- 序章
- アマチュアの批評/ もしもあなたが無人島で批評をさせられたら?/ 中学・高校の先生がたのために/ 教育手段としての分析批評の効用/ 個別と普遍は両立しなければならない/ 英米の批評と日本文学の場合/ むしのいいお願い
- 理論編
- 第一章 <解釈>の原理と<意味>の意味
- T <解釈>と<鑑賞>のむずかしさ
- ―― T・A・リチャーズの理論と室生犀星の詩をめぐって(一)
- ニュークリティシズムの出発点/ リチャーズの文学に対する信念/ 作品の意味は多様である/ イギリスのモルモット(リチャーズの実験)/ 日本のモルモット(筆者の実験)/ 犀星の詩が幾とおりに解釈されたか?
- U <意味>の意味
- ―― T・A・リチャーズの理論と室生犀星の詩をめぐって(二)
- 実験データの分析/ 朔太郎の解釈と吉田精一の解釈はどう違うか/ 危険なヘアピンカーブはどこにあったか/ リチャーズの基準によれば?/ 意味には四つの段階がある
- V <包含的>言語と<排除的>言語
- ――リチャーズの理論と日本の抒情詩、俳句など
- 解釈の失敗はどこから起ったか?/ 俳句の解釈の実験と成果/ 短絡反応は解釈失敗の最大原因/ <包含的>言語と<排除的>言語/ 抵抗ある作品
- 第二章 <アンビギュイティ>(詩的あいまい)<パストラル>(牧歌)
- T <あいまい>の美学(一)
- ――エンプソンの分析技法と芭蕉の俳句など
- <あいまい>批評の誕生/ <あいまい>の七つの型を分析する/ 第一型の実例/ 第二型の実例/ 日本の短詩型に応用すれば
- U <あいまい>の美学(二)
- ――エンプソンの分析技法と日本の詩、俳句など
- 藤村の詩と疑似論理/ 「誤解」をたたえる美学/ 芭蕉の句における文脈の<あいまい>/ イメジャリーと論理の<あいまい>/ <あいまい>の反作用/ 読者の心理は劇場である
- V <あいまい>の限界と<牧歌>への発展
- 異本を肯定する原理は何か/ ふたたび犀星の詩をとりあげて/ <あいまい>の限界(一)/ <あいまい>の限界(二)/ <あいまい>の限界(三)/ <あいまい>の限界(四)/ <牧歌>の誕生
- W <牧歌>の諸変型(一)
- ――エンプソンの分析批評と短歌および井伏鱒二の小説
- <牧歌>という傾斜構造/ 日本の<牧歌>は?/ 『多甚古村』/ <牧歌>と風刺の関係
- X <牧歌>の諸変型(二)
- ――エンプソンの理論と井伏鱒二の小説
- 井伏文学と芥川の『河童』/ 「言葉について」/ 「シグレ島叙景」/ 「丹下氏邸」/ 「遙拝隊長」
- 第三章 <インテンショナル・ファラシー>論と<パラドックス><アイロニー>
- T <批評的>立場と<インテンショナル・ファラシー>
- 印象批評と分析批評/ <歴史>対<批評>/ ブルックスと文学史/ 壺作りの美学/ 志賀直哉とインテンショナル・ファラシー/ ゲーテ、ヴァレリー、その他/ 朔太郎の俳論
- U <インテンショナル・ファラシー>と<パラドックス>
- 主体的な意味/ 立原道造の詩の分析/ <意図>と<意味>の違い/ 木下杢太郎の詩
- V <パラドックス>と<アイロニー>(一)
- ――ブルックスの批評理論と日本の短歌
- 用語の定義/ テニソンの詩の分析/ パラドックスの限界と普遍性(日本の歌に応用して)
- W <パラドックス>と<アイロニー>(二)
- ――短歌から俳句へ
- 吉井勇と島木赤彦/ 俳句はいっそうパラドクシカルである/ 俳句と英米文学/ 芭蕉
- X <パラドックス>と<アイロニー>(三)
- 辞書の定義/ 「千曲川旅情の歌」/ 二種類のアイロニー/ 『天平の甍』/ 『風林火山』/ ドラマチック・アイロニーと啄木の歌/ 啄木とエリオット
