教育オピニオン
日本の教育界にあらゆる角度から斬り込む!様々な立場の執筆者による読み応えのある記事をお届けします。
教育エッセイ(第11回)
文理は分離のはじまり
教育測定研究所主席研究員/東京工業大学連携教授吉川 厚
2011/2/25 掲載

 会社と大学両方に籍を置いて仕事をしていると、いろいろとおもしろいことがある。例えば会社では、書類を書いてお客様に提案しているのが理工学部の修士出の人だったり、プログラムをかいているのが文学部出の人だったりする。一方、大学(といっても大学院なのだが)はバリバリの工学系なので、数式やプログラムがたくさん出てくるかと思いきや、ゼミでの議論は、数式ではなくむしろ言葉が中心で、「コミュニケーションコストが上昇すると、よりコンタクトコストが安いたばこ部屋のようなインフォーマルコミュニケーションが増え…」といった調子だったりする。友人の経済をやっている先生などに話を聞くと、これがまた微分・積分がずいぶんと出てくる。世間で思われている理系/文系というイメージと、我々の仕事の中の理系/文系には、どうも隔たりがあるようだ。

挿絵
 もちろん、従来の機械や電気(当然数学や物理なども)のような理工系の中心分野も存在するが、世の中が進んできて、例えば、今まで文系と思われてきた文学にも工学的なアプローチがみられるなど、理系と文系の境界に気が付かないほど裾野が広がってきている。そして現実に、理系と文系の研究者が協力して研究を進めることは当たり前になっている。これは、言語学の専門家とコンピュータサイエンスの人が検索エンジンをつくっている例を出せばわかっていただけるだろうか。このことは、1つの分野の1つの見方で解決できる問題はすでに大方解決され、今直面している問題の多くは様々な見方をもって解決する必要がある、という言い方がより正確かもしれない。そして、これこそが欧米と日本の差であり、研究においてもビジネスにおいても、他分野とのコラボレーション・ポイントにはかなりの差がある。

 そういう点から学校教育を考えると、文系の代表である国語と理系の代表である数学が、相互に乗り入れできる教え方はないものだろうかと考える。文学を構造的にみることは、考え方のフレームワークとして数学的にとらえることもできるし、文章題における立式は、あたかも日本語を英語のような他言語に翻訳することのようにもみえる。このような、ちょっとした相互侵犯に期待したい。

吉川 厚よしかわ あつし

1963年栃木県生まれ。慶應義塾大学理工学部卒業、同大学院博士課程修了。工学博士。現在、(株)教育測定研究所主席研究員、東京工業大学総合理工学研究科連携教授。専門は学習科学で、特に大人の学びと組織診断などの評価方法。

コメントの受付は終了しました。