21世紀型授業づくり85
中学生の作文を教材にして説明力を鍛える

21世紀型授業づくり85中学生の作文を教材にして説明力を鍛える

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生徒が「本気になって書く」作文指導。

監修者の言葉にあるように中学生の作文指導研究は少ない。本書は中学生に作文指導を通して意見を述べる機会を作り出したもので、作文教材の作り方を「意見文」を書くことで詳細に示し、その作文教材を通して「説明力」を鍛えるための展開を豊かに示した問題提起。


復刊時予価: 2,244円(税込)

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電子書籍版: なし

ISBN:
4-18-520712-3
ジャンル:
国語
刊行:
対象:
中学校
仕様:
A5判 116頁
状態:
絶版
出荷:
復刊次第

目次

もくじの詳細表示

監修者の言葉 /市毛 勝雄
1 中学生の作文指導研究は少ない
2 中学生の作文指導の難しさ
3 中学生は自分を試す機会が奪われている
4 中学生に意見を述べる機会を作り出した
5 本音を書くきっかけに高級も低級もない
6 二重に感想文を書かせる効果
7 授業を支える細部の技術
8 個性は模倣の中から生まれる
序 論
第1部 理論編
「作文教材」のつくり方
1 生徒が集中する教材とは
2 生徒作文を教材にするとは
3 授業の組み立て方
4 「作文教材」をつくる技術
5 声の出し方(音声言語)の指導は必要か
6 クラス全員が発表することの意味
第2部 準備編
「作文教材」をつくる
実践例 「意見文」を書く(1年)
1 はじめに
2 学習計画
3 学習の実際
4 評価の観点
5 学習指導の反省
第3部 実践編
「作文を教材にして説明力を鍛える」学習指導
実践例一 「意見文」を読んで考えたことを説明する(1年)
1 はじめに
2 基本教材
3 基本教材の特色
4 学習計画
5 学習の実際
6 説明の学習
7 評価の観点
8 学習指導の反省
実践例二 「人生相談の回答」を読んで考えたことを説明する(3年)
1 はじめに
2 基本教材
3 基本教材の特色
4 学習計画
5 学習の実際
6 説明の学習
7 評価の観点
8 学習指導の反省
実践例三 「論説の批評」を読んで考えたことを説明する(3年)
1 はじめに
2 基本教材
3 基本教材の特色
4 学習計画
5 学習の実際
6 説明の学習
7 評価の観点
8 学習指導の反省
実践例四 「自己紹介」を読んで考えたことを説明する(3年)
1 はじめに
2 基本教材
3 基本教材の特色
4 学習計画
5 学習の実際
6 生徒作文のユーモア
7 説明の学習
8 評価の観点
9 学習指導の反省
あとがき

監修者の言葉

1 中学生の作文指導研究は少ない

 中学生に対する作文指導、及び小論文指導は、これまで体系的な研究・報告がほとんど存在していない。

 これに対して、小学校の作文養育は盛んに研究されている。『国語教育研究大辞典』(明治図書、一九九一)の「作文指導計画」の項(中洌正堯)が詳細有益である。それによれば、昭和初期には雑誌『生活綴り方』、雑誌『綴方生活』、戦後には研究会「作文の会」および「日本作文の会」等の活動があったが、いずれも「生活指導」と結びついた小学生の作文指導研究であった。日本の作文教育が新しい展開をみせるきっかけになったのは、一九五八年に発表された森岡健二著『文章構想法』である。その一節に「コンポジション能力は、国語の基礎学力である。」という文が見え、その後、学習指導要領の文言の中に「(文章)構成」という語が登場し、現在も生き続けている。右の研究を読むとすぐ分かることだが、「生活綴り方」の指導はプロレタリア文学運動の小学生版を企図したものであり、太平洋戦争後は平和主義教育を「作文」と「生活指導」の側面から支えようとしたのが、「生活作文」の活動であった。

