- はじめに――吟味力が子どもを変える、世界を変える
- 第T章 語彙と「事実」の吟味
- 一 語彙を吟味する
- 1 「魚」は何と読むのか――漢字の読みの差異をめぐる吟味
- 2 「子ども」と「児童」の不思議な関係――「Child」の訳語をめぐる吟味
- 3 「女医」の対義語は?――言葉に隠れた差別を吟味する
- 4 「精神分裂病」と「統合失調症」――新しい言葉を創造する
- 5 「わたしたち」「我々」という魔法の言葉を吟味する
- 6 授業づくりのために
- 二 マスメディアを吟味する
- ――日本シリーズ・ヤクルト 近鉄戦の「事実」の吟味
- 1 「事実」と「意見」の不可解な関係
- 2 ヤクルト 近鉄戦の「事実」を吟味する
- 3 新宿ビル火災の「事実」を吟味する
- 4 小松善之助と大西忠治の「事実」をめぐる論争
- 5 授業づくりのために
- 第U章 小学校・国語科教科書の吟味
- 一 「ホタルのすむ水辺」(嘉田由紀子)[光村図書五年]を吟味する
- ――説明的文章の「読み」の指導入門
- 1 「構造よみ」の指導過程と教材の分析
- 2 「論理よみ」の指導過程と教材の分析
- 3 「吟味よみ」の指導過程と教材の分析
- (1) 評価できる点/ (2) 水の汚染は「本当」とは言えないのか/ (3) ホタルは「すまない」のか「すめない」のか/ (4) なぜ蚊は減ったのか/ (5) 「つきつけられた課題」の意味
- 二 「動物の体」(増井光子)[東京書籍五年]を吟味する
- 1 構造よみの指導――構造分析
- 2 論理よみの指導――論理分析
- 3 吟味よみの指導――文章吟味
- (1) 評価できる点/ (2) 例の示し方は妥当と言えるか/ (3)体が大きいことは本当に有利なのか/ (4) 「毛皮」の正体は何なのか
- 三 「花を見つける手がかり」(吉原順平)[教育出版四年]を吟味する
- 1 構造よみの指導――構造分析
- 2 論理よみの指導――論理分析
- 3 吟味よみの指導――文章吟味
- (1) 評価できる点/ (2) 「少しはなれた」の「少し」の正体は?/ (3) 「四種類の色の花」の謎/ (4) 本当に「形」の可能性は消去できるのか/ (5) もんしろちょうには赤い色は見えないのか
- 第V章 中学校・国語科教科書の吟味
- 一 「魚を育てる森」(松永勝彦)[光村図書一年]を吟味する
- 1 構造よみの指導――構造分析
- 2 論理よみの指導――論理分析
- 3 吟味よみの指導――文章吟味
- (1) 評価できる点/ (2) 襟裳岬の「森」の大きさはいったいどれくらいなのか
- 二 「『ありがとう』と言わない重さ」(呉人恵)[三省堂三年]を吟味する
- 1 構造よみの指導――構造分析
- 2 論理よみの指導――論理分析
- 3 吟味よみの指導――文章吟味
- (1) 評価できる点/ (2) 日本の「ありがとう」は「一応は言っておくだけのものなのか/ (3) 日本は「きれいごと」「口先だけ」、モンゴルは深い「精神世界」――という図式/ (4) 「恩返し」を前提としない好意は存在しないのか/ (5) 比較の仕方の正当性ということ
- 第W章 社会科教科書の吟味
- ――国語科と社会科の「総合」をめざす
- 一 歴史教科書の「事実」を吟味する
- 1 「事実」の現実との対応を吟味する――「代表」の吟味
- 2 高校の歴史教科書の「事実」の取捨選択を吟味する――沖縄戦の吟味・その一
- 3 中学校の歴史教科書の「事実」の取捨選択を吟味する――沖縄戦の吟味・その二
- 4 授業づくりのために
- 二 歴史教科書の「表現」を吟味する
- 1 歴史の主語・述語を吟味する――日中戦争の吟味
- 2 歴史の語彙を吟味する――義和団の吟味
- 3 授業づくりのために
- 第X章 理科教科書の吟味
- ――国語科と理科の「総合」をめざす
- 1 進化の記述を吟味する――相同器官の吟味
- 2 「私たち」とはいったい誰なのか
- 3 授業づくりのために
- 第Y章 小・中・高で学ばせ身につけさせる二六の吟味の方法
- 1 語彙・表現を吟味する