- 第四章 イメジャリー
- T <イメジャリー>のとらえかた(一)
- ニュークリティシズムと<イメジャリー>/ イマジズムと日本の詩/ 新しい心理学の影響/ ケネス・バークの影響/ 指数批評、モチーフ批評/ 「富嶽百景」の植物イメジャリー/ 「檸檬」の例
- U <イメジャリー>のとらえかた(二)
- 「真鶴」の分析/ <イメジャリー>の論理/ 『暗夜行路』の分析
- V <イメジャリー>のとらえかた(三)
- 長塚節の短歌/ イメジャリーの二つの論理/ 連続的イメジャリー/ 断絶的イメジャリー/ 芭蕉の諸例
- 第五章 <象徴><古態型><神話>
- T <ニュークリティシズム>に続く批評
- ネオ・フォーマリズムとしてのニュークリティシズム/ ニュークリティシズムの新しさ/ ニュークリティシズムに続く批評/ ニュークリティシズムとの共通点/ 相違点/ その長所/ 心理学と文学批評/ <象徴>批評の定義/ フロイト派とユング派の違い/ <古態型>の定義/ <神話>の定義/ 実例―『白鯨』/ 実例―『ハックルベリー・フィン』/ その限界/ 自由な応用が望ましい/ 実践―「聖家族」
- U 「聖家族」堀辰雄
- メタフォリカルな第一文節/ アレゴリカルな第二文節/ 「死人のやう」な客/ もう一つの「死の家」/ 細木夫人の価値と限界/ 誰の子か?/ 老王と若き王/ 聖母崇拝/ 聖母の限界/ 娘の絹子/ 絹子の無意識の変化/ アーキタイパルな経験/ バラのイメジャリー/ バラと踊り子/ 視覚のイメジャリー/ 愛の成長と「聖家族」のイメジャリー/ 天使としての絹子/ 細木夫人の位置/ 九鬼の位置/ 扁理の位置/ 「死の町」での啓示/ 「裏側」の論理/ 小犬のイメジャリー/ 絹子の変貌/ 世代の受け渡し/ 「聖家族」メタファーの完成/ 最終的評価
- 第六章 これからの批評
- T ニュークリティシズムをこえて(一)
- 新・新批評への展望/ <おどろき>の原理/ 第二芸術論と<おどろき>/ 「枠」はゆるやかにして用いよう
- U ニュークリティシズムをこえて(二)
- 主体的批評の危険性/ 批評家の思い上がり/ <インテンショナル・ファラシー>論の限界/ 「複雑信仰」の弊害/ 守武の俳句/ ジレンマからの脱出/ 批評の選ぶべき道/
- 応用編
- 第一部 俳句
- T 松尾芭蕉
- 古池や…/ 石山の…/ 辛崎の松…/ 蛸壺や…/ 野ざらし…/ 秋探き…/ 此の秋は…
- U 与謝蕪村
- 地車の…/ 牡丹散て…/ 朝がほや…/ 海手より/ 春雨や…/ 莱花や…/ 飛蟻とぶや…/ 討ちはたす…/ 大とこの…
- V 近代俳句
- 柿くえば…<子規>/ 遠山に…<虚子>/ 桐一葉…<虚子>/ 赤い椿…<碧梧桐>/ 万緑の…<草田男>/ きつつきや…<秋桜子>/ 芋の露…<蛇笏>/ ながきながき…<楸邨>/ 夏草に…<誓子>
- 第二部 短歌
- T 万葉・古今・新古今
- 春過ぎて…<万葉・持統天皇>/ 淡海の海…<万葉・人麻呂>/ 小竹の葉は…<万葉・人麻呂>/ あしびきの…<万葉・人麻呂歌集>/ たらちねの…<万葉・読人不詳>/ 若の浦に…<万葉・赤人>/ うらうらと…<万葉・家持>/ 春の苑…<万葉・家持>/ しら露も…<古今・貫之>/ 山深み…<新古今・式子内親王>/ にほの海や…<新古今・家隆>/ ほのぼのと…<新古今・後鳥羽天皇>
- U 近代短歌
- くれなゐの…<子規>/ 天地の…<左千夫>/ 高山も…<左千夫>/ 馬追虫の…<節>/ 夕焼け空…<赤彦>/ 信濃路は…<赤彦>/ 死に近き…<茂吉>/ のど赤き…<茂吉>/ めん鶏ら…<茂吉>/ 清水へ…<晶子>/ 劫初より…<晶子>/ 春の鳥…<白秋>/ 昼ながら…<白秋>
