教育オピニオン
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「対話力」を育てるために、どこに注目するか
対話を深め合いにつなげる第三の鍵
スピーチコミュニケーション教育研究所主宰村松 賢一
2011/5/30 掲載

一 対話力とは

 「対話」はコミュニケーションなどと並んで大変多義的な概念である。が、日常生活に馴染んだ言葉でもあり、とかく、無前提で使用され、時に誤解や無用な軋轢を生む。それを避けるには、まず、自身の定義を明らかにして議論に臨むことが必要かと思う。本稿では、教室の対話を全体として視野に収めたいため、「話線の交流を伴うことばのやりとり」と広くとらえる。話線とは、「話し手から聞き手への話の届き方」(林四郎)である。甲の話が乙に届き、それが刺激になって乙から甲へ話が返される場合を「交流話線」と言い、その繰り返しが、「対話の典型的な場合であり、すべての話し合いの基本形式」だとされる注1

二 国語学習と対話力

 対話力を、「〈他者のことばをしっかり受けとめ、自分の思いや考えと突き合わせた上で、返していく〉ことを繰り返す」力と規定すると、それは、「話すこと・聞くこと」領域だけでなく、国語学習全体にとって極めて本質的な力であることが知れよう。対話力育成の方策を考える前に、この点をもう少し詳しく見ておきたい。周知のように、新学習指導要領では、「書くこと」や「読むこと」の学習過程に「交流」が位置づけられ、「書いたものを発表し合い、表現の仕方に着目して助言し合うこと」(小学校五・六年)、「文章を読んで考えたことを発表し合い、一人一人の感じ方について違いのあることに気付くこと」(小学校三・四年)といった指導事項が明示された。これらの活動を話線のすれ違う「出し合い」にしない保証の一つが対話力であることは論を俟たない。が、ここで強調しておきたいのは、「書くこと」、「読むこと」自体を対話としてとらえる視点である注2。どういうことか。「このような表現で自分の思いは読み手に届くだろうか」「Aを理解してもらうには、その前にBを説明しておくべきではないか」「こう書くと、きっと……という反論が返ってくるだろう」などと、読む者の反応に思いを巡らせ、それに応えながら書いていく。独りよがりでない説得力に富んだ文章は、例外なく、こうした読み手との対話をへて書かれているものである。「読むこと」にしても同様だ。「学習者が説明的文章教材を読むということは、筆者による自然・人間・生活・社会・歴史・宇宙などの現実の捉え方や論理・構造の展開の仕方を通して、学習者の既有の世界の捉え方や論理・構造を捉える技能を再構成する営みである」注3(河野順子)とすれば、文学的文章の読みも、登場人物との出会いを通して、共感したり反発したり、疑問を感じながら、つまり、作品との対話を通じて、自らの生を再定義することに他ならない。こうした内言による対話をどれだけ深められるかが、「書くこと・読むこと」の質を決定する。対話力が国語授業活性化に資するのは決して外言レベルだけではない、と言いたいのである。

三 対話力育成の鍵

 高次精神機能は他者との対話経験が内部化したものだと言う(ヴィゴツキー)。つまり、書いたり、読んだりする際に働く対話的思考の基礎はあくまでも他者との直接対話だということだ。対話力は、〈@聞く力A応じる力B話す力Cはこぶ力〉の総合である。結論を言えば、A(「分からない点を聞き返す」「根拠を質す」「反対する」など)をいかに活性化させるかがその鍵を握っている。具体的な手立てとして、筆者は、これまで、学習課題と活動形態の工夫が鍵だと訴えてきた注4。しかし、伝え合う力の育成を目指す国語の授業作りに加わる中で、この二点の有効性を実感しつつも、話線の交流を認識の深化や拡大につなげるためには、活動の前後における「教授対話」(教師と学習者との対話)が第三の鍵を握っていることを再認識するようになった。

四 活動を挟む教授対話の技を磨こう

 教室の対話は、大きく、教師が関与できるもの(教授対話)と、学習者自身が行うもの(グループトークなど)とに分けられる。対話力の議論ではとかく後者に関心を向けがちだが、教授対話も、適切に(「引き回し」でなく、子どもの自主性を尊重しつつ)運用されれば、「深め合い」に大いに寄与する。「一つの花」(今西祐行)を例にとろう。父親が、一輪のコスモスを幼子に手渡して出征する場面。テキストには、父親は、娘の握っている「一つの花」を見つめながら何も言わずに行ってしまったとある。そこで、ある授業者(T)は、「『ゆみ子の顔を見つめながら』とは書いてないね。どう思う?」と問うた。各々の考えを書かせると、「当然だ」と「おかしい」に分かれた。ここでグループトークに移行することもできた筈だが、Tは、机間巡視中のメモを巧みに生かして両派の何人かを指名し、クラストークを展開した。「もっと家族といたいなという気持ちになるからあえて顔を見なかったのだ」「いや、二度と帰れないかもしれないのにそれはへんだよ」と教室が騒然となる。「当然派」にしても、「敵と戦う時、ゆみ子の顔を思い出すと安心して撃たれちゃうから」などという意見も飛び出し、根拠は異なることも分かってきた。この間、Tは、「同じ立場でも、理由は少しずつ違うようだね」とツボを押さえたコメントをするのみで、それぞれの発言をかみ合わせる黒子に徹していた。こうして、認知的葛藤を高めたり論点を明確にしたりした上で対話を子どもの手に委ねる注5のが事前教授対話の役目である。
 この他に、もう一度、教師が子どもたちの対話に関与する機会がある。グループトークの結果を発表し合う場面である。そこを「出し合い」に終わらせず、認識の階段を一歩上がる時間にするには、「最近接発達領域」(自力では困難でも年長者の支援があれば到達できる認識領域)への教師の働きかけが不可欠である。ここでも、必ずしも自分の考えを披瀝する必要は無い。「うまく設定された質問によって、生徒たちに彼らの認識の不完全さを認識させ」、「最終的に生徒自らの諸洞察を導き出すことに成功した」ソクラテスの流儀注6に学び、たとえば、「『ゆみ子の顔を見つめながら』と書いた場合と比べてどう違うだろう」などと質問しながら、一つの花に託した父親の深い思いに気づかせるべきなのである。これを子どもたちだけの対話に期待するのは無理である。国語授業の質的活性化は、こうした、事前・事後の教授対話と子ども自身の対話の協働によってはじめて可能になると言えよう。

注1 林四郎「談話行動のタイポロジー」『日本語学』第二巻第七号、一九八三年。
注2 拙稿「『伝え合う力』=『対話する力』と認識することから」『教育科学国語教育』(二〇〇五年一二月号)を参照されたい。
注3 河野順子『〈対話〉による説明的文章の学習指導』風間書房、二〇〇六年。
注4 たとえば、拙稿「話し合いの問題点」『教育科学国語教育』(二〇〇八年一〇月号)を参照されたい。
注5 そのグループトークの一端は、前掲注に示した文献で紹介した。
注6 木下百合子「教授対話の指導の原則〜教授対話におけることば(2)〜」『教授研究』第一六巻第一号、一九九五年。

国語教育2011年6月号より転載

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