国語科授業改革双書26感動中心の文学教育批判文法論的文章論の役割

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文章論と国語教育/国語教育における文章論の役割/文法論としての文章論/再説・文法論としての文章論/文法論的文章論の普及実践を期待する。


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電子書籍版: なし

ISBN:
4-18-656900-2
ジャンル:
国語
刊行:
対象:
小・中・他
仕様:
A5判 164頁
状態:
絶版
出荷:
復刊次第

目次

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はしがき
T 文章論と国語教育(東京学芸大学における最終講義)
標題の意味
自分史
文法論的文章論
連接論
連鎖論
統括論
文章論の実用性と新しい学校文法
U 国語教育における文章論の役割
教師は教材(文章)を三度読め
教材研究の客観性
読解・解釈・鑑賞・批評
文脈と脈絡
V 文法論としての文章論
W 再説・文法論としての文章論
まえがき
「主語の連鎖」という観点からみた文章の全体構造
「陳述の連鎖」という観点からみた文章の全体構造
むすび
X 文法論的文章論の普及実戦を期待する
Y 文章における主語の連鎖
要旨
言語表現の特性
文の連続における文法的特性
連接論・連鎖論・統括論
主語の連鎖
主語の連鎖からみた文章の典型
文法論的文章論
Z 国語科における論理的思考力
[ 教室で教えるべきは言語の論理だ
\ 文章論的教材研究
教材研究の客観性
「文脈」と「脈絡」
学校文法のあり方
] 文章論で国語の授業を変えよう
文法というものに対する誤解
文法論の中に文章論をもちこむ
文章論のあらまし
国語教育への導入の実践
詞章の論理構造を見すえる――詩の鑑賞指導の再検討のために
客観をふまえての主観
内部的論理関係としての文脈
文脈の外の脈絡
結び 統合的な文法教育
国語科に何を望むか――正確に理解し表現する能力を養うことこそ

はしがき

 昭和六十(一九八五)年三月、私は東京学芸大学を停年退官した。私は昭和二十一年から二十四年まで東大国語研究室において時枝誠記先生の助手を勤めていたのであるが、昭和二十四年から新設の国立国語研究所の所員となった。

 私が国語研究所から東京学芸大学に配置換えになったのは、昭和四十一年四月一日付であった。国語研究所には創設以来十七年余り勤務したわけだが、その間、国立私立を合わせて五つの大学から誘いがあったのを断り続けていたのである。それではなぜ転任を承諾したのかというと、学芸大学は全国に中心的位置を占める教員養成大学だからである。私はかねがね、自分の文法研究の成果を学校における文法教育・国語教育に直結させたいと念願していたから、その宿願を達成するいいチャンスだと判断したのであった。

 いま、退官するまでの、長いようで短かった十九年間を改めて振り返ると、学芸大学に移ったかいがあったとつくづく思う。たくさんの才能ある教え子に恵まれ、優秀な人材を国語教育界に送り込むことのできた満足感を当時しみじみと味わった次第である。

 停年退官に当たって、私は「文章論と国語教育」と題する最終講義を行った。その内容は、自分史としての私の研究生活の経緯と、自らの唱える「文法論的文章論」の輪郭を述べたものであった。

 以来十年あまりが経過したが、その間に私は文法論的文章論そのものとそれを文法教育・国語教育に応用すべき諸事項とに関する論文を十何編か発表した。それらをまとめて、改めて文法論的文章論を国語教育界に広めたいと考え、論文集として出版したいと思ったのである。

 国語教育は国語を正確に理解し的確に表現する能力――言葉の力――を養うことを目的とするものであるが、その主軸は文法教育であるというのが、私のかねてからの主張である。世間には「文法」「文法論」「文法教育」に対する誤解や偏見がある。ここに「文法」というのは要するに「言語の論理」である。国語教育は広い意味での言語の論理を身につけさせるべきものであり、そのためには、文章論的教材研究と文章論的指導過程が最優先されるべきだというのが、私の近年までの確信である。

