家庭教育・道徳教育の復権2
自立をめざす子育て

家庭教育・道徳教育の復権2自立をめざす子育て

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溺愛でも放任でもなく、子どもをやさしく鍛えていく。

世の流れに迎合するのではなく、耳あたりのよい言葉でおもねることをせず、もっぱら自らの体験の中から考えたこれが本物なのではないかという思いを率直にこの本に刻みましたと著者は訴える。自立をめざす子育て論。


復刊時予価: 2,497円(税込)

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電子書籍版: なし

ISBN:
4-18-924416-3
ジャンル:
その他教育
刊行:
対象:
小・中
仕様:
A5判 152頁
状態:
絶版
出荷:
復刊次第

目次

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まえがき
T ああ! そのことのすばらしさ わが子がいる
一 子どもはかけがえのない宝です
1 授かりものとしてのわが子
2 宝としてのわが子
3 かけがえのないわが子
二 子育ては、最上最高の楽しみです
1 最愛のものとともにある楽しみ
2 純白の布を染めあげていく楽しみ
3 悩み、苦しむ、という楽しみ
U 生きていることのすばらしさの実感をお手伝いはこんなに楽しい
一 日曜日は家族労働日です
1 わが家の日曜は家族労働日
2 長女の作文
3 家族のきずなは「生産的連帯」で
二 手伝わせるのは愛の行です
1 農繁期休業という休み
2 手伝わせない現代の家庭
3 そして、親と離れていく子どもたち
4 私の手伝い──わが家のどん底の中で──
三 手伝いは家族を結びつけます
1 手伝う、ということの意味
2 体験を奪われていく子どもたち
3 家族から浮き上がる子どもたち
4 手伝いの種はこんなにいっぱい
V 自立はそこから始まる 子どもにも責任を
一 現実こそが真実です
1 現在を幸福だと考える
2 人生への順応が大切
3 今の幸せに気づく──結果幸福論──
二 責任は子どもにもあります
1 体罰への抗議事件
2 自分の責任だと考える──責任内在論──
三 金銭のしつけは責任感を育てます
1 わが家のアルバイト白書
2 おこづかいリポート
3 名案! わが家のお年玉
4 時には、嬉しいご褒美も
5 金銭のしつけ七つのポイント
W そこから子どもは立ち上がる つき放す愛
一 行き届きすぎの害もあります
1 きめ細かな指導をする先生
2 行き届きすぎる問題
3 むしろ、荒削りな教育を
4 指示を控えて判断させる
二 しない方がよい親切もあります
1 安易な許可を与えない
2 努めて手をかけない
3 気休め、口癖の叱言は言わない
三 こんな言葉が心を育てます
1 ねぎらいといたわりの言葉
2 ほめる言葉と励ましの言葉
3 感謝の言葉を子どもにも
X 親子の現代模様考 子どもの世話になれる老後を
1 福祉の充実が進んでいるが──
2 恩返し論と親孝行論の再考──敬神崇祖論──
3 定めなき人の世、それ故にこそ
4 子どもの世話になるのが自然
5 親の親への対し方が問題
Y 母の大役、父の責任 子育ては国家百年の大事業
一 夢の叶え方には二つあります
1 自分中心主義の広がり
2 人様のお蔭、世のお蔭
3 世のため、人のため──社会的自己実現論──
二 「自由」を履き違えると大変です
1 「親馬鹿」は愛の証
2 「自由」は戦後の宝
3「自由」の孕む危険に注意
三 外国では「国家意識」を高めています
1 一カ月、六カ国の海外研修
2 ソビエトとユーゴスラビアの国家教育
3 スイスでも軍事訓練
4 自由社会の病理──観客民主主義──
5 ケネディ大統領の就任演説
四 子育ては国家的大事業です
1 子育ての「私的側面」と「公的側面」
2 国際化時代への子育て論
3 子育ては国家的大事業
4 美しい日本の未来を明るく
結びにかえて
あとがき

