国語教育ブックレット6
論争・詩の解釈と授業

国語教育ブックレット6論争・詩の解釈と授業

投票受付中

吉野弘「夕焼け」をめぐって賛否両論が対立する中で,詩の何を理解し,どう授業化するか,論争の当事者である著者の克明な分析を通して示す。


復刊時予価: 2,959円(税込)

送料・代引手数料無料

電子書籍版: なし

ISBN:
4-18-633907-4
ジャンル:
国語
刊行:
対象:
小・中
仕様:
A5判 216頁
状態:
絶版
出荷:
復刊次第

目次

もくじの詳細表示

まえがき
T 詩の解釈の在り方
(1) 「解釈」という用語
(2) 解釈の多様性
(3) 解釈の実際の意味
(4) 作者・作品・読者の関連
(5) 文学一般と詩の解釈の関連
U 詩の解釈の具体例―「夕焼け」の書誌と「たわむれ読み」
1 「夕焼け」の書誌
(1) 初出誌と決定稿に至る経過
(2) 初出と決定稿の異同
(3) 訂正への評価
2 「夕焼け」の「たわむれ読み」
V 詩の解釈の揺れ―『夕焼け』論争に学びながら―
1 宇佐美寛氏の『夕焼け』解釈に関する一考察―その危うさと有効性―
(1) はじめに
(2) 宇佐美氏の『夕焼け』解釈
(3) 写実的方法と非写実的方法
(4) 『夕焼け』の工夫の核心
(5) 『夕焼け』の解釈・評価の骨格
(6) 宇佐美氏の『夕焼け』解釈・評価の危うさ@
(7) 宇佐美氏の『夕焼け』解釈・評価の危うさA
(8) 宇佐美論活用の方途
(9) おわりに
2 望月善次・宇佐美寛往復書翰 教科書教材『夕焼け』の評価をめぐって
はじめに―この往復書翰の意義について(宇佐美寛)
「文学の方法」についての先生のお考えをお聞きしたいのです(望月善次)
「文学」よ、おごるなかれ(宇佐美寛)
「幸運」を感謝します(望月善次)
「虚構」の虚しさ(宇佐美寛)
おわりに―『夕焼け』往復書翰の意義について(望月善次)
3 『夕焼け』論争整理の為に
(1) 本節の意図
(2) 論争の経過(関連文献提示)
(3) 従来の筆者の意図と結論
(4) 基本的相違点三つ
(5) おわりに
4 渋谷孝論批判
(1) 本節追加の経緯
(2) 渋谷論の概要と論点の摘出
(3) 四論点の吟味
(4) 解釈の相違の具体相
W 詩の授業
1 考察の出発点と詩の授業の基礎
(1) 詩の授業考察の出発点
(2) 詩の授業の基礎
2 詩の授業の一例―(飛び込み授業)『夕焼け』の場合―
X 『夕焼け』(吉野弘)研究・実践文献目録

まえがき

 吉野弘作品「夕焼け」には、以前から関心を抱いていた。

 個人的好みを言えば、主題が明示的である点に物足りなさを感じてはきたものの(1)は、言葉の斡旋の柔らかさ、構成や場面設定には工夫があり、やはり吉野弘を代表する詩であることは間違いないと考えてきたからである。

 しかし、何といってもこの作品に本格的に取り組もうと考えたのは、宇佐美寛氏の爆弾発言的提案が契機となっている。

 この提案は、提案の全体としては、『教育科学 国語教育』(明治図書)の連載「記号論的国語教育論」(一九八五・四〜一九八六・三)として行われたものであり、氏はそれを後に『国語科授業批判』(明治図書、一九八六・八)として纒められたことは多くの方の知るところでもあろう。(本書での関連引用は、この著書によっている。)

 「夕焼け」に関する批判は、そうした提案のうちの一部であった。提案は、それを全体的に見れば、国語科教育学界にとって実に重要な提案であり、若い「学」である国語科教育学にとってはかけがえのない批判でもあった(2)。

 しかし、その中には、氏もおっしゃるように「常識破り」な点もあった。それは、どうした意味で「常識破り」であったのか。

 それを考察することが、氏への礼儀であり、同時に生成過程にある国語科教育学にとっても大切なことだという思いを込めて拙い提案〔V―1参照〕を纒めたところ、それを契機として氏も対応してくださり、論争等の形での遣り取りが行われることになった。誠に幸いなことであった。(また、それは更に発展して、氏と足立悦男氏などとの論争などにまで発展している。関連文献についてはV章―3・V章を参照されたい。)

