- まえがき
- 1 規範的文章形式に学ぶ作文学習
- 一 書き方を形に学ぶ作文学習
- 二 規範的な文章形態の変化の兆し
- 三 規範的な文章の形態変化と作文の指導観の変化
- 2 実用的な題目について書く作文から、自分の考えを書く作文への兆し
- 3 今日から見た「随意選題」作文の立場と指導法の問題点
- 一 作文における実用的題目の否定は何をもたらしたか
- 二 芦田恵之助における鍛練道としての綴り方指導論の成り立ち
- 4 随意選題作文の立場と綴る技能を養う練習作文の立場
- 一 「自分の生活を見つめること」は作文指導の基本的事項なのか
- 二 友納友次郎の作文指導の立場
- 5 作文指導を個人的心情作文に方向づけた二大契機
- ──雑誌『赤い鳥』の投稿作文と北原白秋の児童自由詩芸術論──
- 一 個人が個の場で書く作文と教室での作文学習の混同
- 二 児童自由詩は、作文よりも「芸術的」価値があるのか
- 三 児童自由詩は、散文が書ける前段階として意味があること
- 1 論題の意味
- 2 児童詩における経験的時間のあり方の特徴
- 3 児童自由詩と大人の自由詩との相違点
- 4 児童自由詩が芸術でないことを悲嘆する必要はないこと──作例一つ──
- 6 国語科綴り方から「生活教育」のための綴り方へ
- 一 身辺雑事のスケッチ綴り方の否定の方向
- 二 「生活教育」の一環としての作文行為──国語科作文からの別離──
- 三 一つの思想教育の手段としての作文指導
- 四 教師は生活作文によって、具体的な生活指導を出来るのか
- 7 一九四〇(昭和一〇)年代における、二つの対照的な作文指導の立場
- 一 調べて書く作文の学習指導――作文行為を学習指導に取り戻す試み――
- 1 新しい課題設定作文の革新的な意義
- 2 調べる作文指導は、児童も教師も手間暇を要すること
- 二 理念的な特別の生き方を教える作文指導 ――『学童の臣民感覚』――
- 8 「生活教育」のための作文から国語科作文へ
- 一 作文教材、初めて教科書に登場
- 二 戦後の「書くこと」の指導観は支持されたか
- 三 新しい作文指導の立場と復活した生活作文指導
- 1 新しい学習作文の提唱
- 2 復活した生活作文
- 3 都市の生活作文の一例
- 4 生活作文の概念および生活作文の特徴――国語科学習作文への回帰の方向――
- 9 作文教材の新しい教え方(上)
- ――立場と方法――
- 一 良い作文の鑑賞は、書く手立てにはならないこと
- 二 「書くこと」の学習の新しい題材と指導方法
- 1 学級に共通のただ一つの題目(主題)の設定と具体的事柄の提示の段階
- 2 主題を決めるための事柄の選定と構想を決める段階
- 3 構造を考えて文章を書く段階──主題の最終的な明確化──
- 4 評価の学習段階
- 10 作文教材の新しい教え方(下)
- ――学習作文の見方――
- 一 良い作文についての世間の一つの見方
- 二 さまざまなジャンル(類型)の文章が書ける指導の必要性
- 1 さまざまな問題を調べて書く作文
- 2 情報を知らせる作文
- 3 読書感想文を越えた読書評論文
- 4 作文の内容上の事柄は、個別教科の枠を越えること
- (1) 理科の実験によって分かったことの説明の文章
- (2) 総合的な学習、国際化の問題についての作文
- (3) 地域の問題について、ディベートによって論点を深めてからの作文
- 三 短い分量の作文には、学習価値がないのか
- 1 短作文は、長い作文が書ける前の段階の学習ではないこと
- 2 短作文指導の一例
- 四 実生活での作文の場所(必然性)は、教室に持ち込めるのか
- 五 第三者の鑑賞用の作品集から学習文集へ──評価の観点の更改──
- 1 学習文集の一つの事例
- 2 学習作文集の価値と評価の観点
- 11 作文指導を一斉学習指導に戻そう
- 一 作品としての作文と学習指導による文章の混同
- 1 感動的な作文と学習指導の成果としての文章
- 2 第三者として作品を見る立場と学習指導の一つの成果を見る立場
- 3 学習作文集を「作品」論的に酷評する立場
- 二 作文指導とは感動的な作品の出現を待つことか
- 1 評判のよい作文──世間の一つの見方──
- 2 野口英世の母の手紙は作文学習の目標なのか
- 3 「一途な思い」は作文学習の動機づけになるか
- 三 随意選題作文は学習指導の方法にはならない
- 1 課題作文の挫折
- 2 新しい課題作文の提唱
- 3 随意選題作文の提唱