 そういった私の考えの根底には、現在に至るまで国語教育の主流と考えられているいわゆる文学教育への疑念がある。私はここ数年ずっと文学教育なるものの主観性を排除すべきことを説いてきた。近年、国語教育界では「感動中心の文学の授業」から脱却して「言葉の力をつける授業」をこそ重んずべきだとの声が大きくなってきたようである。

 文学は本質的に感動を誘うものであるが、その感動は個人によって深浅の差がある。それはどうしようもない決定的な差である。児童・生徒のみならず、教師の側においてもその落差は歴然としている。そういった個人差のある主観的偏向を打ち破らねばならないと私はつねづね考えてきた。いったい感動中心の文学教育が指弾を受けるのは、文学教育という名の授業がきわめて安易安直に行われているからである。つまり、感動中心がいけないのではなく、一定の感動を強要したり、感動の中味をあげつらったりすることが問題なのだ。

 それでは、感動中心をやめて言葉の力をつける授業へと脱皮するにはどうしたらよいのか。

 ここで、文学偏重つまり感動中心の授業がなぜいけないのか、それが言葉の力をつける授業と著しく掛け離れてしまうのはなぜなのかを考えてみる必要がある。一言で言えば、感動中心の文学教育は文章の論理を無視して事柄中心に突っ走ることが多いためである。

 誤解を恐れず文章の論理≠ニ言ったが、言い換えれば、文脈≠ナあり、叙述≠ナある。論理というものは、何も論説文や説明文にだけあるのではない。いわゆる文学的文章にも論理は内包されているのである。

 論理と言うと理屈めいた意味に取られるかもしれないが、論理の本質は感受性や思考の根底を貫く精神の秩序なのである。平たく言えば、一本通った言語表現の筋道である。優れた文章はそれが文学作品であろうと、説明論説文であろうと、まことに精妙な構造を具えているものである。磨かれた言語感覚は精密な言語の論理と背中合わせの関係にあるのだ。

 感動中心の文学教育が文章の論理を無視しがちなのは、文章の全体構造を支える論理を的確に把握して教材研究を客観的なものにすることが、とかくないがしろにされるからである。

 言葉の力とは、発音や語や文の構成といった要素的なものを言うのではない。それは文章の全体構造へ目を向ける広い視野を獲得することである。言葉の力をつける授業へと脱皮するためには、言わば非文学の中に文学をも取り込んで文章構成を客観的にたどろうとする識見と勇気とをもつことである。文章論に基づく教材研究がその唯一の道である。

 そのためには、文章構造の客観的な解明を果たすべき文法論的文章論の役割が大きいのである。

 文法は文学の世界とは別の次元のものではない。文法――言葉の論理――は、説明・論説の文章にも、文学的文章にも、等しなみに厳然として存在する。「文法」に対する誤解・無理解・偏見を打破してもらいたいと切に願う次第である。

 以上のような趣意のもとに、私の近年の諸論文をまとめ、冒頭に前記の最終講義を添えて一本に集成したのが本書である。私はすでに文章論に関する著書を五冊出版している。最近出したのが『文章論総説』(昭和六十一年五月、朝倉書店)、『国語教育における文章論』(同年六月、共文社)と『若い教師のための文章論入門』(平成二年五月、明治図書)であるが、最後のものの第一章の一部を参考のためにあえて加えることとした。読者の御了解をえたい。


  平成九年九月   /永野 賢

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      明治図書
    • 文学の読みを論理的に進めるにはどうしたらいいのか?
      現在の自分の国語授業における大きなテーマです。
      読みたい!
      2013/2/24中島陽一
    • 言語の論理で文学的文章を読むことの意義が記されています。
      現在でも、大いに参考となる書であると推察します。
      ぜひ復刊となって、手にして読みたいものです。
      2013/1/25立松

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