- まえがき
- T 楽しみながら読む十五の話
- 一 ふれあい
- 1話 鶏小屋のへび
- 2話 先生早くお弁当にしてよォ
- 3話 鼻すじの内出血
- 4話 達ちゃんのたんこぶ
- 5話 フーちゃんがんばれ
- 二 おもいやり
- 6話 半分のわら半紙
- 7話 へびにかまれた話
- 8話 電話のおじぎ
- 9話 おもらしの教え
- 10話 あの二人は恋人だ!
- 三 たのしみ
- 11話 ああ、それなのに
- 12話 夫婦げんかはなぜ起こる
- 13話 黒板の下絵
- 14話 入浴シーンと洗剤と
- 15話 子ネコの一件
- U 味わいながら読む十五の話
- 一 ぬくもり
- 1話 三重丸の落書き
- 2話 盗んだ人が喜ぶじゃないか
- 3話 くつ下をぬぐ大仕事
- 4話 徐行ありがとう
- 5話 課長さんの極秘情報
- 6話 先生は私が嫌いだって!
- 二 くつろぎ
- 7話 消しゴム事件
- 8話 いいものあげる
- 9話 名札をかしてね
- 10話 一輪の梅の花
- 11話 ハイセンス・ジョーク
- 三 あじわい
- 12話 かわいがり過ぎると
- 13話 畑の大学教授さん
- 14話 ありがとう、枯れ葉よ
- 15話 たった一字の重み
- V 考えながら読む二十の話
- 一 たちどまる
- 1話 先生の馬鹿ァ!
- 2話 百発百中でこそ技術
- 3話 体を動かす喜び
- 4話 小さかったお返し
- 二 みつめる
- 5話 摩擦が生ずるわけ
- 6話 万引事件と警備員さん
- 7話 みっちゃんのもてなし
- 8話 医学博士のかぜ薬
- 9話 落ちこぼれについて
- 10話 小さな扉
- 三 ふりかえる
- 11話 ホームに座る子ども
- 12話 古い机と新しい机
- 13話 心のこもるもてなし
- 14話 全盲の著者
- 15話 サツキの大家
- 四 かんがえる
- 16話 老女教師の薄化粧
- 17話 鉄砲の弾
- 18話 雪の朝
- 19話 心に残る一試合
- 20話 鯉の天国
- W 本物を求めて読む九つの話
- 一 ひとりだち
- 1話 雨の中のサッカー
- 2話 目も耳も外向き
- 3話 親子と師弟
- 4話 しめきり人生
- 二 しなやか
- 5話 秘密のままで
- 6話 紅茶とあんか
- 7話 あの握手、あの拍手
- 8話 紫露草の白い根
- 9話 りっしんべんのつく漢字
- X 幸せのために読む十の話
- 一 しあわせ
- 1話 頼朝の墓前で
- 2話 米兵の落書き
- 3話 ああ、極楽、極楽
- 4話 蔵相の名答弁
- 5話 試合でよかったなあ
- 二 ゆとり
- 6話 天下の名答案出現
- 7話 受験番号「四」
- 8話 あるお点前
- 9話 人生の月謝
- 10話 内緒の支那そば
- 付記─―家族読書のすすめを兼ねて─―
- あとがき
『家教育・道徳教育の復権』シリーズ発刊のメッセージ
「人は、どこまで行こうとも己が戸口から出立せねばならぬ」というのは、イギリスの諺だそうです。私は、この諺がとても好きです。思い出す度になるほどなあ、と実感します。「己が戸口」というのは「自分の家の戸口」ということです。どの人も、誰も彼も、みんな「自分の家の戸口」から出かけるのですね。どんなに遠いところへ出かけるにしても─です。これは、何も旅立ちだけのことではありません。あるいはこの「出立」という言葉は、いわゆる旅行だけを意味するものではない、と言った方がよいかもしれません。人の成長、前進、あるいはまた人生そのものを意味するとも言えるでしょう。つまり、どんな人の人生も、みんなそれぞれの「家庭」が出発点になるのだという道理をこの諺は教え、考えさせてくれるものだと思うのです。
そんなことはわかっているよ、と思う方もあるでしょう。そうですね、何も今になって急に始まったような理屈ではありませんから。しかし、私は、この頃の世間を見ていると、頭ではわかっているのかもしれませんが、本当にそれを納得しているのだろうかと疑いたくなることがちょくちょくあるのです。自分の子どもをきちんと教育していくことが親としての重要な大仕事、大義務なのだという自覚を持ち、それを実践しているという家庭が、一体どのくらいあるでしょうか。残念ながら、私はそれはごく少数の家庭に限られるのではないか、と思うのです。多くの家庭が、子どもを「好きなように」させていて、それが子どもの「自主性」や「主体性」を尊重した新しい民主的な子育ての仕方なのだと考えているのではないでしょうか。きちんと、はっきりそのように自覚したり、明言したりはしないにしても、潜在的な子育て観としては、そんなところに大方が落ちつくのではないでしょうか。
ここのところの数年間、かつての日本人の誰もが夢想だにしなかった子どもの事件が多発しています。「子どもが変わってきた」と言う人がいます。そうかもしれません。「学級崩壊」などという現象は、十年以上の昔には存在しませんでしたし、そういう言葉もありませんでした。援助交際も同様です。「不登校」という言葉も、比較的新しい言葉です。最近では、「注意欠陥多動性障害」などという子どもの「病名」も聞かれるようになりました。「子どもが変わってきた」のでしょうか。あるいはそうかもしれませんが、そうとばかりは言えないと私は思うのです。それらの多くは、家庭や学校の「教育の仕方が変わった」ために、結果として子どもが変わってきたのではないかと思うのです。
