考え、議論する道徳授業を創る!問いでわかる道徳授業づくり・実践講座
考え、議論する道徳授業にお悩みの先生必見!授業づくりの要である問い(発問)をもとに、授業展開のポイント・指導のコツをアドバイスします。
道徳授業づくり実践講座(2)
子どもの本音を引き出す「補助発問」を取り入れてみよう
立命館大学大学院教授荒木 寿友
2018/7/25 掲載

 前回は、道徳授業における「問い」の役割と意味について考えるとともに、実際の授業での投げかけ方を紹介しました。今回は、子どもの“本音”の引き出し方について考えてみましょう。

子どもたちの本音が出てこない!

 道徳の授業をするにあたって、「子どもたちの本音がなかなか出てこない」という悩みを先生方から伺うことが、少なからずあります。いわゆる「建前=きれいごと」を子どもたちが言うだけで終わってしまうような授業に対する先生の切実な悩みです。
 本音が語られない授業にはいくつかの原因が考えられます。そもそも本音を語るだけの学級の雰囲気が整っていないのであれば、まずはそこから考えていく必要があるでしょう。学級経営と道徳の授業(道徳に限らず、すべての授業でもそうですね)は密接に関係しているので、学級そのものが子どもたちにとっての「安心・安全な場」でなければ、子どもたちは自分(や仲間)を守るために本音を出すことはありません。とりあえずは、一応そういった「安心・安全な場」としての学級が成立しているものとして話を進めていきますね。
 本音が出てこない別の要因としては、本音を引き出す問いが準備されていないことがあげられます。子どもたちは本音を出さずとも、建前で授業が乗り切れることをすでに学んでしまっているのかもしれませんし、道徳の授業はむしろ「本音を隠して建前で話さないとダメなんだ」という先入観を子どもたちが持ってしまっているのかもしれません(他の教科では「建前と本音」が話題に上がることなんてほとんどないのに、道徳の授業はそういった意味でも大変ですよね)。
 ではどういった問いをすることで、子どもたちが本心で考えていることを引き出すことができるのでしょうか? 本音で考えること、それが自我関与(自分事)として考えることにつながってきます。

補助発問とは

 基本的に「読み物教材」は、心情の変化を中心に「いい話」が掲載されているので、そのまま読み進めていくだけだと子どもたちの中に葛藤などは生じにくい構成になっています。いわゆる「読み物の登場人物の心情理解のみに偏った形式的な指導」にそもそも陥りやすいつくりになっているのです。そこで必要になってくるのが、補助発問やテーマ発問です(テーマ発問についてはまた機を見てお伝えしますね)。
 補助発問とは、子どもたちのものの見方や考え方に対して、「本当にそうなの?」と常識や当たり前を改めて問い直す発問、そもそもを問い直すことを意味します(拙著『ゼロから学べる道徳科授業づくり』102-103頁参照)。「切り返し発問」や「問い直し発問」など、言い方はさまざまですが、要は「きれいごと」で終わりそうな子どもの発言(思考)に揺さぶりをかける問いといえます。

いじめを題材にした読み物教材で補助発問を考える

 兵庫県の中学校で、いじめに関する道徳の授業を拝見させていただきました(飾磨西中学校/授業者:山田桃花教諭)。その際に扱われていたのが「プロレスごっこ」という読み物教材です。今回はこの読み物教材を用いて「問い」について考えていきます。(いじめを題材としているために、現に学級においていじめが起こってしまっている場合は、この教材は扱うべきではありません。)

資料
プロレスごっこ(兵庫県中学生用教育資料『きらめき』)
対象学年
中学1〜3年生
内容項目
C-(11) 公正、公平、社会正義
授業のねらい
いじめに気づかないこと、いじめを見逃したりすること、見て見ぬふりをすることは、いじめを発生させる原因となることに気づくことを通じて、いじめは重大な人権侵害であるという認識の上に立ち、いじめに対して自らができることは何かについて考えようとする道徳的実践意欲と態度を育てる
あらすじ
男子生徒二人から休み時間になるとプロレスごっこに誘われる上田君。苦しそうな顔で上田君はギブアップを繰り返している。教室にいるみんなは「またか」というように、あまり気にとめる様子もない。上田君と仲のよい僕は、「嫌なら嫌だといえばいい」とアドバイスする。ある日、男子生徒二人から「プロレスしよう」という誘いに対して上田君ははっきりと「嫌だ」と意思表示する。その瞬間教室が静まり返り、みんなの視線が三人に注がれた。男子生徒の一人が「上田君、俺らは遊ぼ言うてさそっているだけやないか」と言った。

