- 読者へのメッセージ
- T章 いま何が求められているか
- 1「社会がわかる」ことの意味
- 英雄が消えた
- 「わかる」の2類型
- 主体と客体
- 社会科教育の使命
- 2 民主主義と社会科
- もっとも素朴な定義
- 責任者は誰?
- 危険な美徳
- 挽歌はまだ早すぎる
- 3 もう一つの教科書問題
- そのわけはこういうことです
- 暗黙の合意
- 金科玉条主義の悲劇
- 人文字が教えてくれたもの
- U章 外国教科書に学ぶ
- プロローグ:スーパーマーケットにて
- 1 挑発型キャラクターの意味するもの
- 6番目のキャラクター
- 否定されるための存在
- ヌードル君の活躍
- 挑発の意義
- 2 選ぶ・作る・学ぶ
- 「学校たんけん」と「公園を作ろう」
- 生活科と社会科
- 選択と提案
- 価値判断と意思決定
- 3 社会科教育とゲーム
- ゲーム教材の必要性
- 勝敗の明らかなゲーム
- 勝敗の見えにくいゲーム
- 勝敗を無視するゲーム
- 絶望的な誤解
- 4 地域の見えない地域教材
- 地図にない町
- 「事実である」ことの限界
- 5 離陸への手だて
- 優等生の告発
- 具体物からの離陸
- 地域からの離陸
- 現在からの離陸
- V章 新しい教材観のめばえ
- 1 教育材から学習材へ
- 教科書を・教科書で・教科書に
- 新しい工夫
- 残された課題
- 2 あるアンケートの結果から
- ふたたび「スーパーマーケットにて」
- もしもこんな教材があったなら
- 変革の予感
- W章 社会的自己認識へむけて
- 1 「提案する社会科」への招待
- 置きざりにされたもの
- if からの出発
- 想像と創造のあいだ
- 2 単元:火事をふせぐ
- 茂松実践@
- 茂松実践A
- 西川実践
- 追究力ら提案へ
- 3 社会科の未来像
- これまでに述べてきたこと
- 学習指導要領再考
- 21世紀への伝言
読者へのメッセージ
この本がはたして専門書か──と問われると,じつは,書いた本人にもよくわからない。
テレビの人気番組の話題がとび出してきたり,思わず苦笑してしまいそうな皮肉っぽい表現があったり,マンガに近い挿図があちこちに散りばめられたりしているのである。第一人称は「私たち」と表現されていて,それだけをとり上げると,まるで何かの演説集のような印象すらある。このかぎりにおいては,まったく専門書らしくない。
しかしさりとて,この本が単なる安楽椅子の教育随想でないことも,また確かである。その議論の当否はともかくとして,私は私なりに,これまでの社会科教育の問題点をあらい出し,私なりの新しい論理にもとづいて社会科の未来像を描き,さらには学習指導要領のあり方にまで筆をすすめている。「本質論」とまではとても言いきれないが,そこに迫ろうという気概だけはこの本に満ちあふれているはずだと,少なくとも本人は思い込んでいる。
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もともと私には,専門用語を駆使し古今東西の学説を縦横にとり込んだ学術書を仕上げるというほどの力などない。一方,高校教師としての経験しかもたない私にとっては,小学生たちの学びの実態を生き生きと描くこともまた過ぎたる重荷であった。私は,だから,自分にもっとも抵抗の少ないかたちで,社会科に対する自分の思いを書きつらねていこうと開きなおった。そしてでき上がったのが本書である。
社会科教育に関する著作は多いが,なかには,研究者相互の議論のたかめあいには有効ではあっても,現場の先生方にとってはその内容や意図の読みとりにくいものもあったし,逆に,授業記録や子どもの作文のみが延々とつづき,その実践記録から何が言えるのかを明確には把握しがたいようなものもあった。
この両者の橋わたしをしよう…などという大それたことを,本書はねらっているわけではない。さきに述べたように,この本はじつに単純な理由から生まれ,それゆえに,両者のどちらとも言いがたい“ファジー”な代物ができ上がったというだけのことにすぎない。したがって,もし本書が,結果的に,その橋の橋ゲタぐらいの役割でも果たすようなことがあれば,それは私にとって,まさに“望外のよろこび”にほかならないのである。
