- まえがき
- T 改革をどこから手をつけるか
- 一 「12歳問題」が生まれ始めている
- 二 小中一貫教育のすすめ
- 三 学級崩壊はなぜ起きるか
- U 学級集団をどう捉えるか
- 一 学級集団を捉える視点
- 二 子どもにとっての適正な学校規模
- 三 少人数学級は果たしてよいか
- V 学級文化の復活
- 一 少ない個性的な学級訓・校訓
- 二 無個性な中学校の校歌
- 三 教室文化で何が流行っているか
- 四 半年間の教室の流行追跡 ─誰が流行の担い手か
- 五 教室のリーダーが変わった
- 六 子どもの裏文化の再生は可能か
- 七 好きな教師にはニックネームがある
- W 子どもの仲間行動の変化
- 一 仲間行動の追跡
- 二 クラスの中の人間関係
- 三 男子の仲間集団が変わった ─男子の孤立化が始まる
- 四 1年間の学級の仲間集団の追跡
- 五 女子中学生が活躍する
- X 教師は子どもにどんな影響力をもつか
- 一 教師によって子どもはどう変化するか
- 二 教師と子どもの相互作用がもたらす効果
- 三 学級通信の分析
- 四 大きく変わる学級通信
- Y 学校・学級の集団的な機能の見直し
- 一 学校・学級は何をすればよいか
- 二 心の教育を学校に取り入れる視点
- 三 学級と家庭とのツーウェイ文化の創造
- 終わりに――新しい学校・学級づくりの視点
まえがき
─学校・学級を学びの共同体にしよう―
学校・学級は学級崩壊、いじめ、不登校の子どもを抱え制度疲労を起こしている。今やその存在が問われている。
それでは学校・学級は何ができるのであろうか。できて、しなければならないことは、基本的には教科の学習体験と子ども同士の生活体験の保障である。古くからいわれてきた陶冶と訓育である。短くいえば、勉強と生き方を学ぶことである。
そう考えると、学校・学級と民間の学習機関(予備校・塾)とどこが違うのだろうか。
民間の学習機関の学習は基本的には個人学習である。自分の能力に合わせて教材を選び、1人で学習するスタイルが中心である。
ここには「学びの共同体」という発想はない。学習は相互に刺激し合ってするものという発想はない。学習はあくまで1人で行うものと思っている。
ところが、学校・学級の学習は集団の中でともに学びあう学習スタイルである。子ども同士が教師の指示や示唆を受けてともに刺激し合い、助け合い、競い合う学習である。
これが「学びの共同体」である。学校・学級の再生の道は、この「学びの共同体」づくりである。
しかしながら子どもにとって学校・学級は共同体になっていない。学校・学級が共同体になるには生活空間が「身内」と「世間」にならなければならない。
子どもの生活空間を「身内」「世間」「赤の他人」の3つに分けたとき、今の学級は「赤の他人」的になりつつある。本来「身内」と「世間」がミックスされた学級に「名前と顔」が一致しない人が増えているのである。
例えば、小中学生のクラスの中で「名前と顔」が一致しない人がいる、と答えた者は15%から20%近くいる。これは学級が出来た4、5月のデータではない。集団ができてかなり日数がたった10月に行った調査結果である。
学級の空間が「身内」と「世間」になっているならば、メンバーはみんな顔見知りであり、彼らの行動を規制する規範が生まれている。
学校・学級を「学びの共同体」にするには、学級から「赤の他人」の空間をなくし、「身内」と「世間」をミックスした生活空間にするのが先決である。
もう1つ、共同体は「ハレ」と「ケ」(聖と俗)の側面がある。作品を作り上げる努力はつらい(ケである)。しかしみんなで努力して作品を作り上げたときの喜びはひとしおである。それをみんなで分かち合い喜び合うのである(ハレである)。
学習は日常的な活動でつらいときが多い。「ケ」の生活は変化がないときが多い。しかしそうした積み重ねが実を結ぶ。そしてそれを祝うのが「ハレ」のお祭りである。このお祭りはみんなで参加する。成果に個人差はあるが、喜びはみんなで分かち合う。
合唱コンクールの練習はつらい。しかしそのつらさを乗り越えよい成果を収めたときの喜びは格別である。協同してつくりあげた作品を発表するのが文化「祭」である。そしてこの「祭り」は、「学びの共同体」から生まれる。
学校・学級は子どもにとって心の居場所であり、行動を規制する共同体でなければならない。と同時に協同の活動を通して「お祭り」を体験し生き方を身につける場でもなければならない。
本著書は、今子どもの世界で何が問題となり、小中学校のシステムは何が問われ、学校・学級と教師の何が問題であるかを指摘し、具体的な研究成果をもとに改革の方向を提案する。
2002年10月
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- 明治図書