- (1) 選ばれた語彙・表現は妥当か/ (2) 選ばれた語彙・表現に曖昧性・恣意性はないか/ (3) 比喩・抽象的な用語・ステロタイプの用語・難解な専門用語に問題はないか/ (4) 程度・限定の表現が曖昧・不正確でないか
- 2 「事実」の現実との対応を吟味する
- (1) 「事実」が現実と対応しているか/ (2) 「事実」が二つ以上に解釈できて誤解を生じないか/ (3) 誤解を与える「事実」提示はないか/ (4) 「事実」提示に誇張・矮小化はないか
- 3 「事実」の取捨選択を吟味する
- (1) 選ばれた「事実」は妥当か/ (2) 選ばれた「事実」に過剰・不足はないか/ (3) 選ばれた「事実」に非典型性はないか/ (4)その「事実」の具体性・示し方は妥当か
- 4 根拠・解釈・推論を吟味する
- (1) 根拠・解釈・推論は妥当か/ (2) 隠された(見落とされた)「事実」「法則」「価値観」はないか/ (3) 必要条件と必要十分条件を混同して推論をしていないか/ (4) 因果関係に問題はないか
- 5 ことがら相互・推論相互の不整合を吟味する
- (1) 同じ語彙・表現で示されていることがら(事実・概念)相互に不整合はないか/ (2) 同じ対象を指し示しているはずの語彙・表現相互に不整合はないか/ (3) 解釈・推論相互に不整合はないか/ (4) 仮定・相対をいつの間にか既定・絶対と混同したりすり替えたりしていないか
- 6 表現・事実選択・推論などの裏にある考え方・ねらい・基準を吟味する
- 〈注〉
はじめに―吟味力が子どもを変える、世界を変える
「受動型から能動型へ」「自ら学び、自ら考え」などという声が、近ごろ教育の世界で特に聞こえてくる。確かに二〇世紀までの教育は何と言おうと、教師が教える内容を子どもたちが受け取り記憶するという形が主流であった。子どもが自分から発言し自分から発表しているように見えても、実際は教師の立てた筋道をなぞるという域を超えていなかった。これからは、それとは違う、子どもたちが能動的に学んでいく教育が求められる。そして、子どもたちに主体的に世界とかかわることができる力をつけていくことが求められる。
とは言え「能動的な教育」「主体的な力」といった言葉は、今までも繰り返し使われてきた。そして、言葉だけが虚しく響いていた。それらは一体どうしたら可能になるのか。「総合的な学習の時間」を設ければいいのか。ディベートや討論を取り入れればいいのか。観察や実験を多く行えばいいのか。問題解決的な学習を取り入れればいいのか。それとも、授業を子どもの発表中心に行えばいいのか。コンピューターをはじめ多彩な教育機器を駆使すればいいのか。
それらを試していくことも無駄ではないだろう。しかし、それらだけでは十分に能動的な学びは創り出せないし、世界と深くかかわるために必要な主体的な力はついていかない。私は文章・音声を含んだ言語についての「吟味力」こそが、これからの子どもたちにぜひ必要となってくると考える。言語の吟味・検討を前面に押し出した学びによって、子どもたちに確かな「吟味力」を身につけさせていくのである。
「吟味力」には、言語表現・言語内容を正当に評価する力と鋭く批判する力とが含まれる。評価し批判する力を身につけていく中で子どもたちは、本当の意味で能動的・主体的になっていける。どんなに豊富に知識や情報を得ても高い技能を身につけても、それらの力がなければ結局のところ世の中の流れに流されていくだけの人間が生まれていくことになる。
「吟味力」には評価する力と批判する力が含まれると言ったが、今まで特に「批判する力」が弱かった。そして軽視されてきた。「批判するなんてかわいそう」「批判などと言って、世の中を否定的に見るものではない」「批判するということは、みんなの和を乱すということだ」「批判などしないで、もっと素直に受け取りなさい」などといった言い方が、まことしやかに通用していた。しかし、批判をしない・させないということは、世の中の矛盾・不正・虚偽・抑圧に眼をつぶり、長い物に巻かれながら黙って生きていく・生きていけということである。
それでは、世界は変わっていかない。キレイゴトの正義が通用し続け、ウソがうやむやなままに放置され続け、社会的不公正は一層広がり、タレント的な格好のよさ耳障りのよさだけが虚しく空回りする。