- 第三部 抒情詩
- T ほのかにひとつ 北原白秋
- U 竹 萩原朔太郎
- V 冬が来た 高村光太郎
- W 甃のうへ 三好達治
- X 雨 西脇順三郎
- Y 富士山 草野心平
- [ 正午―丸ビル風景 中原中也
- 第四部 短編小説
- T 「城の崎にて」志賀直哉
- 構成/ 静かなサスペンス/ 理知の後退/ 本論への橋渡し/ 「然し」の重要性/ 「自分」とハチ/ 第一の死―静かな死/ 死への親しみ/ ハチとの同化/ 死への願望/ 第二の死―見苦しい死/ ネズミとの同化/ 死の二面性/ 第三の死/ その時間帯/ 桑の葉のパラドックス/ 偶然の死/ イモリとの同化/ 序投との照応/ 結尾部と導入部の照応/ 外国の短編との比較/ 志賀直哉の「神曲―地獄編」/ 『暗夜行路』の虫類/ 「濠端の住まひ」との比較/ 神と作家/ <寓意的解釈>
- U 「羅生門」芥川竜之介
- 物語を段階に分ける/ 導入部の異常性/ 異常性の段階的強調/ カラスすらいない/ にきびのイメジャリー/ 第二段の文体/ 芥川と歴史小説/ こりかたまる悪の力/ 下人の心理と舞台背景/ くさめの効用/ キリギリスの効果/ 第四段の文体/ 動物のイメジャリー/ 悪を憎む心/ ニワトリのメタファー/ ニワトリからカラスヘ/ カラスのイメジャリーの照応/ 下人のウソ/ 虚栄心とニキビ/ 下人の悪に対する反応/ 悪の連鎖反応/ 幕切れのスポットライト/ 半行の効果/ 羅生門のアイロニー
- V 「鼻」芥川竜之介
- 鼻と腸詰め/ 二進法のパターン/ 二進法の展開/ 鏡と自慰/ 人格の堕落/ 「鼠の尿」/ 短鼻術のドラマ/ 鏡の一致/ 作者のアイロニー/ パラドクシカルな罰/ 犬になった内供/ 元の杢阿弥
- W 「山月記」 中島敦
- 文体の分析/ 伏線と<おどろき>/ 「あぶない所だった」という<アイロニー>/ 獣身人心/ 人格分裂/ 時間と悲劇性/ 夜明け前という悲劇性/ 詩人の自意識過剰/ 当事者の告白/ 三次元のパラドックス/ オクシモロンの猛虎/ 酔いつつ醒める/ ドラマチックな結末
- 第五部 長編小説
- T 『三四郎』 夏目漱石(絵に還った美禰子)
- 「森の女」と「他の女」/ 絵の女の歴史/ なま身の女/ 水蜜桃の男/ 二つの引力/ 美禰子を知る/ メメント・モリ/ ハイドリオタフヒア/ 夢の女/ 三四郎の失恋/ 小川のふちのシーン/ 自我と超自我/ 迷羊/ 悪魔と水蜜桃の男/ 結―三つの絵
- U 『雪国』 川端康成(雪と火と)
- 不思議な鏡/ 指がおぼえていた女/ 生霊と本体/ 視線の方向/ 赤い駒子/ 白い駒子/ 徒労と真面目/ もう一つの鏡/ 白のなかの赤/ 雪中火事/ 天の河
- V 『金閣寺』 三島由紀夫(プラトン主義者の犯罪)
- 幻の金閣/ その遍在・永遠・超絶性/ イデアとしての金閣/ 照応の原理/ 内界と外界/ 建物の内・外/ ことばと金閣/ 疎外感/ 金閣焼亡の夢/ 非イデア性への憎しみ/ 乳房と金閣/ 金閣の所有権(一)/ 金閣の所有権(二)/ 原型による思考/ 原型としての有為子/ 金閣破壊のヴァリエイション/ ――1軍刀/ 2金剛院/ 3首の付根のできもの/ 4米兵の女/ 5南泉の猫/ 認識者と行為者/ 閣の金閣・光の金閣/ 密室の破壊・密室への自閉/ 生きる
- 参考文献
- あとがき
序章(冒頭)