皆さんは、次のような発言をどう思いますか。一つ一つに賛成か反対か、○×を選んでみて下さい。
@ 火事が多発している。だから、消防車をもっと増やさなくてはいけない。→ ○ ×
A 悩みを抱えている子が多い。だから、学校カウンセラーを増やさなくてはいけない。→ ○ ×
B 争いごとが増えている。だから、弁護士をもっと多くしなければならない。→ ○ ×
C 勉強についていけない子が多い。だから、もっと教科内容を易しくすべきだ。→ ○ ×
D 不登校の子どもが多い。だから、フリースクールを増やして対応するのがいい。→ ○ ×
どの発言も、「現象→対応」という論理構造を持っています。どの発言も、至極尤もなことに思われます。事実この中のいくつかは、国や地方公共団体によって取り組みがなされてもいます。理屈に合うからでしょう。
しかし、私はいずれに対しても賛同しかねます。その対応や解決の仕方は一面的ではないかと思うからです。
ここに挙げられている「対応」は、いずれも「現象」をそのまま肯定的に受けとめることが大前提になっています。「現象」自体が孕む問題点や、「現象」そのものを疑い、分析するという発想に欠けているように思えてなりません。例えば、「火事の多発」という「現象」は、そのまま肯定的に受容するのでなく、「火事を出さない」ようにする「防火教育」の徹底、普及こそが肝要なのではないでしょうか。それができないのだ、と諦めてしまえばどうしても「消防車の増設」をしなくてはいけません。しかし、「消防教育」や「火事を出さない」ようにすることは本当に「できない」のでしょうか。根絶、皆無を期するのは無理かもしれませんが、かなりの減少に導くことは決して不可能ではないと思うのです。少なくともその方向で努力することが根本的な態度だと思います。
同様に、「悩みを抱えている子」を、そのまま肯定的に受けとめることにも疑問を感じます。なるほどそのようになってしまった子どもにはカウンセラーが必要でしょう。しかし、もっと根本的なことは、「悩みを抱えない子」に育てていくことです。そんなことはできない、と考えてしまわずに、少々のことではへこたれない、明るく、強く、逞しい子どもに育てていく教育のあり方を探り、考え、具現することが根本的に大切です。私は、今の時代の子どもは、大人や社会や、あるいは親や教師が、その根本的な考え方を疎かにしたための被害者であるように思えてならないのです。不適切な育て方をされたために、雑多で些末な悩み癖がついてしまったとしたら、子どもは不幸です。当たり前に、適切に育てられればカウンセラーのお世話にならなくても済むでしょう。
「争いごとが増える」というのも、「勉強についていけない子が増える」というのも、「不登校の子どもが増える」というのも、その現象自体の解消策が講じられるべきでしょう。それこそが根本的に大切な努力でしょう。
総じて、現代はその場しのぎの「ハウツウもの」が流行し、根本的で本質的で、哲学的な教育が軽んじられ、忘れられ、その故に人々は多く些末な悩みにとらわれている、とは言えないでしょうか。むろんのこと、火事になったら消防車が必要です。病気になったら医師による治療が必要です。しかし、そもそも「教育」というものの本質は「対処」にあるのではなく、「予防」にこそある筈です。学校教育にせよ、家庭教育にせよ、子ども達の生涯が幸せであり、かつ人間として充実感の持てるものであるようにしていくことが、その本来の働きです。この平凡にして当然のことが忘れられて、目先のその場しのぎのハウツウ的な発想が世に歓迎されているのです。
この『家庭教育・道徳教育の復権』シリーズはこのような考え方に立って、子どもの長い人生を間違いなく幸福に導き、その上になお人間としての本来的な生き方をも身につけられるようにするための、根本的、本質的な家庭教育のあり方を提言するものです。しかし、だからと言って難解で、複雑で、ややこしい子育て論だったら結局のところそれらは何の役にも立ちません。このシリーズは、まずわかりやすくて、楽しくて、面白くて、そして役に立つということをモットーに書いてあります。
元来、親が子どもを育てるという営みは、文化の未開な太古の昔からなされてきているのです。文字も、書物も、家庭教育などという言葉さえもない太古の時代から子育ては営々となされてきたのです。むしろ、文化の発展や進歩とともに、子育ての本来のありようがねじ曲げられてきてしまったと考える方がいいかもしれません。子育てを、ややこしく、難しく考えるのでなく、その根本に立ち返って考えてみることが、むしろ解決の糸口になるのかもしれません。どうぞ、読者の皆さんは本書を気楽に読み進めながら子どもを育てることの楽しみや面白さや大切さを味わって下さい。子育てが、楽しく、面白く、大切だと感じ始めたその時から、真当な、本物の家庭教育が始まったのだと考えて間違いはないでしょう。皆さんの子育ての日々に、勇気と希望が生まれてくることを心から願ってメッセージと致します。
二〇〇三年九月一九日 早朝五時半に記す /野口 芳宏
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- 明治図書