教育オピニオン
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言葉の行き違い
京都女子大学教授・京都女子大学附属小学校校長吉永 幸司
2012/3/29 掲載

 正しい言葉が使える子にしたいと思う。ここでいう正しさとは、自分の今が適切に伝えることができることを意味する。学校は、子どもが語る言葉で物事を判断したり指導をしたりすることが多い。ところが、小学校では、子どもが持っている語彙の量が少ないので、言葉による理解や気持ちの行き違いが多い。正しい言葉を使えているかどうかを見定めること、そして、大人が勝手に子どもの言葉を先取りすることに慎重になるという智恵を持つと、子どもとの関わりが楽しくなる。次の事例は、日頃の出来事に学んだ行き違いの実際である。

(事例1)「取られた」と「見当たらない」
 休み時間が終わった運動場の片隅。そこに上着が放りっぱなしになっていた。きっと遊びに夢中になって忘れたのだろうと思い職員室へ持ち帰った。
 しばらくして、3年生の子が「上着が取られました」と告げにきた。上着を運動場に置いて教室へ戻った。気がついて、運動場を探したが上着はなかったというのである。
 「上着は、ここに置いておきました。私が見つけたのです」
と言って、上着を渡すと、すぐに受け取り引き返そうとするので、次のように付け加えた。
 「あなたの言い方だと、私は、上着を取(盗)った人になります」と話をした。意図が理解できず戸惑っている子に、日本語には「見当たりません」という言い方があることを指導した。「上着を探しました。けれど、見当たりません」と言えば、機嫌良く手渡せたのにと思いながら上着を持ち帰らせた。

(事例2)「名札を忘れました」の主語
 学校の約束に、名札を付けることがある。ある朝、2年生の子が「名札を忘れました」と、職員室へ報告にきた。話し調子や声の大きさがしっかりしている子であった。どのような経緯で忘れたのかということを知りたく、話しかけた。
 「用件をとても上手に話すことができました。ところで、名札の忘れ物は、今日が初めてですか」と。その子は、元気のよい声で「はい」という返事をした。職員室の誰もが、「初めて」に驚き、名札を忘れずに付け続けてきたことに感心をした。
 そこで、少し欲張って「それで、毎日、名札は誰がつけているの」と念を押す。その時もはっきりと「お母さん」と答える。つまり、「お母さんが忘れました」が、正しい言い方なのである。
 お母さんが先取りをして、名札を付けていたのである。学級担任の指導があったのであろう。次の日は、胸に名札が斜めに付けられていた。「僕が、名札を付けました」ということを名札が物語っていた。

(事例3)電話の向こうで
 朝、始業前に保護者からの電話。先生から注意を受けたが、子どもが納得していないので詳しく聞かせて欲しいという。「ボク、何もしていないのに叱られた」と家で話しているという。詳しく聞いていくと、子どもにとって、自分の都合が悪いことは欠落している。
 電話の向こうのいらいらしている保護者の声を耳にする度に、「ボクもいけないところがあるのだけれど」「トラブルで、解決したことはこれ、納得できないことはこれ」と言える力を育てる必要を感じる。言葉の行き違いは真実を語る力が脆いと感じているから。
 詳しく伝える力をつけることが大事である。つまり、どのような出来事がトラブルになったのか、何に気をつければよかったのか、また、どんな指導を受けたのかということを考えさせること。この時間を省くと「何もしていない」という伝達になってしまうことを度々経験してきた。

(その4)セーターとコート
 朝、ドッジボールの時、セーターを脱いだ。そのセーターがないので探しているという子がいた。脱ぐ様子から、置いた場所までしっかりと伝える力がある。話に従って、一緒に探しても見つからない。困り果て、担任に伝える。様子を見ていた担任は、「上着を脱いでごらん」と、指示をした。上着の下にセーターを着ていたのである。
 これで問題が解決したと一息つこうとしたら、「これではない」と言い張る。
 詳しく聞いてみたものの分からない。動作や話し方から「コート」であることが分かった。コートとセーターの意味を間違って使っていたのである。この子の言葉には、間違いはないだろうと思い込んで対応していた言葉のすれ違いである。
 しかし、このようなことはそれほど珍しくはない。「きのう」といっていることが、数日前であったり、「みんながそう言っている」ということの「みんな」が、仲良しの数人であったりする。言葉を正しく使うことの大事さや、子どもの話の内容を聞き分ける大切さを学んだ出来事である。

(その5)「分かりましたか」と「はい」
 国語の授業で、主人公の気持ちを掘り下げる学習を進めた。心の機微に触れるような内容の読み取りが進んだ。それは、授業者が期待している通りの展開であった。
 授業も後半、まとめの段階に入った。
 「今日は、とてもよい授業でした。深い考えも出ました」
 ここまではよかった。念を押して、
 「今日の授業が、よく分かりましたか」の確認に、多くの子が「はい」と返事をして勢いよく挙手。
 一人を指名し、分かったことの内容を確認したところ、答えは、「・・・・・」。
 教師の期待する姿と子どもの実際とは違うことに気づいた授業であった。

吉永 幸司よしなが こうし

京都女子大学教授・同附属小学校校長

1940年滋賀県長浜市に生まれる。滋賀大学学芸学部卒業。滋賀大学教育学部附属小学校教諭(26年間)、同副校長、公立小学校長を経て、現在、京都女子大学教授・同附属小学校校長。
【主な著書】『活用力をつける国語科授業の改善』(2009年)(明治図書)、『「書くこと」で育つ学習力・人間力』(2002年)(明治図書)、『考える子どもを育てる京女式ノート指導術』(小学館)他多数。実践記録として「連結器365日」「絆365日」(36集まで発行)。第27回「読売教育賞」(読売新聞社)、「博報賞(文部大臣奨励賞)」(博報堂)、「教育研究賞」(日本教育連合会)他受賞。

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