- 序論 プロギュムナスマタについて
- T 寓話
- 一 理論編
- 1 「この内容の幼稚さには驚く」
- 2 レトリック的な証明
- 3 何のための寓話
- 二 実践編
- 1 練習課題例1(街の人の声に惑わされるロバを連れた親子)
- 2 練習課題例2(ディベートのやりすぎで口しかない化け物に生まれ変わった学僧)
- 3 練習課題例3(子供の盗みをほめた母親)
- U 物語
- 一 理論編
- 1 これは「物語」ではない
- 2 例証としての物語
- 3 奇妙な練習
- 二 実践編
- 1 練習課題例1(「この男を殺せ」という手紙を届けさせられる男)
- 2 練習課題例2(導入としての物語)
- V 逸話(*格言)
- 一 理論編
- 1 「それにしても、なんとおずおずした進み方であろう」
- 2 構成の感覚の育成
- 二 実践編
- 1 練習課題例1(カミュ「私は正義よりも、まず私の母を守る」)
- 2 練習課題例2(泥棒学生こそ教えたいと言った盤珪永琢)
- W 反論と立論
- 一 理論編
- 1 法廷弁論への準備
- 2 本当は嘘だった? 盤珪永琢の逸話
- 3 「私」の拡張
- 二 実践編
- 1 練習課題例1(「大地震の最中に、暴徒が東京中の井戸に毒物を投げ込んだ」という噂は信用できない/信用できる)
- 2 練習課題例2(身元を隠して母と妹に殺された男の話は信用できない/信用できる)
- X 賞賛と非難(+比較)
- 一 理論編
- 1 演示的弁論の予備練習ではない
- 2 賞賛されるための条件
- 3 比較による増大
- 4 凹んでいるのか突き出ているのか
- 二 実践編
- 1 練習課題例1(嫌われものを賞賛する)
- 2 練習課題例2(野口英世を賞賛/非難する)
- あとがきにかえて
序論プロギュムナスマタについて(冒頭)
[一]本書は、西洋でプロギュムナスマタ(★ 予備練習)と呼ばれた作文・話し方教育のための訓練方法を、現代の作文教育に利用可能なように作り直したものである(1)。
★はJIS規格外の文字のため省略
[二]プロギュムナスマタは、その原初的な形態としては、すでに紀元前四世紀頃には現れていたと推測されている(2)。それはヘレニズム期にほぼ完成され、西洋の中等学校では十七世紀頃まで続けられた。
[三]現存する(古典期の)プロギュムナスマタの教科書はいずれもギリシャ語で、テオン(Aelius Theon,一世紀後半から二世紀)、ヘルモゲネス(Hermogenes, 二世紀)、アフトニウス(Aphthonius,四世紀末)、ニコラウス(Nicolaus,五世紀)らによって執筆された(3)。ここで注目すべきは、今あげた四種類の教科書がほぼ同じ構成と内容をもっていること、そして後世の教科書も、すべてこの四種の(特にヘルモゲネスとアフトニウスのものの)翻訳あるいは翻案にすぎないということである(4)。つまりプロギュムナスマタは、少なくとも一五〇〇年間、ほとんど同じ教科書によって教えられつづけたのである。これは後世の教師が、怠惰あるいは権威主義であったことを意味しない。プロギュムナスマタは、古典期において徹底的に考え抜かれ、工夫され、一種の完成品として後世に伝わったので、作り直そうにもほとんど改変の余地がなかったということだ。
[四]ではプロギュムナスマタとはどのような訓練だったのか。われわれは先にプロギュムナスマタを「予備練習」と訳した。それゆえ、まず、それが一体何の「予備」であったのかということから説明しなくてはならない。
話をわかりやすくするために、帝政期の古代ローマに限定してみよう。H・I・マルーは、その著『古代教育文化史』の中で、当時の学校制度を次のようにまとめている。
(引用文省略)
ローマの社会で、エリート層、あるいはそれを目指す人々にとって、学ばなければならない最重要の学問がレトリック(弁論術、修辞学)だった。学校教育の仕上げが、弁論術の教師(rhetor)によって修辞学校で行なわれたのはそのためである。
修辞学校でのレトリックの教育は、デークラーマーティオー(declamatio 練習弁論)という訓練によって行なわれた。これは、ローマ社会においてレトリックが最も力を発揮することのできた二つの場所での弁論、すなわち大広場(forum)での政治弁論と、査問所(quaestio)等での法廷弁論の形式を模した一種のシミュレーション・ゲームのようなものである。それゆえ、その訓練方法もまた二種類に分けられる(6)。
第一は、スアーソーリア(suasoria 説得演説)である。これは審議的弁論(政治弁論)の練習で、特定の人物あるいは集団を説得して、ある政策を選択させたり思いとどまらせたりしようとする型の弁論を訓練する。論題は、主として、歴史的あるいは擬似歴史的題材が採られた。例えば、世界の果てに到達したアレクサンダー大王が海を渡って進軍を続けるべきかどうかを思案している、あるいはアガメムノンが預言者カルカースの言葉に従い、無事航海するためにその娘イピゲネイアを生贄として差し出すべきであるかどうか迷っている。
上記は本文からの引用。本書に書かれているのは、寓話や格言を加えて自説に客観性を加える方法です。
独りよがりの作文しか書けない人は多いはずです。また、視野の狭い発言しかできず「客観性」の概念自体欠如している人もいます。他者を説得し、自陣に引き込んで味方を作るには、客観性のある作文・発言が必要になります。井の中の蛙のような作文・発言では、他者を説得することはとてもできないからです。味方が多ければ、乗り越える障壁も低く少なく、それだけ人生が楽になります。ぜひ本書を読んで、自説に客観性を加える方法を身に着けてほしいです。
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