次のステップがある。
「できない子」でも,食いついてくる問い方がある。
が,多くの向山型算数の授業者は,「ていねいな上にもていねい」な授業のみをしてしまい「知的成長,知的興奮のすばらしさ」を授業の中に作り出せないのである。
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- 明治図書