- 序
- 第1章 鉛筆画教育の時代 明治初期の図画教育(1872〜1885)
- 1 制度に示された図画教育
- (1) 学制と小学教則
- (2) 教育令と小学校教則綱領
- 2 図画教育の実践
- (1) 図画教科書にみる教育観とその内容
- (2) 教授法書の検討
- (3) 文部省年報にみる図画教育普及の実態
- 3 「直観教授」から「開発教授」にみる図画教育
- 第2章 毛筆画教育移行の要因
- 1 毛筆画教育移行の背景
- (1) 図画調査会の設置
- (2) 高嶺秀夫と図画調査会
- (3) 図画取調掛の設置と図画取調掛調査主意
- 2 開発教授と毛筆画教育
- 3 毛筆画教育に期待されたものは何か
- 第3章 毛筆画教育の時代 明治中期の図画教育(1886〜1899)
- 1 法令に示された図画教育
- (1) 「19年小学校令」と「小学校ノ学科及ビ其程度」
- (2) 「23年小学校令」と「小学校教則大綱」
- 2 図画教育の実践
- (1) 図画教科書にみる教授内容と指導の方法
- (2) 教授法書の検討
- 3 ヘルバルト主義の導入と図画教育
- 第4章 教育的図画教育の時代 明治後期の図画教育(1900〜1915)
- 1 教育的図画の成立
- (1) 明治30年代美術教育改革の運動
- (2) 「図画取調委員会」とその「調査事項」
- 2 法令及び国定図画教科書にみる図画教育
- (1) 小学校令にみる図画教育
- (2) 国定図画教科書にみる図画教育
- 3 図画教育の実践
- (1) 教授法書等の検討
- (2) 「信濃教育」にみる図画・手工教育
- 4 教育的(子供のための)図画の行方
- 第5章 自由画教育の時代 大正期の図画教育(1916〜1929)
- 1 図画教育の新しい動き
- (1) 新図画教育会の誕生
- (2) 自由画教育運動
- 2 法令に示された図画教育
- 3 図画教育の実践
- (1) 赤津隆助著『図画教育の方法』
- (2) 若林遅二郎著『自由教育図画指導の実際』
- (3) 稲森縫之助著『図画手工の教育』
- (4) 霜田静志著『新教育に立脚せる図画手工指導の実際』
- (5) 山形寛著『図画の新指導』
- 4 美術教育の誕生
- 第6章 山本鼎の教育実践
- 1 教師としての山本鼎
- 2 山本鼎の図画の授業
- (1) 教科のねらい――知らせたいと考えたものは何か
- (2) 教材の組織――三つの構想の意味したもの
- (3) 授業時数をどのように考えたか
- (4) 「美術の時間」――指導の実際
- 3 指導法についての考察
- 4 指導法への遺産
- 第7章 生活画教育の時代 昭和初期の図画教育(1930〜1945)
- 1 郷土教育と図画教育
- (1) 郷土教育にみる二つの方向
- (2) 主観主義郷土教育としての図画教育
- 2 『小学図画』から『エノホン』『初等科図画』にみる図画教育
- (1) 『小学図画』にみる内容
- (2) 『エノホン』『初等科図画』にみる内容
- (3) 『小学図画』から『初等科図画』への変化
- 3 教授法資料にみる思想画(想画)の授業
- (1) 後藤福次郎「想畫の導き方」
- (2) 廣島県師範学校附属小学校『新圖晝教育の実際』
- (3) 大竹拙三『形象圖晝教育の新機構』
- (4) 静岡県浜松師範学校附属小学校『大国民錬成の教育』
- (5) 角南元一『芸能教育論』
- 4 生活画教育の限界
- 第8章 資料にみる昭和初期までの図画教育の内容
- 1 目標の変化が意味するもの
- 2 教授内容の変化が意味したもの
- (1) 内容構成の変化
- (2) 臨画理解の変化
- (3) 写生画理解の変化
- 3 内容の変化の意味
- 第9章 戦後の図画工作教育と今日的課題 昭和22(1947)年〜
- 1 学習指導要領の変遷
- 2 学習指導要領にみる図画工作教育
- (1) 昭和22年度「学習指導要領 図画工作編(試案)」
- (2) 昭和26年改訂版「小学校学習指導要領 図画工作編(試案)」
- (3) 昭和33年度「小学校学習指導要領」第六節図画工作