 中学生に対する作文指導研究は、なぜ少ないのであろうか。もし、中学生の作文がNHKの「青年の主張」のような、建前だけの文章でよいというのであれば、指導の研究は簡単である。しかし、中学生の感受性を尊重し、のびのびと意見や感想の本音を書かせようとしたら、小学生に対するような素朴な「生活作文」指導が通用しないことは確かである。では、その難しさの本質は何であろうか。


2 中学生の作文指導の難しさ

 よく知られていることであるが、中学生時代にはまず「第二反抗期」と言われる精神発達の兆候が現れる。これまで自分の両親・きょうだい・家柄などの生活環境になじんで成長してきた少年少女が、突然に自分を育ててくれた生活環境を対象化し、批判的に考え、否定的な側面を意識し始める行動がそれである。

 これは精神的な成長が順調に進んでいる明らかな証拠なのであるが、多くの両親・教師などは、かわいい生徒が一夜にして、悪意に満ちた悪者に変身したような恐怖感にとらわれるようである。中学生という年代は外界に対する知識欲とともに、内面世界に向かって深く関心を掘り下げていく人生最初の時期である。そして友人・市町村生活・テレビ・ラジオ・映画等のメディアから受ける膨大な情報が理解でき始める年代である。蓄積した情報を自分の判断や行動に有効に生かすためには、数多くの成功や失敗を通して体験的に一つ一つ身につけていく他はないのである。

 つまり「第二反抗期」は自己確立の時期であるから、教師も父母も日常の生活はしっかりと守らせつつ、精神面ではゆとりを認めるという二重規範が必要なのである。

 ところが現在の中学生の毎日は、週五日制で授業の時間数が増えた、その後は部活動で、家に帰ると塾・スポーツクラブと曜日も時間も細かく決まっている、というのである。

 かつて、私が中学生のバス旅行につき添ったとき、バスが走り出しても、生徒は自分たちの私語に夢中になって、ガイドさんの話をちっとも聞かない。私は見かねて隣の生徒に注意したが、その生徒がこう言った。「私たちはみんなとゆっくり話し合う時間がありません。今日はバス一日乗っているから、みんなと話し合えるね、と楽しみにしていましたが、ガイドさんの話を聞かなければいけませんか。」私は納得して、ガイドさんに説明して、車中説明の省略を申し出た。ガイドさんは初めは驚いたが、わけが分かってからは生徒に同情していた。

 友人同士がゆっくり話をする暇もないというのでは、自己確立の基盤が失われているという他はない。


3 中学生は自分を試す機会が奪われている

 中学生の自己確立のための精神的環境は悪くなる一方である。まず、テレビを家庭で管理する習慣が失われてしまった。このため、家族で一定時間テレビを見ながら話し合うという楽しみを、家庭が中学生に教える機会を放棄した。

 次に、中学生は一人でテレビを見るから、滝のように流れ出る視覚情報は、個人の心細い体験まで代行しているように見える。しかも現実生活に直接ぶつかる前に、テレビ制作者によって問題は解決されているから、中学生には試行錯誤するという貴重な時間さえ与えられない。ある問題を中学生がどのように解決するか、ある問題を中学生がどのように失敗するかを検証する機会も時間も中学生は奪われている。中学生が失敗を恐れる原因がこれである。

 携帯電話の普及は、個人的な情報交換の機会を多くしたかもしれないが、多くの人と話し合いながら多種多様な知恵を出し合って、課題を解決するという楽しい経験を消滅させた。中学生の右のような精神状態を理解したうえで、作文を書く状況を設定するのでなければ、中学生が本気で自分の考えを記述するはずはない。

 これを一言で言えば、中学生はある一つの問題について友人がどのような発言をするか、自分は何が言えるかを試す機会が奪われている、ということである。中学生は、生活のいろいろな点で豊かになったと言われるのに、精神的に自己確立をうながす条件は揺らぎ、精神の表現としての言葉の学習については、ますます貧しくなっている。


4 中学生に意見を述べる機会を作り出した

 小学生の「生活作文」の指導のように「毎日の生活の中から思ったことを何でもいいから書きなさい」という指導を中学生に行うことはできない。「思ったこと」の枠組みが小学生と違って、大人に近い広さになっているからである。