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T章では,「社会科教育とはいったい何だったのだろうか」という,素朴な,しかし重要な点についての私なりの考えを書き散らしている。引用文献とくに教科教育関係の引用文献の異常な少なさからもご想像いただけるように,ここに述べられている内容は,従来の論考を総ざらえして批判的に組みなおす…というような一般的な作業をふまえてのものでは決してない。言うなれば,私の心のなかにモヤモヤと堆積していたものを,そのまま文字にしたという程度のものでしかない。したがって,思い込みや舌足らずな点も少なくないかもしれない。読者の方々の冷静な分析を厚かましくも期待している,というのが正直なところである。
U章は,『教育科学・社会科教育』(90年4月号〜9月号)に連載させていただいた,講座「外国教科書に学ぶ」を大幅に加筆修正したものである。連載では教科書論的な色彩が強かったが,本書に組みこむに際しては,社会科教育の目標論をふまえての教材論という,より大きな視点からまとめなおしているので,なかには原形をほとんどとどめないような部分もある。ただ,「外国ものが“遠い国のお話”と受け取られないように…」との当初のねらいだけは,各所に生きているはずである。たとえば,教科書本文等の和訳にあたっては,「他を犠牲にしてもまず正確に」というこれまでの常識を覆して,とにかく日本語としてこなれた表現をすることをめざしている。必要な場合には,「porridge=オートミールを水または牛乳で煮て作った英国風のカユ」を,あえて「スープ」におきかえるなどの無謀なこともしている。この点,あらかじめ含んでおいていただきたい。
V章は,文字通り,起承転結の“転”である。平成4年度版教科書の独断的分析を1節に記している。念のために補足しておくが,私が入手し分析の対象としたのは,いわゆる見本本である。確率的には非常に低いが,誤記の訂正などにともなって,供給本とのあいだに若干のちがいが生じることがあるかもしれない。この点も,あらかじめご了承いただきたい。
この章の2節とW章の2節には,高知県の話題がふんだんに登場する。あらためてここで強調しておきたいのは,高知県の先生方とくに高知市社会科研究会の先生方のご指導がなければ,本書が世に出ることはなかったであろうということである。私が前任校・高知大学教育学部に在籍していたのは,わずか4年半のことであるが,私はその間,現場の先生方の実践研究のなかから,ずいぶんたくさんのことを学んだ。1月下旬に行う45分の研究授業のために,なんと前年の8月から,何度も何度も仲間たちによる検討会をくり返すというその真摯な姿には,まったく頭の下がる思いであった。IV章1節の「提案する社会科」の論理は,まさにその実践研究のなかから生まれてきたものなのである。
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最後になったが,編集部の樋口雅子氏にも心からお礼を申し上げねばならない。この本の執筆に要した時間は,実質的には2か月弱である。しかし,エンジンのかかるまでが長かった。その長い時間,辛抱強く待ちつづけて下さった氏の“度量”のおかげで,本書は日の目を見ることになったのである。深甚の謝意を表したい。
「とにかく読みやすい,読んでもらえる本を作ろう」──この制作の基本姿勢では,私たちの意見は完全に一致していた。それゆえ引用文献の示しかたなどに従来のものとは異なる方式を採用したりしているが,それらの目論見がはたして効を奏しているかどうかは,読者のご判断に委ねるしかない。
なお,本書を編むにあたって,その素材となった拙稿ならびに外国教科書に関する出典だけは,下記に一括して掲げておいた。必要な場合にはご参照いただきたい。(出典略)
平成3年秋 /小西 正雄
本書は社会科・公民科だけでなく、あらゆる教科における学習活動に適用できる授業観を与えてくれる一冊です。VUCAの時代を生きていく主権者を育てるために、いまこそ必要とされる本書の復刊を切に望みます。
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