- (4) 昭和43年度「小学校学習指導要領」第六節図画工作
- (5) 昭和52年度「小学校学習指導要領」第六節図画工作
- (6) 平成元年度「小学校学習指導要領」第七節図画工作
- 3 民間教育運動の展開
- (1) 創造美育協会の運動
- (2) 「新しい絵の会」
- (3) 造形教育センター
- (4) 方式と法則の出現
- 4 今日的図工教育を求めて
- (1) 目標について考えること
- (2) 学習内容について考えること
- (3) まとめ
- あとがき
- 索 引
序
本書は日本の小学校図画教育(美術教育)の歴史的展開を明らかにすることを目的としている。ここでは本教育成立の時代背景,教育制度,教授理論,教授実践を資料を通して考察することで,各時期における図画教育の実像の再現を試みた。
図画教育の歴史は,大きく,三つの発達過程に分けることができる。
第一段階 明治5(1872)年より大正中頃(1919)まで
この時期は詳しく見れば,まず鉛筆を用いての西洋画法教授の時期,次に毛筆を用いての日本画法教授の時期,さらに用具や画法を優先するのではなく,子供への教育として成立する教育的図画期,以上三つの発展段階である。
図画教育は,こうした過程の中で目的観,内容観,方法観を発展させていくのだが,同時に変わらない原則があった。すなわち,図画は模倣を原則とする活動とされたことである。
第二段階 大正9(1920)年頃より昭和20(1945)年まで
この時期も詳しく見ると,大正9年頃から広まる自由画教育と昭和5年をピークとする生活画教育の,二つの時期に分けることができる。
自由画教育において,明治期の模倣を原則とする図画教育から,創造を原則とする今日的図画教育に変わったのである。
この教育を提唱した山本鼎は,自由に描くときに子供の創造性や個性が陶冶されるとして,それまでの手本を模写する図画教育に反対し,自然を自由に描くことを勧める。しかし自由画教育は,山本の意図とは裏腹に指導方法を持たない写生国教育として一般に定着する。その頃,写生画教育を子供たちの実生活と結びつけて改革しようとしたのが,昭和に入っての,教育政策としての郷土教育の中に起こる生活画教育である。
第三段階 昭和22(1947)年以降現在まで
この時期,文部省は,小・中・高等学校教育等の基準として学習指導要領をだす。小学校について言えば,昭和22年に最初のものが出され,以後26年,33年,43年,52年,平成元年と改訂される。
試案として出された22,26年の指導要領には,アメリカの生活単元学習の影響がみられ,造形の能力や活動を家庭・学校・社会と結びつけて陶冶しようとしたことがうかがえる。又,昭和33年以降の文部省告示として出されたものは,美術の価値を個人的能力や資質の拡大と結びつけて,情緒の安定や美的情操の陶冶が強調されてくる。改訂ごとに内容は変わるが,第二段階で認められた創造を原則とする事は変わらなかった。
図画教育はその出発では,描画技術を養う教科として考えられていた。しかし,しだいに描画表現を美術と見る考えが強くなり,その結果,美術活動と深いっながりを持つ個性・創造性・美的情操などと結びついた教育論が導入されてくる。そして,教科の性格も当初考えられたものとは異なる特性であることが理解され,指導の中心も「技術としての図画」から「表現としての図画」への移行をみせるのであった。
その移行の過程を見ると,政治や時代の思潮の影響の下に,様々な研究や実践が自由や個性を尊重する創造的な表現を求めて展開されてきた。技術を重視する教育と美術を重視する教育,言葉をかえれば,実質陶冶重視の教育と形式陶冶重視の教育,この二つの傾向が交互にせめぎあいながら発展し,今日の美術教育が成立したのである。
以上のようなことへの理解が明日の美術教育の行方を知らせてくれるものと思う。
1994年1月 /橋本 泰幸
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- 明治図書
- 歴史を知ることで今後の美術教育への発展に生かせるはずです。2021/11/9とびら