- まえがき
- T 学級経営力とは生徒を感化する力量である
- 一 他人に迷惑をかけずに、自分自身で食っていける
- 二 教師の日常的な雰囲気で生徒を感化する
- 三 教師の言葉の威力は二十年前にはなくなっていた
- 四 保護者をひとくくりに断罪してはいけない
- 五 教師が信頼されない時代がやってきた
- 六 教師は言葉に頼り過ぎてはいけない
- 七 「感化主義の学級経営」で教師の言葉を機能させる
- 八 教師の言葉に「現実」と「実感」を取り戻す
- U 自分のキャラクターを学級経営に活かす
- 一 すべては〈自己キャラクター分析〉に始まる
- 二 すぐれた授業技術を疑う
- 三 教育効果は〈教授〉と〈感化〉の相乗として現象する
- 四 生徒に嫌われるべからず
- 五 〈目標〉〈指導〉〈評価〉を一体化する
- V 教師の力量は生徒への言葉がけで決まる
- 一 つまずきへの指導は発達段階によって異なる
- 二 生徒に批判された場合の対応は場合によって異なる
- 三 教訓話は得意分野を知的に話す
- 四 機会主義的な学級通信で生徒を動かす
- W 保護者と接する機会を楽しむ
- 一 〈自己キャラクター分析〉に基づいた家庭訪問を演出する
- 二 学級担任としての自信に基づいた個人面談を演出する
- 三 保護者との懇親会を大切にする
- X 「通知表所見」を核に学級担任としての力量形成を図る
- 一 「通知表」は日常実践と連動して〈解釈〉される
- 二 「通知表所見」には十箇条がある
- 三 個人記録簿を持つべきである
- 四 「す素」に視線を注ぐ
- Y 週五日制時代の現場教師として生きる
- 一 〈発信〉こそが〈受信〉を充実させる
- 二 〈結果〉の伴わない〈自信〉は〈過信〉である
- 三 自分を鏡に生徒の〈私領域〉を考える
- 四 原稿を書く、原稿を書き続ける
- 五 書物とはナルシスの水面である
- 六 できるだけ無駄な時間をはぶく
- あとがき
まえがき
昨今、子どもの変容が方々で論じられている。家庭学習習慣が身についておらず学力が低下している。耐性がなく無用のトラブルが頻発する。コミュニケーション力が低下し引きこもり型の不登校が増え続けている。私もまた、子どもたちは年々変容しているように感じている。教師の仕事は昔に比べて、ずいぶんと難しくなった。
昨今、保護者の変容も方々で論じられている。友達親子、アダルト・チルドレンといった概念が大流行である。教育雑誌をひもとけば、保護者のクレームから心身症に陥ったという教師の事例がどの雑誌にも取り上げられている。私は現在の保護者と同世代である。私たちの世代は昭和十年代を親に持つ。自分の子どもに豊かさを享受させることを最善だと思っていた世代である。私たちの家庭には、生まれたときからテレビがあった。テレビは自分の権利が一番だ、自分の幸せが一番だ、私たちは幸せになる権利がある、というメッセージを流し続けた。私たちはそれらのメッセージを真正面から享受した。その結果、私たちはかつての日本人がもっていた日本的な美徳を忘れていった。わがままになった。そしてその世代が、現在の保護者なのである。教師の仕事は昔に比べて、ずいぶんと難しくなった。
昨今、「心の教育」の充実が方々で叫ばれている。神戸の連続児童殺傷事件、黒磯の女教師殺害事件、長崎の児童殺害事件、佐世保の小六女児同級生殺人事件……事件が起きるたびに「心の教育」の大合唱が始まり、児童生徒の細かな心の変化を読み取ることが教師に求められる。児童生徒の情に訴える指導が教師に求められる。しかも、学校システムとしては管理が強化される。教師の仕事は昔に比べて、ずいぶんと難しくなった。