 その上、第二反抗期の最中だから、教師の痛いところをねらって突いてくる。「思ったことは何でもいいから」と言うと、「国語の授業だけは他の先生に教わりたい」というたぐいのにくまれ口をきくはずである。

 そうかといって、社会的な常識も関心もあるわけではないから、新聞紙上で取り上げられている社会問題を扱ったところで、週刊誌や雑誌の切り抜きを貼り合わせただけの学習で終わってしまう。インターネットで材料探しをする作文を同様である。このように考えてくると、中学生の作文指導を可能にするのは、適切な課題設定であり、有効な作文教材であるということがはっきりしてくる。

 村上正子氏が提案する「人生相談に対する感想文」を中学生の作文を教材にするという着眼点は、ここまで考えてきてやっとその非凡さが理解できる。それも作文指導のアカデミックな歴史を研究した結果ではなくて、中・高校生が好む読み物から「人生相談」に興味を持つ事実を発見したことが糸口になって、作文教材を組み立てたという現実の姿から学び取った姿勢が、私にはとくにりっぱだと思われる。

 研究者の中には、授業研究の論文を書くならオリジナルな授業でなくては意味がない、そのためには前例がないことをよく調べてから書け、と現役の教師に説教する大学教師がいる。だが、忙しい現役の教師などは前例研究などをする必要はない、そんな暇があれば、授業が生徒に理解される工夫をするほうがいいと、私は考えている。国語の授業や作文の授業にどのような試みがあったかを調べながら「授業発達史」を書くのは、ヒマな大学の教師の仕事である。そして自分の授業が国語教育史に残るかどうかを気にして発表する教師は、大学附属小中学校の先生くらいである。他の多くの健康な教師は、目の前にいる生徒を何とかしようとして授業研究をしている。そもそも国語教育史を研究したところで、毎日授業に追われている現役の先生が、「これまでに存在しない授業を思いつく」はずがないではないか。


5 本音を書くきっかけに高級も低級もない

 若者の精神的発達段階の観点から見直すと、村上正子氏が「人生相談」に中学生が鋭く反応することを発見して作文教材を組み立てたことは、実に適切だったと言うことができる。

 中・高校生は昔から人生問題に関心を持つ年ごろである。一九三〇年代の旧制高校生は倉田百三の『愛と認識の出発』やニーチェを読み、「人生とはなんぞや」と考えた。一九五〇年代の新制高校生は石坂洋次郎の『青い山脈』やトルストイの『戦争と平和』を読んで「人生いかに生きるべきか」を考えた。二〇〇〇年代の中学生が中島らもの『明るい悩み相談室』を読んで人生を考えるというのは、教養主義のカビ臭いワイシャツを脱ぎ捨てて絵柄のついたTシャツを着た若者らしくて、よく似合う。

 『愛と認識の出発』を読もうが『明るい悩み相談室』を読もうが、一方が高級で、もう一方が低級だということはない。解決する問題はニキビだらけの中・高校生の「悩み」なのであるから、結果は同じなのである。


6 二重に感想文を書かせる効果

 ところが、村上正子氏の指導力が発揮されるのは、ここから先である。ふつうの着想ならば、おもしろい文章を読んで、生徒の二、三人が感想を言って、それでおしまいである。ところが村上氏は生徒の感想文から優れた文章を選び、添削をして、その文集「回答集」をプリント教材にして、さらに多くの生徒に感想文を書かせた。しかも、多くの生徒が感想文を「本気」になって書く(これは本文の引用を読むと納得する)、という状況を作り出すことに成功した。

 この「感想文を二重に書かせる」という前代未聞の授業の組み立てが、生徒に「本気になって書く」という気持ちを引き出したことは確かである。この指導には手間がかかるけれども、指導手順のどこかを省略すれば、うまくいかないだろうということも分かる。この「二重感想文」が、なぜ中学生のやる気を引き出すのか、その心理的なメカニズムはぜひ解明したいものである。

