- まえがき
- I 酷評からの出発
- 一 五年生「新聞投書に物申す」
- 1 「批判読み」はなぜ必要か
- 2 「新聞投書文」を批判する
- 3 「だらだら思いつき発言」という酷評にも負けず
- 二 「批判読み」の指導方法
- 1 三つの観点による文章の検討
- 2 基本の指導を継続する
- 3 「批判読み」の指導方法を提案する
- 三 五年生「太陽エネルギー」(日本書籍)の授業
- 1 教材の問題点
- 2 納得か疑問か両方から検討する
- 3 批評文を書いて意見を明確にする
- U 「批判読み」の教材開発
- 一 外山滋比古「私語」の授業
- 1 教材を開発する
- 2 「私語を考える」の学習指導案
- 3 子どもの批評文
- 二 五年生「一秒が一年をこわす」(光村図書)の授業
- 1 一回目の実践
- 2 授業はどうだったか
- 3 二回目の実践「第二教材」を提示する
- 4 本時の評価はどうだったか
- 三 高学年「天才バカボンのおやじはなぜ鉢巻きをしめているのか」
- 1 漫画を題材にした文章を教材とする
- 2 新潟の空の下授業は流れる
- 3 筆者にも注目させたい
- V 「批判読み」の授業展開
- 一 六年生「人類はほろびるか」「ガラパゴスの自然と生物」(光村図書)の授業
- 1 二つの教材で「言葉の整合性」を検討する
- 2 批判を強める第二教材を提示する
- 3 〈初級→中級→上級〉と検討する
- 4 丹念に「言葉の整合性」を検討した批評文
- 二 六年生「覚えること、伝えること、分かること」(光村図書)の授業
- 1 〈中心教材→応用教材〉で「説明と事例と」を検討する
- 2 読み方を習得し活用する
- 3 子どもの批評文で効果を示す
- 三 六年生「外来語と日本文化」(光村図書)の全発問・全指示
- 1 「日本語のために」の学習指導案から
- 2 「日本語のために」全発問・全指示
- 3 二時間連続の研究授業
- W 「批判読み」の可能性
- 一 四年生「体を守る仕組み」(光村図書)の授業
- 1 教科書教材「体を守る仕組み」への疑問
- 2 「熱」の発生過程を討論する
- 3 協議会の論点「発問は適切だったか」
- 二 四年生「手と心で読む」(光村図書)の授業
- 1 教科書教材「手と心で読む」の検討
- 2 〈問い→答え〉から大段落を検討する
- 3 「向山型・説明文の授業」の追試
- 三 説明文指導の先輩に学ぶ
- 1 羽入正路氏の指導
- 2 森正司氏の指導
- 3 川又健司氏の指導
- あとがき
まえがき
なぜ「批判読み」を提案するのか。――この問いに答えるのは、容易ではない。私は、教室の授業者である。よりよい子どもの姿を実現するために、実践してきたにすぎない。恥ずかしながら、研究的な自覚が弱かった。
なぜ「批判読み」を提案するのか。――答えらしきものは、いくつかある。箇条書きで示す。
1.子どもに力が付く。文章を読む時に、読み過ごし、読み飛ばし、誤解が少なくなる。「批判読み」で、文章の細部にこだわり、あれこれと考えるからであろう。
2.子どもが知的になる。実力者の大人が書いた文章を批判するからであろう。自分も一端の人間になったと思うのか。喜ぶと言おうか、楽しむと言おうか、高揚した状態で子どもは授業に臨む。
3.子どもが文章を絶対視しなくなる。子どもは、まさか教科書や本の文章に不備があるとは思いもしない。権威に弱い。「批判読み」で、それらにも不備があるようだと知る。権威に頭から迎合する人間にならなくてすむ。
4.教師が文章を真剣に読む。教師に「批判読み」ができなければ、子どもにできるはずがない。通り一遍の教材研究で十年一日の授業をしていては、不可能である。「批判読み」に挑戦する教師は、教材研究の腕前が上がる。
*
「批判読み」と言うと、「批判」が聞こえてきそうである。
曰く「『批判読み』よりも、まずは文章を正しく理解することが先ではないのか。」
「文章を正しく理解する」と称して、どのような指導をしていたのか。それを点検してほしい。文章をなぞっているだけではなかったのか。音読を繰り返せば容易に分かることを問うていたのではなかったか。大洋紙まとめや新聞づくりで、文章を別な言葉に置き換えていたのではなかったか。文章に関連した実物や写真を持ち込んで、子どもの歓声を聞いていたのではなかったか。こうした指導ならば、「文章を正しく理解する」こととは無縁である。
曰く「文章のあら探しをしてよいのか。小さなことにこだわらせてばかりでよいのか。」
およそ完全無欠な文章など、ない。書き手は、何か伝えたい内容があって文章を書く。伝えたい内容を、もれなく適切に効果的に書ける人は、いるか。読み手は、何か知りたい内容があって文章を読む。知りたい内容を、読み過ごし、読み飛ばし、誤解をせずに読める人は、いるか。文章に人間が介在するから、完全無欠はあり得ない。「あら」か「小さなこと」か。それは検討の結果として明らかになる。
曰く「従来通りの授業で手一杯である。とても時間数が足りない。『批判読み』まで手が回らない。」
むろん「時間数」には限りがある。その中で何かをするということは、何かをしないということである。右のような指導に費やす時間数を減らすのである。右のような指導をやめるのである。無意義な仕事に時間や労力を費やすのは、子どもにとって苦役であり、教師にとって徒労である。
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本書では、説明文の「批判読み」について、次の内容を示した。
1.「批判読み」をさせる指導方法をどうするか。
2.「批判読み」をさせる時の教材研究をどうするか。
3.「批判読み」で、子どもはどのように文章を検討するのか。
4.子どもが自分で「批判読み」ができるようにするには、どうするか。
これらを、一つ一つの教材に即して、具体的に示した。
本書に示した実践事例、指導方法が、たった一つの教室でも授業者の役に立てば、子どものよりよい姿の実現に役立てば、これに過ぎる喜びはない。
平成十四年四月二十九日 /浅野 秀之
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明治図書
















