教育オピニオン
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視覚イメージを見ないアファンタジア
知覚・認知の多様性への理解から始めるインクルーシブな社会の構築
福島大学人間発達文化学類准教授橋 純一
2023/11/1 掲載

「頭のなかでりんごを思い浮かべてください」

 このように言われたとき,みなさんは頭のなかでりんごが見えますか? 目の前には実際に存在しないけれど,頭のなかで見える視覚的な像のことを心理学では「視覚イメージ」と呼んでいます。

視覚イメージを見ない人もいる:アファンタジア(aphantasia)


 最近になって,視覚イメージを見ない(見えづらい)人もいることが明らかになってきました。先ほどの例で言えば,「りんご」を頭のなかで見ていない(見えづらい)ということです。これは「アファンタジア(aphantasia)」と言い,2015年にZemanという研究者によって提唱されました。
 それでは,社会ではどの程度の人がアファンタジアに該当するのでしょうか? 海外の調査(Dance et al., 2022)では,3.9%の人がアファンタジアに該当するという報告があります。私たちも日本で調査を行い(Takahashi et al., 2023),3.7%という割合が得られています。このことから,社会ではおよそ4%程度の人がアファンタジアに該当すると言えそうです。
 「アファンタジアは障害なのか?」 このような質問を受けることがあります。障害=不適応状態にあるかどうか,という基準で考えますと,不適応が生じている当事者も存在しています。一方で,当事者からは「特に生活で困ることはない」などのコメントをもらうことも多いです。また視覚イメージを見る人であれば視覚的に思考する場合が多いかもしれませんが,当事者のなかには言語的(命題や記号)に思考する人が多く存在します。ですから,視覚イメージを見ないからといって必ずしも不適応が生じているわけではなく,視覚以外の方略を使って生活している,つまり認知(思考)スタイルの違いと考えた方が妥当かもしれません。

子どもたちのなかにもアファンタジアは存在する


 アファンタジアは先天的と考えられていますから,それぞれの教育段階でも存在していることが推測できます(私たちも日本での調査を始めたところです)。
 成人の当事者に過去を振り返って回答してもらったことがあるのですが,幼児期や学校教育の段階で困ったこととして,「お父さんやお母さんの顔を思い出して描いてみましょう(図工や美術)」,「この文章を読んで,その情景を思い浮かべてみましょう(国語)」や「この音楽を聴いて,その情景を思い浮かべてみましょう(音楽)」などがあります(ここであげた例は,ほんの一部です)。たとえば,小学校の図工の時間に「お父さんやお母さんの顔を思い出して描いてみましょう」と先生に指示された当事者は,何を描いたらよいのかわからない(周りの友達は,なぜ目の前にいない人の顔を描くことができるのか不思議)という状態だったと言います。結局,何も描けなかったのですが,先生からは「やる気がない」と叱られてしまいました。もちろんその頃はアファンタジアという言葉がなかったわけですが,自分にとって当たり前のこと(視覚イメージが浮かばないのは当事者にとって自然なこと)なのに頭ごなしに怒られてしまうと,みなさんだったらどのように感じますか?

教師や保護者はどのように対応するとよいか


 最近,ご自分のお子さんがアファンタジアではないか,と親御さんからご連絡をいただくことが多くなりました。特に学校生活で不適応が生じている場合に,親御さんが「もしかして,自分の子どもはイメージが浮かんでいないのではないか」と思って調べたところ,アファンタジアという言葉を見つけたのだと言います。ここで問題となるのは,多くの先生や保護者がアファンタジアの存在に気づいていない,あるいは視覚イメージを含めた知覚・認知の多様性を理解していないことです。上記の「お父さんやお母さんの顔を思い出して描いてみましょう」の例でも,先生がアファンタジアのこと,あるいは視覚イメージに多様性があることを知っていれば,頭ごなしに叱るような事態は避けられたでしょう。それと同時に,自分の価値観で判断するのではなく,「この子は,なぜ描けないのだろう?」と原因を推測する姿勢も必要です。アファンタジアという特性があることを知ってください。そして,知覚・認知には多様性がある(感じ方はそれぞれ違う)ことを理解してください。

アファンタジアが教えてくれること


 アファンタジアは,インクルーシブな社会の構築に関して,私たちに多くのことを教えてくれます。心的イメージを含んだ知覚・認知は個人にしか体験できない主観的なものです。ですから,他者が感じていることを理解するには,それを推測する必要があります。しかしながら,私たちは「他者も同様に感じているだろう」と誤った(決めつけた)理解をしがちです。そもそも,知覚・認知には多様性が存在するのです。知覚・認知の多様性を前提とすれば,他者を理解するときに,一歩立ち止まって「私は○○のように感じているけれど,この人(子ども)も同じとは限らない」,あるいは他者(子ども)が想定外の言動をとったときに「もしかして,私や他の人(子ども)とは違う感じ方をしているのかもしれない」と考えてみることが重要です。そうすれば,「この人(子ども)はどのように感じているのだろう?」と踏み込んで考えることになります。これが,本当の意味での「理解」であると言えるでしょう。そして,これはアファンタジアだけでなく,知覚・認知に関する全ての特性―知的障害や発達障害も含めて―にあてはまることなのです。また,不適応の要因を考える際には,知覚・認知特性が問題(内的要因)となるのではなく,周囲の理解不足が問題(外的要因)となることも理解する必要があります。つまり,知覚・認知の多様性は変わることのない事実であり,それを理解していない環境や社会の方を変えることが重要と言えます。このように知覚・認知の多様性およびそれらの理解について考えることも,インクルーシブな社会の構築に寄与できる一つの要因になるのです。

橋 純一たかはし じゅんいち

1983年生まれ。
福島大学人間発達文化学類准教授。博士(文学)。
主な専門領域は,認知心理学および特別支援教育。知覚・認知(心的イメージ)の多様性について研究している。また,それらの知見をもとに,発達障害に関して学校現場での事例分析や支援方法のアドバイスも行っている。
Diversity of aphantasia revealed by multiple assessments of visual imagery, multisensory imagery, and cognitive style(Frontiers in Psychology),『アファンタジア:イメージのない世界で生きる』(北大路書房)など。

コメントの一覧
1件あります。
    • 1
    • アファンタジアの娘の母
    • 2023/11/12 3:37:11
    表向きはダイバーシティやスタイルというふうに書かれてますが、根底にはアファンタジアは普通と違ってかわいそうという考えが透けてみえるような気がしました
    アファンタジアの話なのに、関係のない知的障害や発達障害の話を挿入していることからも、アファンタジアをそういった枠組みで捉えているように思えます
    そういった考え方そのものがアファンタジアの方々に失礼ですし、それら方々に対するあらたな偏見を生むことになるのではないでしょうか
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