 この授業において、授業者の先生は

問い「この後、僕や周りの人達はどのような行動をとるだろうか」

という問いを「中心発問」として生徒たちに考えさせていました(中心発問とは、その授業の中でもっとも核心となる発問です)。そこで出てきた生徒の意見が以下になります。

・自分たちは見て見ぬふりをしていたことを反省する。
・それはいじめだと言いに行く。
・先生を呼ぶ。男子生徒にやめときやーと言う。
・今こそ止めてあげる行動をする。
・注意しに行く。
・そういう遊びは危ないと自分の意見を言ったと思う。
・もう危険な遊びはしなくなると思う。

 さて、どうでしょうか? みなさんが実践者なら、どういった反応をしますか。どの意見もすごく真っ当で、いじめという問題に対して真正面から立ち向かう意見を述べています。いじめは悪いことだということは、中学生にならずとも小学生でも「頭」では認識しています。本当に全員がこのようなことを考えているのであれば(そしてそれを実践できるのであれば)、いじめは起こったとしてもすぐに解決できるかもしれません。では授業としてこれで終わってしまっていいでしょうか?
 いじめの問題は、悪いこととわかっていながらそれをやめようと言えないことであったり、知らず知らずのうちに加担してしまっている自分がいることです。大人だってそうですよね(ご近所さんや職場の人間関係、大丈夫ですか?)。ということは、ここで授業が終わってしまっては、子どもたちの本音は引き出すことができず、自分事として考えない授業になってしまいます。
 そこで補助発問の出番です。

問い「みんなの意見は確かにそうですね。とてもすごいと思う。でも実際にこういう場面に出会ってしまった場合、みんなはそう言える?」

 この問いによって生徒たちがざわざわし始めました。そして教室の中では、ぽつりぽつりと独り言が出てきました。

・いや〜、それは難しい、無理……。
・いじめている人に責められるかもしれないし、できないかも。
・怖いし……。

 見事なまでの本音です。こういった本音が出てきたところが、実はスタートラインです。事なかれ主義であったり、長いものに巻かれてしまったりする私たち人間の弱さを踏まえながら、「いじめはダメなことだと声を上げるためにはどうすればいいのだろう?」ということについて、話し合いを深めていくことができるはずです。
 あともう一つ、補助発問というよりはテーマ発問(その時間全体を貫く道徳的価値に基づいた発問)に近いかもしれませんが、次のような問いを子どもたちと一緒に考えてみることもできます。

問い「いじめと遊びの違いってどこにあるの?」

 私たち大人は、たとえば「双方に精神的な苦痛がないことが遊びで、一方にのみ苦痛があるのがいじめである」など一定の回答を準備することはできます。でも、子どもたちは違うことを考えているかもしれません。この授業のねらいでも書いたように、「人権」というのが授業を通じた一つのキーワードになっています。「人の権利を侵さない」という基盤に立ってこの問いについて考えてみると、子どもたちの本音が見えてくるかもしれません。

この原稿を執筆しているまさにそのとき、未曾有の大雨が西日本を襲いました。私の住んでいる京都も一部地域では被害が出ました。被害を受けられた方々が一刻も早く平穏な日々を取り戻すことができますよう、お祈り申し上げます。

荒木 寿友あらき かずとも

1972年宮崎県生まれ,兵庫県育ち。2002年京都大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。専門は道徳教育、教育方法、ワークショップ、カリキュラム開発。現在,立命館大学大学院教職研究科教授。NPO法人EN Lab.代表理事。元セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン,アドバイザー。NPO法人cobon理事。国内外、大人子どもを問わず、さまざまなワークショップを展開する。
単著に『学校における対話とコミュニティの形成』(三省堂、2013年)、共著に『モラルの心理学』(北大路書房、2015年)、『考える道徳を創る「私たちの道徳」教材別ワークシート集』(明治図書、2015年)、『やさしく学ぶ道徳教育』(ミネルヴァ書房、2016年)、『戦後日本教育方法論史 下』(ミネルヴァ書房、2017年)など。

(構成:林)

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