市毛勝雄著作集1言語技術教育としての国語科

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前半で「言語技術とは何か」を後半で「言語技術としての国語科」を説く。特に後半では「音声言語の技術教育」を解明する。国語科改革の提言。


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電子書籍版: なし

ISBN:
4-18-652111-5
ジャンル:
国語
刊行:
対象:
小・中・高
仕様:
A5判 160頁
状態:
絶版
出荷:
復刊次第

目次

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まえがき
T これまでの国語科教育
1 文学教育が重視されたのには理由がある
2 植民地化を防ぐために設備の近代化を急いだ
3 生活や思想の急激な変化が大問題であった
4 小説と詩は生活や思想の近代化の教科書だった
5 日本「近代文学」研究は日本「近代思想」研究だった
6 文学の変質が始まった
7 文学は娯楽の一つになった
8 文学は「学ぶもの」ではなく「楽しむもの」になった
U これからの国語科教育
1 「国語教育」から言語技術教育へ
2 論理的な表現力を身につけさせる
3 「不立文字」の教育
4 言葉が思考を完全に表現しないとしたら、どうするか
5 受信型教育とはどういうものか
6 発信型教育とはどういうものか
7 日本の古典教育をどうするか
V 言語技術の基礎
1 「名づけ」は認識の基礎である
2 使う人の立場を示す「名づけ(バイアス=ワード)」がある
3 「言葉は現地ではない。現地の地図である」(ハヤカワ)
4 具体と抽象
5 四つの思考の型(直感・演鐸・帰納・弁証法)
6 国語辞典には言葉の「意味」が書いてあるか
7 定義を決めた単語で組み立てた文章とは
8 方言をどう教えるか
W 教室の中の言語技術
1 会話の技術(日常の形式で本音を語る)
2 虚偽(FALLACY)
3 成長曲線
4 「言(こと)は事(こと)なり」
5 「猫に小判―漢字の書き順―」
6 ノートの書き方を指導する
V 言語技術教育としての国語科
一 音声言語の技術教育
1 小学校
聞く学習/話す学習
2 中学・高校
聞く学習/話す学習
二 文学教材による言語技術教育
1 指導目標
(1)文学作品を楽しく読み進む技術を教える
(2)文学作品に対する意見・感想を楽しく、自由に話し合う雰囲気をつくる
2 指導事項
(1)作品中の人物の運命を予測させる
(2)音読による通読を繰り返す
(3)中心人物の変化に着目させる
(4)「描写」の文章の読み方に気づかせる
(5)登場人物と人物描写(会話・動作)
3 評 価
(1)物語・小説を進んで読むようになる
(2)読書調査を行う
三 説明文教材による言語技術教育
1 指導目標
(1)論理的な思考力が身につく言語技術を教える
(2)論理的な表現力が身につく言語技術を教える
2 指導事項
(1)主要な語句
(2)意味段落
(3)文章構成
(4)要旨
(5)主張
(6)具体的事例
(7)指示語
(8)語 句(キーワード以外)
3 評 価
(1)文章構成の理解度を評価する
(2)主要な語句をとらえる能力を評価する
(3)要旨をまとめる能力を評価する
(4)具体的事例を取り出す能力を評価する
四 作文による言語技術教育
1 指導目標
(1)作文指導の目的は
(2)コンクール作文は目標としない
2 指導事項
(1)文章の書き方のイロハを教える
(2)論理的文章とは何か
(3)作文指導技術として確立した
(4)作文指導の第一歩
(5)作文のミニチュア模型
(6)文章形式の四要素
(7)テーマと題名を区別する
(8)テーマは日常生活から
(9)第一課題は四〇〇字の長さで
3 評 価
(1)提出の翌週に返却する
(2)作文を添削し、再提出させる
(3)作文を評定する
(4)第二課題の長さは八〇〇字で
(5)第二課題は具体的事例の記述が添削のポイント
資料1・2
五 古文の言語技術教育(中学・高校)
(1)指導目標
(2)指導方法
(3)指導技術
Y 国語科の評価の特色と評価技術
1 評価とは何か
2 評価がなぜ必要か(評価の目的)
3 何を評価するのか(評価の対象)
4 評価の種類と特質
5 評価と評定
6 評価の方法
7 国語科の評価の特殊性と問題点
参考文献
索 引
あとがき

著作集へのまえがき

 東京で中学・高校の教師生活を一八年間送った後、私は山形大学に勤めることになった。

 中学と高校では教材研究と授業に没頭していて、よその教室のことはほとんど分からなかったので、文学教材は楽しく自由に読めば良いし、説明文は正確に読み書く力をつける指導が当然だと信じていた。そして、卒業生たちはそういう私の授業がのちのち大いに役に立ったと支持してくれたので、私以外の先生方もみんなそういう授業をしているのだろう、と考えていた。

 ところが、大学に着任して教育実習の反省会や、各地の授業研究会に出席するようになって、驚いた。そこでは抽象的な教育理念の言葉がしきりに使われ、その理念から出発しているものの、子どもの気持ちを無視した形式的な指導が幅を利かしているのであった。その後、国語科教育という看板のおかげで全国各地の教育センターや授業研究会に呼ばれるようになり、小学校や中学校で国語の授業を参観し、研究会に参加する回数が増すにつれて、日本の国語教育の直面している問題点がうつすらと見えかけて、これはやりがいのある仕事だ、と考え始めた。

 その頃「主題認識の構造」という数ページの論文を学会誌『国文学/言語と文芸』に書いた。それを飛田多喜雄先生にお見せした。それからしばらくして突然、明治図書の江部満編集長からお手紙が届いた。それは、「飛田先生から論文を見せていただいた。あのテーマで本を一冊書いて欲しい」というものであった。この時の驚きと喜びとが、その後の私の人生を決定した。