子どもたちが主体的批判的に世界を分析しつつ、自分を変え世界を変えていくためには、「吟味力」とりわけ「批判力」が必須となる。
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実は、かつての学習指導要領の「国語」には、「批判」「批判力」などの言葉が散見された。
「読みあい、話しあって、批判的な態度をやしなっていく。」「いろいろな宣傳を聞いたり、読んだりしたばあい、それを弁別するだけの力をもたなければならない。宣傳とは他人の意見を支配しようとして、いわれたり書かれたりしたものである。」(以上、小・中・一九四七年(1))、「批判的に聞くような態度がもたれることが望ましい」(小・一九五一年(2))、「多くの異なった伝記を集める。これらの伝記を読む。それについて学級で批判する。」中高・一九五一年(3))、「思考力・批判力を伸ばし、心情を豊かにして、言語生活の向上を図る。」(高・一九六〇年(4))
しかし、現在の学習指導要領(小中は二〇〇二年、高は二〇〇三年から実施)には、それらの言葉は皆無である。小学校と中学校は、「試案」の文字が消され法的拘束力を強めた一九五八年告示の学習指導要領あたりから、それらの言葉がほとんど消えていく(5)。高等学校だけは、それでも「批判力」などの言葉が残っていたが、一九七八年の改定から完全に消えた。現在では、「自分の立場を明らかにして、論理的に書き表す能力を身に付けさせる」「文章を読んで人間、社会、自然などについて考え、自分の意見をもつ」(以上中学校(6))「情報を活用して、公正かつ適切に判断する能力や創造的精神を養う」「論理的な文章を読んで、書き手の考えやその展開の仕方などについて意見を書く」(以上高等学校(7))などの記述があるだけである。義務教育学校の小学校と中学校では、「試案」が消され学習指導要領の法的拘束力を強くした時期と「批判」「批判的」などの言葉が消えていく時期とがほぼ一致するというのは、いかにも示唆的である。
学習指導要領にそれらの言葉が皆無であるということに象徴されるように、現在の学校教育のカリキュラムの中で「批判」「批判力」といった要素は、いずれの教科についても正当に位置づいていない。国語科のみならず、社会科でも理科でも家庭科でも、教科書に書いてあること、また教材として授業で取りあげられることは、必ず「正しい」のである。間違っていてはいけないのである。
「批判力」(批判的思考力、批判的理解力・読解力)を軽視ないしは無視しておいて、いくら「生きる力」と言っても虚しい。「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断」(8)することを奨励しても、中身は虚ろである。たとえ教科書の記述であろうと、必要な場合は批判的に吟味しなければならない。
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一九九四年に米不足でちょっとした「米騒動」になった。朝日新聞の天声人語でその時の混乱の様子を紹介しつつ、人々の「パニック」「群衆心理」について取りあげた。その最後の部分である(一九九四年三月二〇日付け)。
「パニックといえば、一九三八年に米国で起きたラジオドラマの事件がある。『火星人襲来』の放送を聞き、大勢の人がパニック状態になった。のちに事態を調査研究した学者によると、パニック行動への重要な歯止めは『批判能力』であることがわかったそうな。」
今までもそうであったが、これからの社会は特に今まで以上に予想もつかないような変化・出来事・事件に、子どもたちが遭遇する可能性がある。そういった時にパニック状態になって右往左往することなく、事態を冷静に分析し、的確に対応していく必要がある。そのためにも「批判力」は必須である。
『心的外傷と回復』という本がある(9)。アメリカのジュディス・L・ハーマンが書いたもので、いわゆるトラウマ(心的外傷・PTSD)の発症と治療について書かれたものである。この中でハーマンは、ベトナム戦争の帰還兵の中でPTSDを発症しなかった兵士の特徴を述べている。