『家教育・道徳教育の復権』シリーズ発刊のメッセージ

 「人は、どこまで行こうとも己が戸口から出立せねばならぬ」というのは、イギリスの諺だそうです。私は、この諺がとても好きです。思い出す度になるほどなあ、と実感します。「己が戸口」というのは「自分の家の戸口」ということです。どの人も、誰も彼も、みんな「自分の家の戸口」から出かけるのですね。どんなに遠いところへ出かけるにしても─です。これは、何も旅立ちだけのことではありません。あるいはこの「出立」という言葉は、いわゆる旅行だけを意味するものではない、と言った方がよいかもしれません。人の成長、前進、あるいはまた人生そのものを意味するとも言えるでしょう。つまり、どんな人の人生も、みんなそれぞれの「家庭」が出発点になるのだという道理をこの諺は教え、考えさせてくれるものだと思うのです。

 そんなことはわかっているよ、と思う方もあるでしょう。そうですね、何も今になって急に始まったような理屈ではありませんから。しかし、私は、この頃の世間を見ていると、頭ではわかっているのかもしれませんが、本当にそれを納得しているのだろうかと疑いたくなることがちょくちょくあるのです。自分の子どもをきちんと教育していくことが親としての重要な大仕事、大義務なのだという自覚を持ち、それを実践しているという家庭が、一体どのくらいあるでしょうか。残念ながら、私はそれはごく少数の家庭に限られるのではないか、と思うのです。多くの家庭が、子どもを「好きなように」させていて、それが子どもの「自主性」や「主体性」を尊重した新しい民主的な子育ての仕方なのだと考えているのではないでしょうか。きちんと、はっきりそのように自覚したり、明言したりはしないにしても、潜在的な子育て観としては、そんなところに大方が落ちつくのではないでしょうか。

 ここのところの数年間、かつての日本人の誰もが夢想だにしなかった子どもの事件が多発しています。「子どもが変わってきた」と言う人がいます。そうかもしれません。「学級崩壊」などという現象は、十年以上の昔には存在しませんでしたし、そういう言葉もありませんでした。援助交際も同様です。「不登校」という言葉も、比較的新しい言葉です。最近では、「注意欠陥多動性障害」などという子どもの「病名」も聞かれるようになりました。「子どもが変わってきた」のでしょうか。あるいはそうかもしれませんが、そうとばかりは言えないと私は思うのです。それらの多くは、家庭や学校の「教育の仕方が変わった」ために、結果として子どもが変わってきたのではないかと思うのです。

 皆さんは、次のような発言をどう思いますか。一つ一つに賛成か反対か、○×を選んでみて下さい。


@ 火事が多発している。だから、消防車をもっと増やさなくてはいけない。→ ○ ×

A 悩みを抱えている子が多い。だから、学校カウンセラーを増やさなくてはいけない。→ ○ ×

B 争いごとが増えている。だから、弁護士をもっと多くしなければならない。→ ○ ×

C 勉強についていけない子が多い。だから、もっと教科内容を易しくすべきだ。→ ○ ×

D 不登校の子どもが多い。だから、フリースクールを増やして対応するのがいい。→ ○ ×


 どの発言も、「現象→対応」という論理構造を持っています。どの発言も、至極尤もなことに思われます。事実この中のいくつかは、国や地方公共団体によって取り組みがなされてもいます。理屈に合うからでしょう。

 しかし、私はいずれに対しても賛同しかねます。その対応や解決の仕方は一面的ではないかと思うからです。

ここに挙げられている「対応」は、いずれも「現象」をそのまま肯定的に受けとめることが大前提になっています。「現象」自体が孕む問題点や、「現象」そのものを疑い、分析するという発想に欠けているように思えてなりません。例えば、「火事の多発」という「現象」は、そのまま肯定的に受容するのでなく、「火事を出さない」ようにする「防火教育」の徹底、普及こそが肝要なのではないでしょうか。それができないのだ、と諦めてしまえばどうしても「消防車の増設」をしなくてはいけません。しかし、「消防教育」や「火事を出さない」ようにすることは本当に「できない」のでしょうか。根絶、皆無を期するのは無理かもしれませんが、かなりの減少に導くことは決して不可能ではないと思うのです。少なくともその方向で努力することが根本的な態度だと思います。

