- まえがき
- T 文学教材論の現在
- 一 文学教育論への挽歌
- ──読解指導の復権──
- 1 論題の意味
- 2 なぜ、文学教材の読みの指導ではなく文学教育なのか
- 3 文学教育論の一実態
- 4 文学教育論の低迷
- 5 文学教育の根拠と可能性の論の脆弱さ
- 6 文学教育の読みは読解指導の読みより次元が高いのか
- 二 文学教育論の立場の読みの克服の手立て
- 1 「文学教育」は、魅力的な教育か
- (1) 提案の趣旨について
- (2) 「文学教育」の概念は明確なのか
- (3) 「○○指導」と「○○教育」
- (4) 惨憺たる説明文教材
- (5) 遅々たる説明文の教材化
- (6) 「文学教育」という言葉の魅惑的な響き
- 2 初期文学教育論の退潮
- (1) 戦後新教育時代の読みの学習指導の動向
- (2) 文学教育の目的は、人間性を伸ばすことか
- (3) 文学教育か言語教育かという不毛な論争
- (4) 教材にふさわしい文学の特徴が問われる時
- 3 文学教育とは、学習指導要領と対立する立場なのか
- (1) 文学教育の文学の作風が問題になる時
- (2) 文学教育論の方向「右」にも「左」にも
- (3) 学習指導要領の立場と文学教育の立場
- (4) 学習指導要領に対立する文学教育の立場の形成
- (5) 文学教育に異議を述べるのは指導要領派なのか
- 4 運動論としての文学教育論の終末
- (1) 文学教育論批判者への威圧的な非難
- (2) 大言壮語による空疎な文学教育論
- (3) 文学教育論は、運動論であったこと
- (4) 文学教育論の没落の兆し
- 5 文学教育の再生は可能か
- (1) 文学作品とその教育論の変質の兆し
- (2) 文学教育の立場の独自の根拠の剥落
- (3) 「文学教育の可能性」論にリアリティーがあるか
- (4) 読解指導は正解主義という妄想
- 6 文学教材の読み方学習指導の復権
- (1) 読解指導は、人間教育をしていないのか
- (2) 「文学体験」を大げさに言うことの無意味
- (3) 読み方学習指導の実践論と文学研究の方法論
- (4) テクストの読みと作品研究の離反
- U 文章を読んで分かることの長所と短所
- 一 ことばの力を育てる読み方指導とは何か
- ──文章を読んで分かることの長所と限界──
- 1 ことばの理解とは物事と対応させることか
- 2 未知のことばを物事と対応させられない時はどうなるのか
- 3 名づけることによって物事は生まれる
- 二 文学作品は客観的に存在するのか、読み手の意識の中にあるのか
- ──教材論との関連──
- 1 作品という「物」があるのか、読み手なしではただの文書か
- 2 読み方学習指導の立場をどうするか
- 三 写実小説観の変化と小説の読みの指導法との関連
- 1 物語と小説は同じ意味か
- 2 近代写実小説は、人生論の書なのか
- 3 特定の主義・主張を伝える「傾向小説」(tendency novel)の評価の問題
- 4 「客観的存在」という権威への懐疑の発生
- 5 小説の本質は作品に内在するか、読み手の意識の中にあるか
- 6 主体的な読みは、恣意的な読みではないこと
- 7 いわゆる分析批評の立場について
- 8 想像と想像力の質の変化
- V 文学教材を読み取る立場の変化
- 一 文学の知識を与えることと文学の文章の読み方を教えること
- ──「自ら学ぶ意欲」の育成のために──
- 1 「自ら学ぶ意欲」の育成と授業のあり方
- 2 読み方の指導が、作品研究の仕方から分かれる時
- 3 学習者の立場の重視の考え方の歴史的系譜の素描
- 4 「自ら学ぶ意欲」の提唱は、新しくないか
- 5 「自ら学ぶ意欲」の育成のいくつかの方法
- 6 自力読みの力をつける、読み取り指導の一例
- 7 「主題」追究か、読み取りの手だてか
- 8 「主題」追究を主目的とする指導をやめよう
- 9 文学教育ではなく、国語科文学教材であるべきこと
- 二 文学教材の作風の変化とそれに応じた新しい読みの視点
- 1 文学作品の変質の兆し
- (1) 写実でも、ファンタジーでもない独自な作風
- (2) 新しい文学教材例
- 2 語彙的な意味と文脈上の意味
- 3 分析的な発問と解釈的な発問
- 4 主題読みという道徳的な意味づけ読みはやめよう──小学校六年教材「海のいのち」(東京書籍)を例示して──
- (1) 作者の意図は読み取りの邪魔物であること
- (2) 語句の意味の学習の手立ての種々相
- (3) 好ましくない発問の一例
- 5 時間配当の問題──時間配当を多くすれば、理解はそれだけ深まるか──
- (1) ある学習指導案の問題
- (2) 一つの読み方学習指導のための指導過程案
- 6 結び
- 三 作品の読みとテクストの読み
- ──「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」──
- 1 問題の意味
- 2 作品の読みの立場
- 3 テクストの読みの立場
- 4 作品の読みの実際
- 5 テクストの読みの実際
- 6 作品の読みの、授業への応用
- 7 テクストの読みの、授業への応用
- 8 「テクスト」の読みの長短
- 9 作品としての「てふてふが一匹……」の授業の問題
- 10 テクストとしての「てふてふが一匹……」の授業の問題
- 四 文学研究の立場と文学教材の学習指導の立場の違いを峻別しよう
- ──文学作品の読みと文学教材の読み──
- 1 国語科の領域を考えない肥大化した文学教育論
- 2 「国民精神」の形成の終わりと文学教育論の台頭
- 3 文学教材の広い世界を児童・生徒に提供しよう