その兵士たちは「冷静さ、判断力、自分以外の人たちとのつながり、倫理的価値、自分の有意味感を温存することに全力を集中」するなどの特徴をもっていると述べる。そして、さらに「自分を守るのに劣らず自分以外の者を守ることに対しても高い責任感を示し、これは間違っていると思った命令に対しては反対し、無用の冒険を避ける人たちであった」と続けている。
「これは間違っていると思った命令に対しては反対」するというのは、つまりはこれも批判的な能力である。上官の命令だからと何も考えずにただ従うのではなく、間違っているかどうかを主体的・批判的に判断するということである。批判的な能力は、極限状況でトラウマ(PTSD)の発症を防ぐことにもつながっていることになる。その上、そうした人たちは皆「残虐行為に耽る軍紀の乱れた部隊の中」でも「拷問、一般市民あるいは捕虜の殺害、死体損壊」等に加わっていなかったという。
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この本では、小学校・中学校・高等学校の毎日の授業の中で子どもたちに身につけさせていくべき「吟味力」、とりわけ「批判する力」について述べた。もちろん「評価する力」についても各所で触れている。
主に国語科の授業での「吟味力」について書いたが、社会科・理科・家庭科さらには「総合」の中で学ばせていくべき「吟味力」についても書いた。メディア・リテラシーやNIE(Newspaper In Education)にかかわる章もある。
第T章は、語彙と「事実」の吟味について述べた。一節では、「子ども」「児童」の差異、語彙と差別の問題、「わたしたち」という教科書に頻出する語彙の検討などを行った。二節では、プロ野球・日本シリーズのヤクルト対近鉄戦を、マス・メディアの吟味という形で行った。これはNIEにもつながっていくものである。
第U章では、二〇〇二年の四月から新規にあるいは継続して採用されている小学校の国語科の教材三つを吟味していった。一節「ホタルのすむ水辺」(嘉田由紀子)では、説明的文章の「読み」の指導の入門的な役割ももたせた。
第V章では、同じく二〇〇二年四月から継続採用の中学校の国語科の教材二つを吟味している。ともに、まだ採用されてから数年しか経っていない新しい教材である。
第W章は、社会科の歴史教科書を吟味した。一節は歴史の「事実」の吟味、二節は歴史の「表現」の吟味を行った。いずれも、言語の吟味という切り口で解読していったが、必然的に社会科教育・歴史教育の分野にも入り込んでいった。
第X章は、理科の教科書を吟味した。ここでも言語の吟味という切り口で解読したのだが、理科教育の分野にも足を踏みこんでいった。
以上の第W章と第X章は、国語科と社会科・理科等との総合学習を視野においての検討でもある。
第Y章では、小学校・中学校・高等学校を通じて、ぜひ子どもたちに学ばせ身につけさせたい「吟味の方法」を二六項目に整理して、それぞれに具体例を挙げながら解説をつけた。これをもとに、それぞれの学年で実践化をしていってほしいと考えた。
また、第T章・第W章・第X章のそれぞれの節の最後に「授業づくりのために」という項を置き、授業化のための切り口を示した。
なお、引用した教科書教材の段落番号(□)・文番号(○)は、すべて(必要に応じて)阿部が付けたものである。教材・論文等の引用は一重枠かカギ括弧で囲んだ。分析の結果得られた文章構造図・論理関係図も一重枠で囲んだ。そして、阿部自身のオリジナルの提案にあたる部分ついては二重枠で囲んだ。
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どこの章からでもお読みいただき、授業づくりに役立てていただきたい。
最後になったが、新聞記事の掲載を許可してくれた読売新聞社・朝日新聞社、教科書本文の掲載を許可してくれた光村図書出版・東京書籍・教育出版・三省堂の各社に、お礼を申し上げる。また、「吟味力」についてまとめることを私に勧め、執筆中にも多くの助言・励ましをくれた明治図書の江部満氏に感謝を申し上げる。
/阿部 昇
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- 明治図書