今世紀の二〇年代から三〇年代。イギリスでもアメリカでも、文学研究の主流は圧倒的に強力な文献学派によって占められていた。作家の伝記の研究や時代背景の考証が、すぐれた学者たちのよって、おそるべき勤勉さで進められた。作家や作品についてのまともな発言は、専門家の考証の結果をまつほかなく、しかもその専門家ですら、より新しい考証のためには、日を追って末梢的な関心事に没頭せざるをえなかった。のちに「シェクスピアの洗濯代請求書の発掘」ということばでからかわれることになる、あの研究法である。
それに対して、反動が起こった。指導者は主として、そのころ新しい文学をみずからの手で創造しようと苦闘していた詩人たち、およびその理解者たち。これがのちに〈ニュークリティシズム〉と呼ばれることになる批評運動へと発展して行った。
それは本質的にはアマチュアの批評であった。学者ではないから、作品の伝記も知らない、時代背景も知らない、しかし作品にじかにいどめば、それがよい作品かわるい作品かという価値判断はできるはずだ、そしてそれこそ文学の正しい読み方であるはずだ――こういう信念に支えられた批評であった。
ただし、いわゆる印象批評では、真の批評の名に価しないから、この批評家たちは価値判断の基準を厳密に方法論的に確立しようとこころみることになる。それが作品分析という操作としてあらわれたのである。
この批評運動は、一九五〇年代まで、あたるべかざる勢いにみえた。ところがその後、なんとなく静かになった。伝統的な文献学派との平和共存路線を選んだかにみえる。これをあるものは、批評運動が失敗したのだといい、あるものは、成果を収めたからだという。それは見方によるだろう。ただ、まちがいなくいいうることが一つ。それは、この批評運動の前と後では、文学作品に対する一般の接近のしかたがちがう、つまり、作品そのものにとにかくとりくもうという意識がたしかにあるということだ。これらの批評家たちの敵ですら、彼らの残した影響力から完全に自由であることはできない。
この種の批評の欠点は、あきらかなものであった。これはイギリスの例だが、いわゆる批評家的な批評と、学者的な批評とが、「ケンブリッジ学派」対「オックスフォード学派」というかたちで対立したその国で、前者の総帥リーヴィスの批評の方法を、後者の総帥のベイトソンが、「無人島の批評」という、まことに適切なことばで呼んで、批評したのである。すなわちリーヴィスの批評は、たった一冊のアンソロジー(詞華集)だけを持って無人島に漂着した男の詩の読みかたであって、そこではこれまでの学者たちの研究も参照されていなし、作者の伝記とか、詞華集以外の作品とかを比較参照することもなされていない、と。
まったく参照されていないというのは、言い過ぎであろうが、しかしこの批評のたてまえが作品にじかにいどむことである以上、参考文献が第二義的な意味しか持たなくなるのは当然である。そして私は、この点こそこの種の批評の最大の弱点であることを認めたいとおもう。
しかし、同時に、これはこの批評の最大の美点でもあるだろう。おもうに、読者が、もし文学をもって――ニュークリティックがそうしたように――自己の全人格をかける価値があるものとみなすならば、彼は一冊の詞華集だけをたずさえて無人島に漂着するだけの勇気を、まず持たねばならないだろう。そしてこれまでの人類の英知が操作と認めたところの古今の名作をじかに読んで、その価値のあらゆる可能性を探求しようとこころみるべきである。参考書類とりそろえた図書館のなかでなければ文学作品が読めない読者は、あまりにひ弱な文明人と呼ばれても仕方があるまい――ただし、無人島から帰ってきたあとでも、だんじて図書館に足を踏み入れようとしない読者があったとすれば、これは野蛮人であり、文明の敵である。そしてほんとうのニュークリティックは、けっして野蛮人ではなかった。
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