- もくじ
- 序
- T 授業のための「分析批評」入門
- 一 大好きな作品を語るとき
- 問題意識のずれ/ 主想語による分類/ 理解型・表現型/ 内容と形式と
- 二 幸せって何だっけ ――『一つの花』をめぐって
- 破壊と創造/ 主想語コーナー/ いい話/ 易しい作品
- 三 隠された秘密を探る
- コンピュータには批評ができない/ コドモ扱いにしない学習/ イメージは十人十色、イメージ語は一つ/ 「一つ」と「いっぱい」
- 四 「コスモスの花」の色は
- 「コスモス」と「ひまわり」と/ 「花」/ 多義イメージ語/ 対比
- 五 「ミシン」と「おにぎり」
- 「ミシン」の音/ 情報としての「ミシン」/ 二つの時代/ 「おにぎり」の味
- 六 「幸せ」のイメージ語法
- 虚のイメージ語/ 明喩と暗喩
- 七 イメージ語を声にのせる
- 読む―話す・聞く―書く/ 語る(演ずる)ということ/ 「虻のこころ」を語ってみると
- 八 話主は知らない!
- 作者と話主(話者)/ 観察場面と作中場面/ 気持ちが分かるか/ 四つの視点/ 大きな効果
- 九 「思った」のか「言った」のか
- 全知視点/ 思・考語/ 結末の判断/ 『手くろを買いに』の話主/ 『ごんぎつね』の話主
- 十 大造じいさんはひょっとこ?
- 別れのセリフ/ 自尊・自信……/ 無意識えらぶつ/ 喜劇の作調
- 十一 不思議の国の「ぼく」
- 孤独/ ひとりぼっち/ ぼく/ 雨/ 失ったもの 得たもの
- 十二 シャボン玉のはじけるような
- 夏みかんのにおい/ 孤独と有隣/ 独り言の劇的効果/ 解釈と分析
- U 「分析批評」の話
- 一 文芸における感動 ―『ベロ出しチョンマ』(斎藤隆介)に触れて―
- 感動の文学教育/ 国語の教室として大事なこと/ 作者と読者の間のずれ/ 二種類のレポート/ 正解は一つか/ 感動の源を他に伝える能力/ 泣くことが笑うこと
- 二 主想語とイメージ語 ―『おじさんのランプ』(新美南吉)を読む―
- この作品の主題は何か/ 主想語という名の単語/ 音読しながら段落分け/ 希望とか努力あたりに/ 語彙指導と道徳教育/ イメージ語法はイメージ語の使い方/ 体験としての嗅覚・皮膚感覚/ 右脳のはたらき/ 分析は左脳で/ 多義イメージ語としての「ランプ」/ イメージ語とクライマックス/ イメージ語としての「ランプ」の数/ イメージ語による段落構成/ 右脳と左脳のバランス
- あとがき
序
今日、「分析批評」の分析の〈技術〉は、学習者に文章を検討させるための〈技術〉として位置づけられるようになった。
分析の〈技術〉は、それを持たないよりは、持っているほうがいいに決まっている。果物をむくときのナイフのようなものだ。
「アナリスト(分析家)」というのは、かなり高度の技術を身につけた専門家を指していうことがある。精神分析の世界や、証券業界などでは、素人にはくちばしをはさむだけの資格がない。
「分析批評――アナリティカル・クリティシズム」は、素人でも、誰でもできるというのが取りえだ。上手下手はあっても、専門家と素人の区別はない。「分析」と「批評」は、それぞれを切り離すと、冷たい解剖と、熱い礼賛とに分解してしまうのが難点だけれども。
「批評」は、礼賛である。「分析批評」の立場では、批判の意味に使うことはない。だから、「分析」と「批評」は本来矛盾する二つの行為だ。客観性を重んじて、ひたすら文章を切り刻むうちに、折角の感動が褪めてしまうかもしれない。主観に流れると、作品にのめりこんでしまって、一切の分析に拒絶反応を示すようにもなろう。
国語科の教材は、感動的な作品にこと欠かない。そこで授業はいかに感動すべきかという方向へ、教師の主観を中心に組み立てられ、「思い」が重視されてきた。「思い」は〈技術〉にふさわしくない。
分析の〈技術〉は、教師から教師へ、追試の形で伝えられる。その際、この「思い」がすっかり切り落とされてしまうとしたら、問題だ。
授業の追試は、〈技術〉を習得するための効果的な方法だが、教師の教材に対する「思い」を全く欠いたような追試は、避けたい。〈分析〉の観点を、一つ一つ取り立てて細切れに指導しようというような場合は別だ。できれば、作品を丸ごと批評する中で、効果的な表現を取り上げ、そのつど観点について指導するようにしたいのだが。
分析は〈技術〉だ。だからこそ〈志〉が要る。その教材で、何を教えたいのか、どういう人間に育てたいのかといった、教師としての自覚が要る。もっとも、追試を通して自覚を促されるということもあって、一概にはいえない。国語科は、「人間形成」という旗印を殊更大きく掲げているだけに、〈技術〉に対して神経過敏だ。
「分析批評」は、言語を、内容の面からだけでなく、表現形式の面からもとらえようとする。言語がこの両面から成ることぐらい常識だといえばそれまでだが、国語科でも、音楽科を除く他教科と同じように、長い間その内容面にばかりこだわりつづけてきた。いま、その反動で、表現形式面にばかりこだわるというのも故なしとしないが、「批評」の持つ礼賛の姿勢は忘れたくないのだ。
教育技術というのは、教師から教師へと伝えられなければならない〈技術〉だ。そして、場合によっては教師から学習者へ伝えなければならない〈技術〉でもある。
「分析批評」の〈技術〉は、教師の身につけるべきものにとどまらず、学習者の中に学力として定着するような〈技術〉でなければならない。その意味で、教育技術としてよりも、学習技術として考えられるべきだろう。
「分析批評」の学習は、学習者による、教師の〈技術〉の追試である。
「分析批評」の追試学習は、全面的な模倣から、やがて方法的模倣へと変わっていくだろう。それは、「批評」の姿勢が礼賛であることからすれば、当然の帰結だ。
分析の<技術>を通して言語の一面を知り、その内容に対する個人的な感動とそれとを結びつけることによって、作品を語り、自己を語る――初めは、与えられた作品を通しての〈技術〉の模倣であっても、やがては、自分の愛読書について自力でできるようになること、これが「分析批評」の学習によって、学習者が身につけるはずの一つの国語の力である。
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- 明治図書
- 分析批評を学びたいです2020/7/18末丸 拓也