 学生時代の家庭教師・塾をはじめ、中学校・夜間高校、バレー部の指導・高校紛争等の経験は、国語教育の理論とともに人生の体験が、言葉の指導に役に立つことを教えてくれた。また、教育センターや授業研究会に出席なさった先生方と質疑応答を交わすうちに、多くの先生方が困っているという国語教育の問題がはっきりと見えてきた。それらを要約すると、次のようになる。

1 これまで、大学の研究者はドイツの教育学の説、日本の古典文学の解釈学の方法などを国語教育学として大学で講義した。

2 また、他の研究者は大正時代から昭和初期の小学校の国語教育の実践や、昭和三〇年代の指導実践から指導理論を組み立てようとした。

3 かくて、小中学校の先生方は、大学の研究者が提供する国語教育理論の大部分を、現在の授業の役には立たない、と考えるに至った。

4 良心的な若い先生方は大学の国語教育学の講義に見切りをつけて、民間の研究団体に参加して授業の理論を研究したり、模擬授業をして授業の技術を学び合ったりしている。その他の生活派の先生方は「赤刷り」と呼ばれる書物を使いながら、授業をしのいでいる。

5 中学校の国語の先生は、専科以外の臨時の教科担任が多く、研究したくともできない例が多い。一方、教科研究をやりたい専科の先生は部活動や生活指導に奔走を余儀なくされている。「教材研究を国語科としてやりたい」というと「そんな贅沢な寝言は許されない」と叱られるという。

6 このため、調査・文集作りという生徒の活動任せ(主体的活動ではない)の授業が多くなり、中学生の知的欲求不満が高まり、それがまた学級経営にはねかえるという悪循環をもたらしている。

7 高校の先生方は文学部出身者が多く、文学教材への思い入れが深いが、近年の高校生は大学受験に関心が強く、考える授業が成り立たない。答えは筆記するが、後は寝ていると言って悩む先生が多い。特に、小論文の指導研究の蓄積がない。授業は教材文の解釈でお茶を濁し、小論文の添削は予備校任せという先生が多い。

8 小中高の国語教育がこのように大問題に直面して四苦八苦しているのに、大学の国語教育学の多くの研究者はこの現状から問題点を汲みとろうとはせず、研究室の伝統的な傾向に沿った研究テーマを設定して論文を書いている。このため、教室の実践に対する考察も「参観者の印象」に終始して、授業研究に到達しない。

9 教育改革が叫ばれるようになって、子どもの興味・関心・態度を育てる指導が大切だ、と言われるようになった。その結果、指導はいけない、援助だ、という。だが、国語の授業の中身を検討すると、子どもの活動だけあって専門的な指導がない観念的な授業の肥大版である。授業の専門的な指導技術を磨かないので、具体的な「支援」はできないし、まして勉強したいという個性的な子どもたちに、具体的な指導のできるわけがない。

 こういう大きな諸問題に、個別につき合って押したり引いたりしていては、根本的な解決には到達しない、少々荒っぽく見えても、大胆な具体的提案が有効である、というのが江部満氏の持論であり、私も全く同感であった。その成果がいくつかの著作・雑誌連載・編著のシリーズとなった。それらは一定の役割を果たしたようで、多くの読者かご支持のお便りをいただき、研究会にも数多くお招きをいただいた。それに応じて、少なからぬ方々に不快感と反感を抱かせた。これら相反する反応は、国語教育界に多少の刺激をもたらしたようで、私の考えが生きて働いた何よりの証拠であり、うれしいことであった。快も不快も与えない書物や活動などは、存在理由がないからである。

 国語教育界では、相変わらず神秘的な文学至上主義を振りまく難解な授業論や、学習指導案の原型も示せない単元学習論や、筋道も手段もわからない「国語の課題作り学習」論が、多くの先生方を悩ませている。これらの指導法の特色は、未だに誰も「模範的な授業」ができない点である。一〇年たってできない授業が、五〇年たつとできるようになるのであろうか。もしも永久にできない授業だったら、誰が責任をとるのであろうか。

 近年、研究を進めるにつれて、私はいっそう明快な授業が大切だと考えるようになった。明快でないと、まず子どもたちに理解してもらえない。次に、授業の意図・構成・意義を、専門家である先生方にも理解してもらえない。私自身がよほど明快な授業ができたつもりでも、他の先生が見ると「意図不明」の部分がいくつかあると言う。この「明快に、より明快に」という努力の結果、私はついに指導技術・言語技術の確立が絶対に必要だという考えに到達するに至った。                           ちょうどそのとき、江部満氏から、これまでの仕事をまとめないか、というお話があった。私はありがたくお受けした。そして、これまでの仕事のまとめだけでなく、新たな領域の成果をつけ加えたい、と申し出た。これまでの仕事のいくつかはすでに古くなって、全く作りかえたほうがいいと思われたからである。それに対して、江部満氏はいくつか適切な指示を下さった。そのため、本著作集は単なる集約的な性質から、挑戦的な性質に変貌した。これはまことに我が意を得たものであった。ここに改めて、江部満氏に感謝を捧げたい。

 言葉は現代の思考を表現する役目がある。特に論理的な思考と表現の役割は、今後ますます大きくなるだろう。国語教育界は世界に通用する論理的な思考と表現の指導態勢を整えるために、大きく変化する必要がある。本著作集がその変化のきっかけとなることを、切に祈るものである。


  一九九八年 四月   /市毛 勝雄

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