 しかし、宇佐美氏への反論の作業に具体的に取り組んでみた結果、氏の論に答えるためには、いくつかの前提について、もう少し丁寧に論じることが必要であることが分かってきた。(まだまだ粗い検証ではあるが)その前提を踏まえる作業を積み重ねているうちに、この一冊に到達してしまった、というのが実情である。

 この一冊を以て、一先ず宇佐美氏への返答としたい。

 また、こうした作業が、一冊となり得たのは明治図書編集部の江部満氏の厚意によるものである。

 明治図書の方に、こうした内容のものを一冊にしたいと申し出た段階では、「夕焼け」が、掲載教科書である光村図書版教科書から無くなるかも知れないという情報もあった。(個人としては、仮に「夕焼け」が教科書掲載作品ではなくなった場合においても、「夕焼け」論争は、そうしたことを離れて国語科教育学にとって意味ある論争であるという自負を抱いてはいたが、そうした自負は、自負として)出版界における常識から言えば、仮に、教科書掲載作品ではなくなった場合、単行本としての形の出版には、相当の無理があることは、出版に関する素人の筆者にもよく分かるところであった。江部さん(とつい呼びたくなってしまうが)の御苦心も、こうした事情を巡るものであったろうと推察する。

 また、江部さんが個人的には、「夕焼け」について否定的考えをもっておられることも聞いていた。

 しかし、結論的に言えば、江部さんは発行を決断してくださったのである。

 今回も江部さんに我が儘を通してもらうこととなった。改めて、厚く感謝したい。

 以上のような事情を踏まえて、構成についてご覧戴くような形とした。


 第T章では、詩の解釈の在り方の原理的な問題に関して五つの点から略述した。

 一つは、「解釈」という用語について論じた。本書に言う「解釈」には、格別の意味がない。日常語でいう意味での「解釈」であり、「理解・批評・読み」などに置き換え可能な「解釈」である。

 二つは、解釈の多様性ということについて論じた。フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)の共時態(synchronie)・通時態(diachronie)にならえば、この多様性は、「共時性・通時性」の双方に渡って開かれているというのが筆者の見解である。

 三つは、解釈の実際の意味について論じた。左記の共時態・通時態を用いるならば、解釈の実際は、共時・通時の両方向に開かれた体系を一時的に休止させることだと言えよう。そうした意味において、個々の具体的「解釈」は常に乗り越えられる運命にあると言えることをも指摘した。

 四つは、解釈における〈作者・作品・読者〉の関連について論じた。解釈主体により、〈作者・作品・読者〉のいずれかに力点を置く者と、三者(又は二者)のバランスをとろうとする者とに分かれるであろうことを指摘した。「夕焼け」論争との関連で言えば、宇佐美寛氏の場合は、「読者」の側に力点を置く立場として位置付けられるであろうし、筆者の場合は〈作者・作品・読者〉のバランスをとろうとする立場に位置付くことになろう。

 五つは、解釈一般(「文学一般の解釈」)と詩の解釈との関連について論じた。R・ヤーコブソン(Roman Jakobson)を引きながら、現状においては、解釈一般(文学一般)における究明が十分に展開しておらず、詩における解釈固有の問題を摘出するのには困難な点もあるが、他の文学ジャンルと比較すれば技法や「何を・いかに」の「いかに」の問題により重点を置くのが詩の解釈の立場であろうことを指摘した。


 第U章では、具体的解釈の一例として「夕焼け」の場合を取り上げた。

 1においては「夕焼け」の書誌について略述し、2では「夕焼け」に対する筆者の「読み」を、先行研究を踏まえながらではあるが、割合自由に叙述した。(恣意的ということにもなろう。)

 1という一節を設けることができたのは、ひとえに「夕焼け」の作者吉野弘氏の御厚意によるものである。貴重なお時間のところへ勝手なお願いを申し上げたにもかかわらず、墾切にお教え下さった上に、初出誌『種子』の掲載まで許して下さった。氏の格別な御厚意に改めて感謝したい。

