教育オピニオン
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力を付ける宿題の出し方
現場的な一工夫
植草学園大学教授野口 芳宏
2011/6/21 掲載
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  • 指導方法・授業研究

一 宿題の本質

 宿題という言葉はいつごろから学校教育の中に入ってきたものだろうか。もともと漢語なのだろうかと、漢和辞典を引いてみたが見当たらない。和製漢語かもしれない。さすがに国語辞典には出てくる。ただし、語源には触れていない。「学校が予習や復習の為に課す課題」とある。成程うまい説明である。
 そもそも宿題の本質とはいかなるものなのだろうか。そこから考えてみよう。
 第一に、その目的は、家庭学習の習慣形成の動機付けという点にある。家庭学習とは、家庭にあって、自発的に子供が勉強をする事である。自発的にどの子も家庭学習をやって呉れれば問題は無いのだが、なかなかそうはいかない。自発性とか、自主性とかという綺麗な言葉は、とかく独り歩きになりやすい。自分で学ぼうとしない子供をそのままにしておく訳にはいかない。何らかの動機付けによって、とにかく毎日家庭の学習をさせた方がいい。家庭学習の狙いの第1はそこにある。これが私の持論である。
 従って、家庭でする勉強の量そのものはあまり多くは無い方がいい。多すぎると家庭学習そのものを嫌うようになりかねないからだ。担任時代の私はそのような事情から、大体15分程度で出来る量を、しかし、毎日必ず出すようにしてきた。その詳細は後述する。
 第二のポイントは、学校ですべき事柄を宿題にしてはいけないという事だ。例えば、新出漢字の学習や、理科の観察や、社会科の県庁所在地調べなどである。これらは本来学校の授業で指導すべき事柄である。授業で指導したその後で、復習やドリルの為に宿題とする事は差し支えない。宿題は、本来授業に付随し、あるいは従属して出されるべきものだからである。
 第三に、宿題というものはある種の強制力を持っている。成績の良し悪し、学習意欲の有無、高低に拘らず、例外なく全員が必ずやって来なければならないものである。その点で、余り高度な内容のものは不適切なのである。指導や援助の要らない、やや軽い、そして楽しく、気軽に出来る程度の内容にすることが望ましい。
 第四に、学校の時間の中ではとてもやりきれない個人的、発展的、応用的な活動は家庭学習にせざるをえない。自発的学習や自由研究的なものがこれに入る。これらは、当然学校の授業時数の中ではこなしきれないからだ。ただし、これは必ずしも宿題として強制すべきものではないので、変則的な選択制の宿題と言えるかもしれない。出来る人、やってみたい人はやってみるとよいという程度の、自由度の高い宿題である。
 第五に、宿題として出した以上、教師は必ず点検する義務が生ずる。これはいちいちの問題について教師が答え合わせをしてやるという意味ではない。答え合わせは自分自分にさせてもいい。だが、その結果について教師はやはり知らなければならない。教師が目を通す事をしないと子供も張り合いをなくし、やがて頑張りの気持ちが薄れて来る。それは、学習意欲を低下させるという事と変わらない。
 宿題を出すに当たっては、以上の五点を先ず教師は弁えておかなければならないだろう。

