1893年の今日、8月12日は、文部省(当時)が「小学校祝祭日大祭儀式規定」を告示した日。つまりこれにより、小学校の祝祭日に君が代を歌うことが定められた。
ただし、この時点ではまだ、君が代は祝祭日用の「唱歌」としての位置づけである。「国歌」として法的に定められたのは、1999年の8月13日に公布・施行された国旗国歌法によって、である。
この法律が成立した背景には、1999年広島の世羅高等学校での卒業式の際に、すでに日の丸君が代を事実上義務付けていた国と、それに反対する教職員との間に立った校長先生が自殺した事件があり、記憶に残っている先生方も多いだろう。
国旗・国歌問題は、一口で論じることはできないので、今日はちょっと別の視点から君が代に関して調べてみた。
実は、君が代は3種類存在していた! こう言ったらみなさんは驚くだろうか。
君が代の歌詞は、「古今和歌集」にある詠み人知らずの古歌に由来しているのだが、この歌詞には、3人の人物がメロディーをつけているのだ。
まず、第1の君が代の話。明治初期、「列強各国に肩を並べるためには国歌が必要である」と薩摩藩の軍楽隊が訴え、この軍楽隊の教師でもあった英国人ジョン=ウィリアム・フェントンが作曲。明治3年に発表されるもこの曲は大変不評であり、関係者の間では発表後すぐに改作を考えていたらしい。
次に、第2の君が代の話。不評であった第1の君が代を作曲したフェントンがイギリスに帰国した翌年の明治11年、海軍軍楽隊の様式が、イギリス式からドイツ式に改められた。そのころ、懸案中の国歌作成に関して、海軍省から宮内省へ、新たな君が代の作曲が依頼された。そして誕生したのが林広守の作曲による君が代。これが、現在歌われているあの「君が代」である。
最後に、第3の君が代の話。人気も上々だった第2の君が代だが、その後、文部省が、「国歌制定は海軍省や宮内省などではなく、われわれの手により行われるべき」という考えのもと、音楽取調掛(明治期に文部省内に設置されていた音楽教育研究の機関)が、イギリスの作曲家サミュエル・ウェブT世の曲を元に作った。これは国歌ではなく唱歌という形で発表され、広く一般に支持されたら国歌にしようという目論見だったようだ。
しかし最終的には、圧倒的に支持された第2の君が代が、114年前の今日、選ばれることとなる。
いったい、不評だった第1と第3の君が代はどんな曲なのか、ちょっと気になるが…
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- 名無しさん
- 2007/8/14 23:29:53
オリンピックの表彰台で各国の国歌が流れるシーン。日本の国家は他国に比べ暗いメロディーだなぁと幼心に感じたことが。 -
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- 名無しさん
- 2007/8/16 13:16:23
国歌の歴史はやはり、政治色の強いものなのですね。