 2は、繰り返すようであるが、筆者の恣意的な解釈を中心としているが、敢えて言えば、鶴田清司氏の分類に言う「解釈」と「分析」のバランス(3)という点についても多少の考慮は払おうとした意図はある。

 この試みは、「夕焼け」に対する筆者の「第一次的『読み』」であると共に、こうした研究状況に対する一つの試案的提案でもあることを繰り返しておきたいと思う。

 ところで、こうした試みに対して、採用する方法は、決して単一ではないわけであるが(I―(2)参照)、今回は、それ等の中から「たわむれ読み」を選択している。

 「作品とのたわむれ」というのは、ポスト構造主義が用いる用語であるが、その具体的手続きについて不明の点もあり、どうも物足りない感じもしてきたが、結局はそれ以上の名称を思いつくことが出来ず、敢えてその名称を借用した。

 具体的な「読み」は、ポスト構造主義のやり方とは異なっていること、御覧戴くとおりであるから、この「たわむれ読み」は「望月的たわむれ読み」である。こうした「望月的たわむれ読み」ともいうべき方法の精練は、(「たわむれ読み」という用語をどうするかという問題を含めて)今後の課題としたい。


 第V章では、本書の契機ともなった宇佐美氏の論を意識した三つの考察と渋谷孝論への反論一つとを収めた。

 副題にも記した通り、文字通り「学ぶ」過程であった。

 だから、これは、宇佐美氏及び渋谷氏との論争過程であると共に、筆者の「生長史」でもある。宇佐美寛・渋谷孝の両氏は、共に筆者の尊敬する研究者である。尊敬できる研究者に相手をして戴いて論争できることは、研究に携わる者にとって最大の贅沢であるというのが年来の思いである。

 こうした恵まれた場においてお教えを載けた宇佐美・渋谷の両氏に改めて感謝したい。

 (V―1〜4は、発表順という時間的順序に従っているが、論旨の明確さという点からは、あるいは、3又は4からお読み戴いた方がよいかも知れない。)

 1は、次の論考をSUMMARYの部分を除いて収録した。


 望月善次「宇佐美寛氏の『夕焼け』解釈に関する一考察――その危うさと有効性――」『読書科学』第31巻、第2号(日本読書学会、一九八七・七)pp.41〜50。


 とに角、宇佐美論に対応しようというのが、執筆の契機であった。氏の貴重な論を黙殺しては、若い国語科教育学の将来はないという思いから執筆したものである。しかし、そうした「たかぶり」の為か、氏の論の基本的性質を見抜けなかった、という思いは今にして強い。

 2は、1を契機として「往復書翰」という形でお教えを戴く機会があったものである。〔宇佐美寛・望月善次「(往復書翰)教科書教材『夕焼け』の評価をめぐって」、『教育科学国語教育』No.411(明治図書、一九八九・五)pp.48〜64。収録をお許し下さった宇佐美氏に改めて感謝したい。〕

 しかし、ここでも論議が噛み合うところから遠いこと、御覧戴くとおりである。

 1〜2を通して、宇佐美氏との論が噛み合わないことを感じている間に、足立悦男氏と宇佐美氏との論争が始まったこと、先にも述べたとおりである。

 論議が噛み合わないのは、宇佐美氏と筆者との間だけでなく、宇佐美氏と足立氏との間においても同様であることを目の当たりにして、論争の枠組みを考え直さなければ生産的ではないと感ずるようになった。それに対する筆者としての答えが、この3である。筆者としては、「夕焼け」論争に一つの区切りをつける思いでもあった。

 4の渋谷論への対応は、当初本書の中に入れることを考えてはいなかったものであった。

 この部分を除く原稿の提出後、渋谷氏から私信を頂戴したり、氏の『教育科学国語教育』(明治図書)誌上の御論考を拝見したりしたのであった。

 氏の論を拝見し、「夕焼け」論争史上看過できない論だと判断したので、氏の論に対する反論を二つの論考として纏め〔「『夕焼け』論争に関する渋谷孝氏への異論(1)〜(2)」〕、『教育科学国語教育』等への掲載を打診したのであったが、江部さんの格別の厚意により、急進、それに若干の手を加え本書の中に収めて貰えることになった。

