著者インタビュー
新刊書籍の内容や発刊にまつわる面白エピソード、授業に取り入れるポイントなどを、著者に直撃インタビューします。
教科の授業でこそ、ライフキャリア教育を!
元神奈川県立金沢養護学校副校長渡邉 昭宏
2014/5/28 掲載

渡邉 昭宏わたなべ あきひろ

1955年、東京生まれ。中央大学商学部卒業後、神奈川県立平塚盲学校、県立伊勢原養護学校、横浜国立大学附属養護学校、川崎市立田島養護学校、県立武山養護学校、県立みどり養護学校教頭を経て県立金沢養護学校副校長。2013年3月、後進に道を譲り退職。
35年間特別支援教育に携わり、うち10年間進路専任に従事。

―特別支援のキャリア教育では、いま何が求められているのでしょうか。

 現場実習の巡回や卒業生のアフターケアに行った時、企業や福祉事業所の方々から「学校はいったい何を教えてきたのですか」と言われたことはありませんか。開き直らず真摯に受け止めてみると、送り手と受け手のミスマッチが明らかになってきます。
 学校はとにかく「働ける人」にして社会に送り出すことに躍起になっていてそれをキャリア教育と称しています。しかし企業や福祉事業所は、働く以前の基本的生活習慣などの生きる力をしっかり身に付けて卒業して来てほしいと思っていて、「それこそがキャリア教育でしょう」と言わんばかりです。
 今はほとんどの学校の教育目標に「キャリア教育の推進」という言葉が掲げられていますが、残念ながらそれを単純に就職率向上や経済的自立をめざすもの、小学部からの就労に至るステップ学習のようなものと捉えている関係者が少なくありません。ワークキャリア(働く力)をガンガンつけて企業就労に結び付けられればゴールというものではなく、卒業後の長い人生が豊かであり続けるためには「職業人」「労働者」であるまえにまず「社会人」「生活者」として企業や福祉事業所そして地域の人々と共に生きて(暮らして、楽しんで)いかれる人になっていなければならないと思います。
 いま特別支援学校に求められているのは、まさにライフキャリア(生きる力)教育であり、それこそが移行支援であると言えるのではないでしょうか。

―前著「みんなのライフキャリア教育」との違いは何ですか。

 「みんなのライフキャリア教育」では、世の中でワークキャリアと曲解されている「キャリア教育」の内容をライフキャリアの視点で見直して再構築し、それを授業にどう取り込むかを提案しました。今回はその続編として、もっと具体的な学習実践例を教科別に示しました。特別支援学校の授業は、教科領域を合わせた指導として展開されることも多いので、その場合はそれらを組み合わせて明日からの実践のヒントにしてみてください。
 また、わかったようでわからない「キャリア発達」や「基礎的・汎用的能力」という言葉についても、できるだけわかりやすく解説しました。先生方の共通理解の一助にしてください。
さらに言えば、重度重複の児童生徒にとっての「自立」とは、支援を抵抗なく上手に使える(受けられる)ことであり、「社会参加」とはさまざまな人・時間・場所・場面に適応できる(慣れる)ことだと思います。つまりキャリア教育を「ライフキャリア教育」と押さえれば、どんなに重度の児童生徒にも実践する内容が山ほどあることに気づいていただけるはずです。

―キャリア発達を支援する授業というのは、通常の授業と何が違うのでしょうか。

 「教科」には教科ごとの目標や内容があり、それをこなしていくだけでも大変なことです。キャリア教育というのは新たな内容を盛り込むのではなく、教科の目標や内容をキャリア教育の視点で見つめ直して、キャリア教育の要素に気づくことからはじまります。とはいっても、キャリア教育をワークキャリア(働く力)と捉えていると、ほとんどの教科では行き詰ってしまいます。
 ところがライフキャリア(生きる力、暮らす力、楽しむ力)という視点で眺めてみると、将来生きていくのに役立ったり、便利だったり、助けになる内容が教科の中にふんだんに含まれていることに気づきます。もっといえば、生きる力を養っていない教科や単元そして日々の授業なんてありえないのです。
 ですから教師がそれぞれの授業のなかで意識的に取り上げれば、児童生徒たちの「キャリア発達を促す」ことができます。ただ、特別支援の児童生徒たちの場合は「意識的」だけではなく、キャリア教育の要素を「意図的」に授業の中に仕組んで授業展開をすることが大切です。つまり個別の教育計画に基づいて、児童生徒一人ひとりの「キャリア発達を支援する」必要があるのです。

―「学校で本当に教えておくべきこと」とは何ですか。

 今でも8時間働ける体力と精神力をつけて卒業させれば、立派に就労ができ、その後の人生も安泰と思っている関係者がいます。「働くだけが人生ではない」「お金がすべてではない」と言われるように、豊かな人生というのは労働生活の中だけでは実現できません。送り出した卒業生たちが、心身がぼろぼろになるまで頑張りすぎてしまったり、混乱や犯罪に巻き込まれてしまった姿を見ると、学校は本当に教えるべきことを教えてこなかったのではないかと深く反省をします。
 反省のひとつが「疲れた」「少し休みたい」「いやだ」「やりたくない」「やめて」「もういい」と授業中に児童生徒が言葉を発することに対し、学校は否定的な態度をとってきた(指示に素直に従うのが良い生徒だとされてきた)のではないかということです。
 もうひとつは、環境設定と学習支援を完璧に準備して、授業中に児童生徒が「困った」「わからない」「足りないよ」「変だよ」「助けて」「手伝って」といった言葉を発しないで済む状況を作ってきた(それが教師にとって良い授業とされてきた)のではないかということです。  
 自己選択自己決定ときれいごとを言いながらこのような授業をしていたのでは、変化の激しいこれからの社会を「生き抜いていく力」が育っていかないのです。

―最後に、教師にとっての喜びとは何でしょうか。

 「学校は楽しい」「毎日来たい」と児童生徒に言われることは教師冥利に尽きます。授業が終わった時に、子どもたちの見せる笑顔、自信に満ちた瞳、もっとやりたいという声、大きなエネルギーを教師に充填してくれます。
 また「今日はこれを覚えたよ」「昨日できなかったことが今日は少しできるようになったよ」「今日の授業はおもしろかったよ」「気持ちがスカッとしたよ」と言葉にならない「ことば」を発してくれる子どもたちがそこにいます。
 さらに重度重複の児童生徒たちは声にもならないけれど、手足を動かしたり、瞬きをしたり、全身を揺らしたりして、「やってよかったよ」「やればできるんだぞ」と、自分のキャリア発達ぶりを懸命に伝えようとしてくれます。
 ぜひそうした「ことば」や授業の手応えを、肌と心で感じ取れる教師になってください。

(構成:佐藤)

コメントの受付は終了しました。