昨今、教員の人事考課の問題が物議を醸し出している。東京都では教師がその実績によって「S・A・B・C・D」と五段階で評価され、「D教師」の給与の二十%が「S教師」に上乗せされると言う。もしかしたらこれから、「C教師」給与の何%かが「A教師」にも上乗せされるかもしれない。教育予算の削減とともに、学校の多くの仕事を非常勤に任せようとする動きさえある。「指導力不足教員」「不適格教員」と判断される教師も年々増え続け、二〇〇三年度は四〇〇人を超えたと言う。私のまわりにもびくびくしている教師がいる。教師の仕事は昔に比べて、ずいぶんと難しくなった。
まだまだある。民間人校長の急速な導入、入試システムの複雑化、女子中高生を食い物にする性産業の拡大、「総合的な学習の時間」の導入をはじめとする学校独自カリキュラムの拡大、学校選択制による人事の混乱、絶対評価導入に伴う説明責任・結果責任、などなど。一部地域では、教師のフリーエージェント制度まで現れた。教師の仕事は昔に比べて、ずいぶんと難しくなった。
これらの動きはすべて、もともと左翼思想に基づいていた「学校のサービス業化」のイメージと、もともと右翼思想・修身思想に支えられた「伝統的な日本人の美徳」のイメージ、或いは「国家に有益なエリート教育の必要性」を謳う主張とが手を組んだことによる。戦後長く対立してきた両者がねじれて手を組んだために、その攻撃対象がすべて学校現場に向くようになったのである。その結果、そうした言説がどんどん学校を萎縮させ、教師を萎縮させ、アリバイ的な指導の終始に追い込んでいる。学校教育が「形式主義」へと陥っていく。
本書は、こうした現状において、一人の教師として、なんとか形式主義に陥ることなく、「子どもの変容」「保護者の変容」「マスコミの学校バッシング」「教育行政の管理強化」といった種々の問題に対応できないかと考えた結果としてでき上がったものである。従うべきは従い、ずらすところはずらし、理想を追うべきは追い、現実を見つめるべきは見つめる……そうした意識で書かれたものである。
ただし、もちろん、完成版ではなく、あくまでも「過程」に過ぎないことは言うまでもない。
二〇〇四年度現在、私は教職十四年目を迎えている。新卒が二十四歳だったので、現在、三十八歳である。
本書は私の十四年の経験から、現在、意識的に行っている学級経営の心構え、方法論を語っている。私は今まさに、本書に書かれているような学級経営を行っているわけだ。そろそろ四十歳になろうとしている自分を省みたとき、二十代から三十代にかけて一人の教師として考えたことが、こうして一書になるということは思えば幸せなことである。しかしおそらく、この本を二十数年後、六十歳の私が読んだとしたら、それは「若気の至り」以外の何物でもないだろうと思う。三十八歳の私が考えても、本書に記されている実践は、四十代以上の教員にはふさわしくない内容が多い。本書で語られている学級経営論は、生徒と年齢的に近く、兄貴分としてつき合うことのできる年代の教師に特有の、ある種の「おごり」と「慢心」に彩られている。私は本書を若手教師に読んでほしいと考えている。
本書の書名は『学級経営力を高める』である。私なりに整理した、完成された学級経営論の書ではない。「私は学級経営力を高めるためにこういうことをしてきましたよ。みなさんもいかがですか?」といったスタンスの本である。従って、本書では学級経営論の主張よりも、私の学級経営における「事実」を中心に書いた。そしてその事実から、未熟な私が現時点で考えたことを整理した。そうしたの本である。
本書が若き教師にとって少しでもヒントとなるなら、それは望外の幸せである。
二〇〇五年一月 自宅書斎にて /堀 裕嗣
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- 明治図書
- 学級経営をする上で気をつけるべきことや意識すべきことを実践に基づいて紹介されていてわかりやすかった。2019/2/520代・中学校教員