 尚、筆者が、こうした結論に到達した最も直接的な場として、勤務先(岩手大学教育学部)の学生達と学び得た「国語科教育学講議」(一九九一年度)があったことを記しておきたい。「夕焼け」(論争)を素材として、学び合う機会があったからである。一人一人の氏名こそ記さないが、受講の学生諸君に感謝したい。

 尚、本章の章名は「解釈の揺れ」(傍線望月)となっている。宇佐美氏との関連で言えば、「授業」や教育の問題は、原則として含んでいないのだという意思を、章名選択にも働かせた積もりである。氏と筆者との行き違いの論点の多くは、授業・教育論を別にした「解釈」レベルのものとすることが可能ではないかというのが筆者の考えであることを繰り返しておきたい。


 第W章では、詩の授業に関する二つの考察を収めた。

 1には、詩の授業考察の出発点と詩の授業の基礎とについての年来の主張を結論的に示した。

 前者については、考察の出発点を小海永二・足立悦男両氏の著書に置くのがよいし、後者については、詩に慣れるという土台があってこそ、通常の詩の授業も成立するのだとした。

 2には、左記における筆者自身の授業記録の部分を再録し、それに簡単な前書きと注とを加えた。


 望月善次「『夕焼け』(吉野弘)の授業記録二種」、『教育工学研究』No.8(岩手大学教育学部附属教育工学センター、一九八六・三)pp.109〜128。


 副題にも記した通り「飛び入り授業」であり、通常の意味での「授業」ではないとの自覚はある。しかし、「授業」である以上筆者自身の「授業的力量」の検討も避けては通れないところであろうが、今回はそうした検討を欠落させている。

 元々「記録」自身は、表題に示す通り二種あり、もう一つは当時の研究室所属学生の穴久保裕之氏(現在、水沢市立水沢小学校教諭)のものであり、本来は、穴久保氏との「共同作業」として資料的意味を持つものだと思うが、分量の関係から穴久保氏のものは割愛している。

 授業それ自体としては、問題も少なくないが、「授業」(らしきもの)の体験を通して、「解釈」や「授業」に関しても見えてきたところがあったのも事実であった。機会を与えて下さった盛岡市立北陵中学校の関係各位に改めて感謝したい。


 第X章においては先行研究文献目録を示した。

 「夕焼け」関連文献目録については、「W―2」に挙げた望月善次「『夕焼け』(吉野弘)の授業記録二種」(一九八六・三)に示したことを含め、筆者としては、三度公にしているが、今回のものは、それ等を増補・訂正したものである。

 具体的整理については、筆者の研究室の赤石真美さんが卒業論文準備の為に「夕焼け」の先行研究の整理をしていて、ワープロ入力を初めとして多くを赤石さんの力によった。こうした赤石さんとの共同作業を収めることができるのも本書の喜びの一つである。

 当初、各文献に簡単な解題を加えることを考えていたが、分量のこともあり、今回は果たせなかった。

 最後になったが、校正には若き友人加藤公保君の助力を得た。その縁と助力とを感謝したい。

 以上をもって「まえがき」とする。

   一九九二年四月(校正段階の八月に一部加筆した)


  /望月 善次


 〔注〕

 (1) 「V―1―(5)」も参照されたい。

 (2) 筆者としてはこのことを一貫して明言している。〔V―1―(1)参照〕

 (3) 鶴田氏の言う「解釈」は、「分析」に対する概念で、本書が用いている日常語的な「解釈」とは異なっている。

  尚、鶴田氏の所論についての詳細は、例えば、左記を参照されたい。

  鶴田清司『文学教育における〈解釈〉と〈分析〉』(明治図書、一九八八・一〇)。

  鶴田清司『国語教材研究の革新』(明治図書、一九九一・一〇)。

著者紹介

望月 善次(もちづき よしつぐ)著書を検索»

(筆名 三木 与志夫)

1942年山梨県生まれ

東京教育大学(文学部文学科国語学国文学)卒・同大学院教育学研究科(人文科教育専修)修士課程修了。

東京都立江戸川高校(定時制課程)教諭を経て1954年4月から岩手大学専任講師(教育学部国語科・国語科教育学研究室)。現在教授(1990年7月からは教育学部附属教育実践研究指導センター長併任)。

※この情報は、本書が刊行された当時の奥付の記載内容に基づいて作成されています。
    • この商品は皆様からのご感想・ご意見を募集中です

      明治図書

ページトップへ