二 力を付ける宿題の事例

 私の宿題は、長期休暇を除けば毎日であり、年中無休という決まりにしていた。だから、「今日は宿題があるのか」という問いは、私のクラスにあっては意味が無い事になる。
 従ってまた宿題を忘れるという子供も私のクラスには存在しない事になる。随分きついように思う向きもあろうけれども、そういうものだと思ってしまえばさほどの苦痛ではないようで、宿題の出し方で特に問題にされた事は無い。また先にも書いたように宿題の量そのものはそう多くは無いので、子供達も余り負担には感じなかったのであろう。
 算数の計算練習と国語の漢字書き取りとを隔月交互に出題していた。毎日宿題の課題を出すのは面倒なので、背面黒板の月間予定表の下の欄にページと問題番号をひと月分ずらりと書いてしまうのである。子供達はひと月分の課題が分かるので、何処かに出かけるような予定がある場合には、早めに先回りをして宿題を済ませておくという事もやっていた。それはそれで一つの工夫であるから私は責めたりした事は無い。
 算数の宿題の答え合わせは、教師用指導書の解答部分を日直が小黒板に書き写して掲示し、各自が自主的に答え合わせをし、間違えたところは赤鉛筆でやり直しをしたうえで所定の場所にノートを提出しておくというシステムにしておいた。私はざっとその実施状況に目を通すだけで格別の指導を加える事はしなかった。教師用指導書を子供に見せる事について戸惑いを見せる向きがあるかもしれない。しかし、私はそういう事についてはいたって呑気である。間違った事を教えては大変な事になるので先生方はみんなこのような参考書を持って教えているのだという事を憚ることなく説明すればどんな子供でも納得する。なまじ隠そうとしたりする下心を持つ事の方がよほど問題であろう。
 国語の宿題はいたって簡単である。国語の教科書のページを順に書いておきさえすればそれでよいのである。指定されたページに出てくる漢字の中から、読み書きの苦手な文字を選んで、ある子供はある文字について書き取りを学び、ある子供はある文字について筆順を確認し、ある子供はある漢字について読み方を学ぶという形にするのである。つまり、宿題の範囲は示すが、その内容については個々の子供がその必要に応じて決めるという方式である。私は、それらを個々別々のノートによって、それぞれの子供の学習状況に目を通せばよいだけの事である。

 ここで、その方式では子供によってはずるい事をして誤魔化すような事は無いかと案ずる向きもあるかもしれない。例えば僅か二、三字の練習で済ませてしまったり、書けない漢字があるのにも拘らずその文字を書かなかったりというような事である。
 しかし、その心配は無用である。そんな事にならないように宿題の根本的な狙いを子供達にきちんと周知し、徹底させてあるからだ。宿題を出すのは、家庭学習の習慣形成が目的である事、またその学習を通して各自の基礎学力の補強、定着を図る為なのだという事、さらに、誤魔化したり怠けたりする事は可能であり、そうする事は各自の自由である事、ただしそれでは結局本人の為にはならない事などをきちんと前以て分からせておくからである。宿題が、最終的には本人の受益に結びつかなければ、何にもならないのだという根本理解を子供と共有していれば、先のようなつまらぬ心配は無用となる筈である。物事は全て「根本、本質、原点」に立ち返って考え、実践すべきだというのが私の持論だからである。

三 宿題を出す場合の留意点

 宿題を出す場合に是非考えておきたい二つの事を述べておこう。
 先ず、毎日宿題をやって来るという子供なりの努力に対して教師の承認や励まし、満足等を伝え続ける事が大切である。無論宿題は教師の為にするのではない。だが、教師が宿題を出し、命じているのだから、その教師の評価や奨励、称賛は是非とも必要なのである。これを怠ると子供の努力は必ず減退する。ついには宿題をやって来ない子供も出てくる。一度やって来ない事を体験した子供は次に怠けることを躊躇しなくなる。いったん崩れたら後の崩れは一気に起こる。崩れとはそういうものである。教師の点検、奨励を怠けてはいけない。
 点検、奨励を続ける為には、その点検と奨励に大きな負担がかからないようにする配慮が必要である。長続きをさせるには、何よりも労力の節約が肝心だ。教師用指導書を子供に渡すのも、そこにある答えを子供の日直に板書させるのも全てはこの原理を具現する為である。宿題用のノートの判型を一つに揃えるのも効率化を促す工夫である。ばらばらの形式では、提出したときに揃わないので処理がしにくい。重ねにくい。見難い。また当日の宿題の答え合わせをしたページを開いて提出させるようにすれば、点検効率は大いに向上する。小さな工夫だが大きく能率を左右する。
 次に、評価の公開という事だ。個別の評価は本人には分かるが、ほかの人には分からない。宿題の仕方ひとつにもそれぞれの個性は微妙に表れるものだ。雑な子供、丁寧にやって来る子供、慎重にやって来る子供などなどいろいろだ。
 悪い例は昨今出しにくいようだが、手本になるような誠実なノートは、是非みんなの前に公開して褒めるとよい。それによって発奮する子供が必ずいるものだ。良い事は大いに広めるべきなのである。

国語教育2011年7月号より転載

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