- 序
- T 分析批評の今昔
- ―受容情報の資料読み―
- 一 「分析批評」は古いか/ 二 批評と鑑賞/ 三 納得から説得へ/ 四 理由よりも効果を/ 五 分析は何のためか/ 六 構造分析へ向かって/ 七 批評の授業
- U 分析批評の読書
- ―感動を伝え合う―
- 一 内容(情報)の読書/ 二 表現(資料)の読書/ 三 読書の技術/ 四 読書の読み/ 五 批評の読み
- V 分析批評の読み
- ―深読みを抑制する―
- 一 感性と技術/ 二 気持ちと効果/ 三 深読みの誘惑/ 四 戦後「文学教育」/ 五 新しい「国語の力」
- W 分析批評の言語技術
- ―愛読書を読み直す―
- 一 教科書の文章/ 二 あいまいな文章/ 三 難解な文章/ 四 愛読書の文章/ 五 資料の文章
- X 分析批評の授業
- ―生涯学習をめざす―
- 一 「走れメロス」の授業/ 二 学び方を学ぶ授業/ 三 作文と討論の授業/ 四 「自主ゼミ」の授業/ 五 文化交流の授業
- Y 声の授業
- ―説得をめざす―
- 一 声の文化としての討論/ 二 討論のための資料/ 三 国際ディベート/ 四 声の力/ 五 語りの視点
- 参考 批評用語抄
- あとがき
序
何度も繰り返し読んで、よく知っている話。人から借りて読んだら、おもしろくなってつい買ってしまった本。雑誌に載っている、ちょっとした話の中で、いつまでも心に焼きついて忘れられない話……。だれにでも、そんなものが一つぐらいはありはしないだろうか。
もしなかったら、そんな話の一つぐらいはある、というところから始めてみたいのが、学び方を学ぶ「分析批評」の授業だ。
当然、みんなの学習材が同じであることなど考えられない。全員、違ったものになることが予想される。四〇人いたら、四〇通りの話――学習材が用意されるだろう。
補助学習材としてならよくあるやり方で、だれもがやっている。読書指導となれば、こうなるのが当たりまえだ。しかし、補助ではなく、中心的学習材としての「大好きな話」を授業の中に位置づけると、どういうことになるか。
学習者の自己実現をめざす学習活動を支援する授業、一人一人の「良さ」を認め伸ばす授業に、教科書はどうかかわるか。
教科書を学習するのではなく、教科書で学ぶのだ、と考えると、この問題はそれほど深刻に考え込まなくても済むだろう。教科書で学んだ方法を使って、自分の大好きな話について再学習するのだ。
教科書を学ぶというのは、毎日の新聞を読もうとする態度に似ている。今、世の中で何が起こっているのか、新しい情報を知りたいというときに、新聞は役に立つ。未知の情報がいっぱい詰まっているのが新聞であり、教科書もそのように考えられている。
未知の情報は、内容が分かってしまえば不要になる。一部分切り抜いて保存されることがあっても、大部分は紙くずだ。教科書にもその傾向がある。
教科書で学ぶというのは、新聞の切り抜きを作ろうとする態度に似ている。一度読んだだけでは捨てられず、何かの資料として使おうという姿勢だ。そこには、自分の生き方にかかわる問題意識が働いている。切り抜きは、もはや未知の情報ではない。
切り抜き帳は、それを作る人が何を必要としているかによって、それぞれ違ったものになる。同じ新聞を読んでも同じ切り抜き帳にはならない。体に自信のない人は、健康に関する記事ばかり切り抜いて保存し、何度も繰り返し読む。内容はよく分かっているのに、やはり読む。問題意識に深くかかわるからだ。
教科書を使って、同じ文章で授業を組み立てようとすると、どういうことになるか。
学習者の一人一人が、それぞれ違った問題意識をもって、みんなで一つの作品を読もうとすると、国語の、特に文芸の授業には、いろいろと無理が生じる。
人によっては、紙くずにしかならないような情報かもしれないのに、内容について根掘り葉掘り読まされるのは苦痛だ。新聞を始めから終わりまで読むようなやり方は、この際、自己実現をめざす学習活動を支援することにならない。
教科書の作品は、たしかに編集者によって選びぬかれた名作ぞろいだ。しかし、内容についてなんでもかんでも教え込もうとすると、落とし穴にはまる。内容の価値は、学習者がそれなりに決めることだ。
学習者にとっては、すでに、何ものにも代えられない大好きな話というものがある。教科書の作品がそれを乗り越えるものであるかどうかは、学習者が判断することだ。
中心的学習材が、自ら選んだ大好きな話だとすると、教科書の作品で学ぶのは、その再学習の方法だ。だから、難解な作品よりも易しい作品のほうがむしろふさわしい。
教科書の中に、読めばそのまま分かってしまうような、易しい作品があったら、そして何を教えたらいいか困ってしまうような作品があったら、その時こそ、まさに店学び方を学ぶ点いい機会だ。
二〇〇二年二月 /井関 義久
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- 明治図書