- プロローグ ―体育科授業の功罪―
- 第1章 体育科授業の理論と方法
- 第1節 体育科授業で「教えたいこと」は何か
- 1 体育科の担う学力 ―教科としての体育科の弱さ―
- 2 体育科の教育内容試案
- 3 教科内容の質的発展
- 4 体育科の教育内容と教材の関係
- 第2節 教師の「教えたいこと」と子どもの「学びたいこと」
- 1 教師の「教えたいこと」を,子どもの「学びたいこと」へ
- 2 「できる」・「できない」矛盾の顕在化 ―課題が見えてくる記録の活用―
- 3 子どもがつまずく「ゆとり」がある体育の授業
- 4 今の子どもたちにこそ,大単元で共に学び合う機会を
- 第3節 「教えたこと」と「学んだこと」を評価する
- 1 「教えたこと」「学んだこと」を評価しているか
- 2 体育科では,何が評価できるか
- 3 指導と評価の一体化をめざす体育科授業の創造に向けて
- 第2章 体育科授業の創造
- 第1節 「運動技術」を中核にすえた器械運動の実践例
- 1 器械運動のおもしろさ
- 2 指導計画と評価基準
- 3 低学年での実践例 ―「地球まわりを入れたお話鉄棒」の実践―
- 4 中学年での実践例 ―「側転を入れた歌声マット」の実践―
- 5 高学年での実践例 ―「ネックスプリング」の実践―
- 第2節 「運動技術」を中核にすえた水泳の実践例
- 1 水泳のおもしろさ
- 2 指導計画と評価基準
- 3 低学年での実践例 ―「呼吸と浮きの感覚づくり」の実践―
- 4 中学年での実践例 ―「ドル平泳法」の実践―
- 5 高学年での実践例 ―「ドル平泳法から近代4泳法へ」の実践―
- 第3節 「運動技術」を中核にすえた陸上運動の実践例
- 1 陸上運動のおもしろさ
- 2 指導計画 ―投の運動―
- 3 中学年での実践例 ―「タイヤ投げ」の実践―
- 4 高学年での実践例 ―「1500m走」の実践―
- 第4節 「戦略・戦術」を中核にすえたボール運動の実践例
- 1 ボール運動のおもしろさ
- 2 フラッグフットボールの教材価値
- 3 低学年での実践例 ―「スペースの発見と活用」の実践―
- 4 中学年での実践例 ―「スペースの創出と活用」の実践―
- 5 高学年での実践例 ―「作戦の組み立て」の実践―
- 6 戦術学習の今後の展望
- 第5節 新たな試みとしての実践例
- 1 スポーツの文化的側面を中核にすえた実践 ―学級文化としてのフラッグフットボールとアメリカンフットボールの比較―
- 2 ポートフォリオ評価法を取り入れた体育科授業 ―「教えたいこと」と「学びたいこと」をすりあわせるための評価活動―
- 資料1 戦術学習 フラッグフットボールラン作戦の基本パターン
- 資料2 戦術学習 フラッグフットボールパス作戦の基本パターン
- 資料3 戦術学習 フラッグフットボール4:4ディフェンス基本パターン
- エピローグ
プロローグ
―体育科授業の功罪―
「先生,今日の体育,とっても楽しかった。」
以前,体育の授業でドッジボールをした後に,クラスの子どもたち全員が口をそろえて発した言葉である。教師なら誰もが少なからず期待している至言を,体育の授業後にはよく耳にするような気がするのは,私だけではあるまい。ただ,私はこの言葉を素直に受け取ることができなかった。なぜなら,この授業では,一度もボールをさわっていない子,そしてグラウンドの端まで転がっていったボールを拾いに行っただけの子もいたからである。その子たちが到底楽しかったとは思えず,再度聞き直したが,答えは同じであった。そう,確かに楽しかったのである。ただし,ドッジボールが楽しかったかどうかは別である。私の穿った見方では,こうなる。
「友だちとおしゃべりできて,楽しかった。」
「天気がいいから,教室の授業より,外の方がよかった。」
まだ他にも思い浮かぶ。
「あいつと同じチームだったけど,勝てたからいいや。」
「テストがある教科はダメ。でも体育なら,気晴らしにちょうどいい。」
もしこれらの声にならない言葉があるとしたら,満面の笑顔をともなう「先生,楽しかった。」を,簡単に真に受けてしまうのは愚かである。体育は気晴らしなのか,できない子は外野でじっとしていればよいのか,これらの問題意識がこれまでの私を突き動かしてきた原動力である。
しかし,これらの問いに苦悩する小学校教師は,そう多数を占めているとは思えない。今や運動の代名詞と言ってもいい「スポーツ」が,「余暇」を意味する言葉を語源としていることを知らない教師はいないと思われ,気晴らしを容認する現状もあるだろう。また,弱肉強食の世界である競技スポツに携わった経験を持つ者は,学校教育の場でも同じ価値観を導入するかもしれない。実力がないのは,本人の努力が足りないからだと。さらに,ある講習会で,一人の学生が述べた次の言葉はどうだろう。
「運動をやらされた記憶はあるけど,教えてもらった記憶がない。」
体育は本当に残酷な教科である。なにせ,みんなの前で跳び箱を跳ばされれば,跳べるか跳べないかは一目瞭然。テストの点数を背中に貼って授業をしているようなものである。しかも,その点数を上げるためになされることと言えば,「勇気を出して」だとか「毎日100回練習しろ」だとか,本人の努力を促すことだけ。最終的に記録をとって,その結果がそのまま成績に数字として示される。先生に言われなくても,跳べないことは本人が一番よくわかっている。まともな指導がないとすれば,学習前と比べ学習後の自分がどれだけの成長したのか見出せないまま,次の時間には違う運動が,その子を待っている。こんな体育でよいのであろうか。
広島大学附属小学校に来て,8年が過ぎようとしている。この間,これらのホットな問題意識を持ち続け,拙いながらクールに実践を積み重ねてきたつもりである。これらの実践は,本校の研究会での提案授業や実践報告,もしくは『学校教育』(学校教育研究会発行)誌上で発表する機会があり,本書はこれら8年間の蓄積をまとめ上げた1冊という形になっている。ただ,何分,研究者としての自覚が足りず,自分自身を実践者と決めてかかっているところがあり,理論不足を実践事例で補おうとしている論考ばかりであった。編集上第1章を「理論編」,第2章を「実践編」に分けようと意図してはいるものの,厳密な意味で2編に分けることができないまま掲載している部分が多い。この点は読者のみなさまには読みにくいかもしれないが,そこはお許し願いたい。
2005年11月 /大後戸 一樹
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- 明治図書