 公立の中学生が本気になって意見を書くと、ずいぶん筋道立った、力強い文章になることに驚いた。彼らは選抜もされない、町中をうろついているふつうの公立の中学生である。しばしば見受けることだが、授業や文集の成果がよくないときに、担任の先生が生徒の生育環境や偏差値の低さを言い訳にすることがある。まことに聞き苦しいものである。村上正子氏はそんな言い訳をいっさいせずに、ふつうの公立中学生から、これだけの文章表現力を引き出した。生徒が成長するのは、教師の手腕と努力によるものだという、りっぱな見本である。「二重感想文」という驚くべき授業構想を立てたのは、突然の着想ではなく、十五年以上に渉る試行錯誤の結果であると村上正子氏からうかがった。


7 授業を支える細部の技術

 本研究の優れているのは、その優れた「授業構想」を支えているたくさんの細部の技術群が、「学習指導案」とともに授業報告の中に詳細に記述されている点である。そのうちいくつかを抽出すると、次のようになる。

 1 先生の範読と生徒の音読

 2 筆者の名前を知らせない

 3 作品の感想を全員に言わせる

 4 興味を持った作品を選ぶ

 5 文章の形式を教える

 6 文章の添削を一人ひとり施す

 7 発表原稿を中学生に書かせる

 いずれも、押しつけがましくなく、楽しんで授業ができる雰囲気のまま、時間が流れていくのが分かる。だが、これらの指導技術については「単元学習」や「課題解決学習」を信奉してきた先生方からは、疑問が噴出することであろう。

 教師がなぜ「範読」をするのか、生徒が音読するとは中学生を小学生扱いするのか、「感想」は全員に言わせる必要があるのか、興味本位で作品を選んで生徒の学力が鍛えられるのか、生徒の文章を「添削」すると生徒の個性が失われてしまうではないか、発表原稿を書かせるのは生徒の力を信頼していないのではないか、等々。

 この疑問については、本文中で村上正子氏が一つひとつさわやかに説明しているから、解決はそちらに任せたい。私は村上正子氏の授業を何度か参観したが、この指導技術は授業の中で確実に働き、生徒は気持ちよさそうに発言し、メモをとり、話し合いをしていた。そういう実践の一つが本書に収められているが、授業が淡々と起伏なく進んだのに対して、その成果としての生徒の作文の文章が力強いのに、意外な感を持った。やはり教室の学習風景だけ見ては、生徒の学習内容や学習成果を見通したことにはならない。授業研究とは、学習風景とともにその成果を見なければ、真の評価が下せない。

 新しい授業を見るには、新しい全体像のとらえ方が必要になる、というのが本書の完成に際して得た感想である。


8 個性は模倣の中から生まれる

 本書の「序論」にA先生なる話が出てくる。部分的な事実として私がやった覚えのある指導法も一、二記述されているが、その大部分は村上正子氏の心に映った多くの優れた指導者の姿の集約で、それを仮にAという人格として記述したものであろう。

 村上正子氏という優秀な実践者を「生徒」にして、「教師」の私が学んだことは、生徒の個性とは教師を模倣しているうちに生徒の中に自力で徐々に芽生えるものだ、ということである。教師が見通しを立てて計画し、その通りに生徒の個性が伸張するなどというのは夢物語にすぎない。そんな個性は「教師の模型」に過ぎない。

 教師は自分の決まった一つの考えを生徒に繰り返し押しつけるだけである。生徒が教師の模倣だけで一生を終えたとしても、それは生徒の責任である。しかし、生徒に真の個性が存在するならば、その生徒の個性は、生徒のうちで徐々に芽生え、やがて急に伸び始めるであろう。そして、やがて外部に姿を見せたその巨大な個性は、教師の予想とは全く異なった姿をしているだろう。だが、その姿を生徒も周囲も「これこそ先生に教えられた個性の姿である」と言うであろう。そして、教師はそれに対する理由も根拠もないのである。

 本書は、私の理論の一部を採用しているものの、全体像は全く村上正子氏の個性そのものである。そういう独創的な実践理論と実践記録とを完成させた村上正子氏の努力を認めたい。

 本研究に貴重なご助言をいただき、出版を認めてくださった江部編集長に心から御礼申し上げます。


  二〇〇三年十月   /市毛 勝雄

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