- 4 文学(小説)は、物として在るのか読み手の意識の中にあるのかの問題
- 五 現代小説の教材化の可能性について
- 1 純文学と大衆文学
- 2 純文学と教養との結びつき
- 3 読者の読書階層の分離
- 4 小学校の義務教育の実質の成り立ち
- 5 教材としての教養小説の登場
- 6 教材としての教養小説の減退の兆し
- 7 青少年が好む小説の質の変化
- 8 古いものは壊れても、新しい方向は見えない
- 9 新しい小説教材か、新しい指導方法か
- (1) 新教材「子供のいる駅」
- (2) 新教材「レキシントンの幽霊」
- (3) 確認すべき「もの」の箇所と解釈すべき「こと」の箇所
- 10 特定の指導の方式から授業の展開へ
- W 文学教材の新しい教え方
- ──具体的試論──
- 一 「オツベルと象」(宮沢賢治)の読み方学習とは作者の「哲学」を考えることか
- 1 「オツベルと象」の書誌
- 2 粗筋をたどりながら場面に分けることは基礎的な読み方学習であること
- 3 深く広い読み取りへ
- 4 作品の読みと教材の読みとの交差の難しさ
- 二 「最後の箱」(中野重治)の読み方学習の言語技術とは何か
- 1 教材としてのテクストと出典
- 2 学習指導目標の設定にあたって考慮すべきこと
- 3 発問づくりのためのメモ──このテクストの読み取りに必要な言語技術──
- 三 「夏の終り」(伊東静雄)、何をどのように読み取るか
- 1 本文
- 2 教訓のような主題がない文章は教材にならないのか
- 3 表現の情感に浸ること自体が読み方学習であること
- 四 短歌の教材化の立場と読み方学習指導の決め方の問題点
- 1 ある授業における教材観の一実態
- 2 教材化のための一つの資料
- 3 発問づくりのための解釈上の一問題
- 五 俳句の教材化の問題
- ──読み手と原作者との関連の有無──
- 1 闘鶏の眼(まなこ)つむれて飼われけり(村上鬼城)
- (1) 発問づくりのための教材解釈
- (2) 原作者の他の句との関連で読む局面
- (3) 指導案の一例
- 2 種田山頭火の句の教材は、どのように学習させるのか
- (1) 種田山頭火の句を読むことの「困惑」
- (2) 教材化の一試論
- あとがき
まえがき
国語科教育の読み方学習指導の領域のうち、文学教材による指導は、説明・論説・記録などのそれよりも、広く、深く行われてきた。私達は、教材論、指導過程論、授業研究においても、この領域では優れた成果を持っている。それには、いくつかの理由がある。国語科教育は、言葉の伝達機能の局面の適切な使い方についての学習にあり、言葉そのものの認識の深化と拡大に資することにある。ところがこの関係は、結果として逆転して、国語科教科書には、教養を深める読み物集であることが求められる嫌いがあった。その考え方は今でも一部の人々にある。一九四〇年に文部省から公布された「国民学校令施行規則(第二節教科及科目)」には、国民科国語の主要な目標は、「国民的思考感動ヲ通シテ国民精神ヲ涵養スルモノトス」とされていた。読み方学習指導のためには、文学作品は優れた教材になり得る。ただそこには少なくとも次の三つの問題がある。第一にどんな基準で優れた文学教材とするかの選定の仕方の問題がある。第二には、読み方学習指導の具体的な進め方に関わる指導方法論の問題がある。第三の問題は、年間の国語科の授業時間の総数の中で、文学教材による読み方学習指導に費やす配当時間数である。
本書で考察するのは第一と第二の問題である。第三の問題は扱わない。その理由は今から二〇年ほど前までは、自主教材による「文学の授業」に多くの時間を取り、作文は宿題にし、話すこと・聞くことや言語事項は扱わないという教員もいた。しかし今ではあまり問題ではなくなったからである。第一の問題は、具体的には文学教育論と文学観に関わる問題である。それは本書の第一章、第二章で考察した。優れた文学教材の論拠とは、その教員が二〇歳前後の時に読んで感動した文学作品であることが多い。その教員にとっては当然なことである。ただし児童・生徒のための読み方学習指導の教材ということを考えた場合、その教員の文学観が不変であることが問題なのである。授業者と児童・生徒との間には、物の見方の世代間の相違もあるし、それよりも大きな文学作品そのものの形態変化(metamorphose)も起こっている。その問題についての具体的な考察を第三章で行った。
本書で文学教材の新しい教え方という問題で主として考察したことは、第一に原作者の立場と読み手の立場の関連の有無についての考え方の問題であり、第二に研究者の作品研究の立場と学習者がテクストとして読み方学習のために読む立場の混同が起こりやすいことの問題である。第三に主題読みという名の「教訓」読みに集中させることの問題である。これらの問題については、第三章までに考察して来た。そして第四章では、教材に即して具体的に考察した。第三章までに取り上げた教材と重複しないようにし、これまで学校関係の様々な研究会や研修講座で取り上げて扱ったものの中から、小説、近代詩、短歌、俳句のいくつかについて考察した。
文学教材の教材論や指導過程論や授業論については、数多くの優れた文献がある。それらに伍して本書を上梓する意味については、いささか気がひけるところもあるが、先覚の研究書の中には必ずしも明確に述べられていないことで、しかし重要だと考えられる問題についての提案を行うものである。識者の批正を得ることがあるならばありがたいことである。
二〇〇三(平成一五)年四月四日 /渋谷 孝
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- 明治図書