 同様に、「悩みを抱えている子」を、そのまま肯定的に受けとめることにも疑問を感じます。なるほどそのようになってしまった子どもにはカウンセラーが必要でしょう。しかし、もっと根本的なことは、「悩みを抱えない子」に育てていくことです。そんなことはできない、と考えてしまわずに、少々のことではへこたれない、明るく、強く、逞しい子どもに育てていく教育のあり方を探り、考え、具現することが根本的に大切です。私は、今の時代の子どもは、大人や社会や、あるいは親や教師が、その根本的な考え方を疎かにしたための被害者であるように思えてならないのです。不適切な育て方をされたために、雑多で些末な悩み癖がついてしまったとしたら、子どもは不幸です。当たり前に、適切に育てられればカウンセラーのお世話にならなくても済むでしょう。

 「争いごとが増える」というのも、「勉強についていけない子が増える」というのも、「不登校の子どもが増える」というのも、その現象自体の解消策が講じられるべきでしょう。それこそが根本的に大切な努力でしょう。

 総じて、現代はその場しのぎの「ハウツウもの」が流行し、根本的で本質的で、哲学的な教育が軽んじられ、忘れられ、その故に人々は多く些末な悩みにとらわれている、とは言えないでしょうか。むろんのこと、火事になったら消防車が必要です。病気になったら医師による治療が必要です。しかし、そもそも「教育」というものの本質は「対処」にあるのではなく、「予防」にこそある筈です。学校教育にせよ、家庭教育にせよ、子ども達の生涯が幸せであり、かつ人間として充実感の持てるものであるようにしていくことが、その本来の働きです。この平凡にして当然のことが忘れられて、目先のその場しのぎのハウツウ的な発想が世に歓迎されているのです。

 この『家庭教育・道徳教育の復権』シリーズはこのような考え方に立って、子どもの長い人生を間違いなく幸福に導き、その上になお人間としての本来的な生き方をも身につけられるようにするための、根本的、本質的な家庭教育のあり方を提言するものです。しかし、だからと言って難解で、複雑で、ややこしい子育て論だったら結局のところそれらは何の役にも立ちません。このシリーズは、まずわかりやすくて、楽しくて、面白くて、そして役に立つということをモットーに書いてあります。

 元来、親が子どもを育てるという営みは、文化の未開な太古の昔からなされてきているのです。文字も、書物も、家庭教育などという言葉さえもない太古の時代から子育ては営々となされてきたのです。むしろ、文化の発展や進歩とともに、子育ての本来のありようがねじ曲げられてきてしまったと考える方がいいかもしれません。子育てを、ややこしく、難しく考えるのでなく、その根本に立ち返って考えてみることが、むしろ解決の糸口になるのかもしれません。どうぞ、読者の皆さんは本書を気楽に読み進めながら子どもを育てることの楽しみや面白さや大切さを味わって下さい。子育てが、楽しく、面白く、大切だと感じ始めたその時から、真当な、本物の家庭教育が始まったのだと考えて間違いはないでしょう。皆さんの子育ての日々に、勇気と希望が生まれてくることを心から願ってメッセージと致します。


  二〇〇三年九月一九日 早朝五時半に記す   /野口 芳宏

著者紹介

野口 芳宏(のぐち よしひろ)著書を検索»

1936年(昭和11) 千葉県君津市に生まれる

1958年(昭和33) 千葉大学教育学部国語科専攻卒業,公立小教諭

1963年(昭和38) 千葉大学教育学部附属小教諭(20年間勤務)

1983年(昭和58) 木更津市立西清小,波岡小各教頭

1992年(平成4) 木更津市立請西小,岩根小各校長

1996年(平成8) 北海道教育大学教授函館校

2001年(平成13) 北海道教育大学退官,同大学講師を経て

2002年現在 麗澤大学講師,千葉経済大学短期大学部講師

〈研究分野〉 国語教育,家庭教育,道徳教育

〈所属学会等〉

日本教育技術学会(名誉会長),日本言語技術教育学会(理事)

日本家庭教育学会(会員),(財)モラロジー研究所教育者講師

鍛える国語教室研究会主宰,「国語人の会」代表

※この情報は、本書が刊行された当時の奥付の記載内容に基づいて作成されています。
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