教育オピニオン
日本の教育界にあらゆる角度から斬り込む!様々な立場の執筆者による読み応えのある記事をお届けします。
再現性を持った「追試」論で上達の仕組みをつくる
千葉大学教授明石 要一
2011/7/20 掲載
  • 教育オピニオン
  • 指導方法・授業研究

一 教員の力量「差」は何で生まれるか

 教育基本法が改正され、教育の在り方が大きく変わり始めている。具体的には、教員免許の更新制が注目を浴びている。
 昨年入学した教育学部の新入生に今一番関心がある教育問題を一つあげてもらったところ、トップは「いじめと学級崩壊」で、次が「免許更新制」、三番目が「モンスターペアレンツ」であった。入学したての一年生でも免許更新制はかなり関心を持たれている。 
 ところが、教師の世界では教職に就いてからどれだけ成長したか、それはどのような過程でそうなったのか、をはっきりさせていない。
 こうした問題を感じたのは、教員の一〇年次研修を担当したときである。千葉大学では千葉県の教育委員会から委嘱を受け、研修の一部を担当した。そこでの受講生の学校づくりのレポートの「差」に驚きを感じた。
 ユニークな学級経営の実践例を示し、もう一度通いたくなるような学校づくりを紹介する教員もいれば、学生のレポートと同程度の平板な学校像しか描けない教員もいる。
 この「差」はどこで生まれたのだろうか。経験年数は同じである。仮説的には職場内での職員を鍛えるシステムの「差」なのではなかろうか、と予想する。
 職場が活気があり、研究熱心な学校であれば夢と希望は一層ふくらむ。一方、不幸にして職場が沈滞ムードで、出る杭は打たれる雰囲気であれば、水が低いほうに流れるようにやる気が低下する。
 初任当時の白紙状態で刷り込まれた教職観は後まで影響を与える。動物学者のローレンツが唱えた刷り込み理論の教職版である。最初の三年間の職場という集団の育成力に差があったのではなかろうか。

二 学校内で「守・破・離」の仕組みをつくる

 芸事やスポーツの世界では、「有段」や「プロ」という基準が明確である。「アマ」と「プロ」の差は歴然としている。だから、どこまで達すれば「一人前」である、というイメージが共有されている。
 例えば、将棋の世界では奨励会に入り、四段になって初めてプロの仲間として認められる。相撲の世界では「関取」が一人前の証しである。化粧まわしを後援会からもらいつけることができる。稽古場では白のまわしをつけ、大銀杏を結うことが許される。
 もう一つ、芸事とスポーツの世界では「守・破・離」という上達論がある。とにかく、最初は黙って師匠の物まねをするのである。教え方に不平不満は禁物である。師匠が「カラスは白いと言えば、白」という。決して黒いと逆らってはいけない。このレベルが「守」である。
 次は、その世界が少し見え始め技量を見る目が出始める。師匠は別として兄弟子の背中が見え始める。「腕」の善し悪しが分かるようになる。質問ができる。意見も言えるようになる。兄弟子の小言が耳に触るようになる。と同時に師匠のやり方は型にはまっている、と感じ始める。何とか型を破りたくなる。新たなものに挑戦したくなる。このレベルが「破」である。
 「守」「破」のレベルを経験し、その世界に一〇年いると他からも一目置かれるようになる。特定の流派から足を洗い、独自の路線を歩き始める。「○○流」「自分らしさ」の形成である。これが「離」のレベルである。
 今まで教師の世界では「プロ」と「アマ」の区別が不鮮明であった。そして授業力や学級の統率力の上達論が乏しかった。教師を続ければ、自ずと力がつき一人前になるという楽観論が蔓延していた。しかし、冒頭に指摘したように一〇年を過ぎても「指導力不足」といわざるを得ない教師が出現している。
 教師の世界での「守・破・離」は次のようになる。
 まず、先輩教師の教えを受け入れるのである。「自分流」を禁じる。教育の世界では「猿まね」ともいわれる。先輩教師の授業の指示・発問をそっくりまねるのである。
 「破」の段階は、先輩の教師の授業を「七・三」の構えで批判的に捉える。研究授業は「批判的」な視点が必要である。本当にこの授業で子どもの力はつくのだろうか。この発問のほうが子どもの思考を促すのではなかろうか。「守」をすることで力が少しつき始める。その時、「○○先輩を打倒」というスローガンを掲げて修業する。
 「離」の段階は、師匠から離れているのである。独自の授業構想を持つ。一単元で一〇〇の指示・発問を考える。圧巻の指導案を作成する。研究授業を年間一〇〇回する。 先輩教師達から離れて、まさに「自分流の授業」をうち立てるのである。

三 「追試」を教師の世界で常識にする

 教育現場で「追試の授業」を広めたのは、かつての教育技術法則化運動である。「授業は芸術であり、人まねはできない。技術は盗むものでまねるものではない」という言説に真っ向から異議を唱えたのである。
 授業をドラマとか芸術だと捉える人は、授業に「再現性」を認めない。教育を科学化するには再現性は最低条件である。医学の世界では再現性は常識である。この再現性を確認するのが「追試」である。優れた授業を追試して、そこで使われた発問・指示がどれだけ有効であるか、確認してほしい。クラスが異なっても子どもたちの頭を揺さぶる発問・指示がある、ことを実感する。
 もし、追試で使った発問・指示が有効でなければ(再現性が乏しい)、新たな発問・指示を考えてほしい。これが「修正追試」である。この修正追試は「守・破・離」でいうならば、「破」のレベルに当たる。
 次のレベルにあるのが「構想追試」である。これは教材は同じであるが、追試する者が新たな視点から発問・指示を考案するし、発問・指示の組み立ても変える。これは「離」に対応している。
 我流に任せていては子どもの知力はつかない。どの発問・指示が再現性を持ち、どれが再現性がないか、を検証する授業研究が必要である。教員組織が脆弱になる今日、「追試」で授業力と学級統率力を身につけなければならない。

現代教育科学2011年8月号より転載

コメントの受付は終了しました。