- 4 「綴ろうとする想の内に力強く」湧くのを待つのは指導方法論なのか
- 5 作文指導の目標は、人生論指導なのか
- 四 『赤い鳥』の作文観と児童自由詩芸術観
- 1 「悲しい」心情作文をほめ讃えてすむのか
- 2 心情作文は、文章力の向上の手立てになるのか
- 3 児童自由詩は芸術だとする妄想
- 4 児童自由詩形式の、散文入門としての意味
- 五 作文による人間形成指導の無残の一事例
- 1 身辺雑事の描写作文から生活を考える作文へ
- 2 生活教育としての作文という空疎な幻想の例
- 3 『学童の臣民感覚』の作文の無残
- 4 作文指導の目的の二つの対立的立場
- 六 「作品」の創作から、「文章」を書くことへ
- 1 物事について、調べて書く作文指導のさきがけ
- 2 調べて書く作文の意味と無意味
- 3 調べて書く綴り方の挫折
- 4 「作品」から文章へ
- むすび――これからの作文指導のあり方について――
- 注
- あとがき
まえがき
学校の作文指導には、今もって基本的な事柄について間違った考え方があって、容易には解決できない問題がある。第一に児童・生徒が日常生活の場で、さまざまな必要によって文章を書くことがあり得る。また学校の教室という場で、年間計画のもとに展開される作文学習指導で文章を書くことがある。ところで、後者の作文は、前者の作文行為の延長線上にあるのではない。したがって実生活の作文の場を教室の作文にそのまま移すことは出来ない。それなのに、これからの作文指導の課題は、実生活の作文の場を重視すべきだと説く立場がある。第二に児童・生徒が学校外の実生活の場で、体験的心情を綴った作文が第三者の感動を呼び起こすことはあり得る。しかし各種のコンクール入賞作文と学校での学習作文とは、評価の観点の次元は異なるべきものである。ところが、それが混同されることがある。ある児童・生徒の作文が何かのコンクールに入賞すると、それに関わった指導者は、自分の担当する学級に作文力があって、同時に自分が指導力のあることの証明のように思い込んでしまうこともある。第三に児童・生徒が教室で作文を行っても、それは作文活動であって作文学習活動ではないのだが、この違いに無頓着で、教室で自由題で作文をさせていれば、作文指導をしたことになると思っている指導者がいる。第四に、児童・生徒が自由題で作文をするように命じられて、「書くことがない」「どう書いてよいか、分からない」という困惑を指導者に訴えることがあるが、それは、児童・生徒の側の「罪」にされて、これこそ、指導すべき大事な問題であることに気づかない指導者もいる。第五に、説明の文章や観察記録や伝達等の多様の文章を書かせる指導を軽視して、作文とは、人生についての認識の深化拡大に直結するような、感動を与えるものであるべきだと思い込んでいる指導者もいる。
このような問題があることには、それなりの理由があるし、問題の根は深い。そこで明治時代初期の近代的な制度としての学校が発足した当時からの作文指導の歴史的経過の中から、将来の問題を解明する手がかりを得ることを目ざした。本書は未来の問題を過去の実態の中から探ろうとしたものであって、歴史的経過についての叙述の書ではない。ただし歴史的事実を恣意的に端折って、論点の裏づけにすることのないように、念には念を入れたつもりであるから、一つの作文教育歴史論の趣を帯びるものとはなっている。児童・生徒に作文の力がつくような指導とはどのようなものか。故芦田恵之助の随意選題作文指導の立場は、一九一〇年代には大きな意義を持ったのだが、それから一世紀近くの年月が経過した今日、その幻想を讃美して、随意選題作文および生活作文の指導を続けていてすむ状況ではない。また輿水実の学習作文指導論を形式的で浅薄な小手先の技能を身につけさせるだけで、物を考える人間の育成には関わり得ないとして否定してすむ状況にはない。
本書は、一九九六年の刊行になる『「作文技術」指導大事典』の編集に携わる前後から、これからの学校における作文の力をつけるための指導のあり方についての考察の結果をまとめたものである。新しい指導法の探索は、必然的に作文指導観の更改を求めるものでもあった。作文指導については、理論的考察の書および実践的研究書に枚挙に暇がない程である。それらに伍して提示する本書が識者の批正を得るならば有り難いことである。
二〇〇一(平成一三)年五月 /渋谷 孝
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明治図書















