- はじめに
- ――なぜ、今「詩とイマジネーション」の教育か
- 第一章 詩とイマジネーションの教育の理論
- 無意識のイマジネーションの発露としての詩作
- ――児童の言語生態研究会の理論と実践に学ぶ
- 「発見」の契機としての詩の学習
- 第二章 詩とイマジネーションの教育の実践
- 広島大学附属東雲小学校と東雲中学校の取組について
- 第T期(小学校一・二年)
- 単元 ことばからそうぞうしてしを書こう
- 第T期(小学校一・二年)
- 単元 ともだちのことおしえるよ(一年)
- 単元 家ぞくのこと教えるよ(二年)
- 羽場実践の解説
- 第T期後半(小学校三・四年)
- 単元 自分の気持ちを詩にしよう
- 第T期後半(小学校三・四年)
- 単元 絵を見て空想を詩にしよう
- 宮本実践の解説
- 第U期(小学校五年)
- 単元 「連詩」に挑戦しよう
- 第U期(小学校六年)
- 単元 詩を創作しよう「わたし」
- 谷実践の解説
- 第V期(中学校二年)
- 単元 詩人の時間1
- ――想像の世界を広げよう
- 第V期(中学校三年)
- 単元 詩人の時間2
- ――詩人との共創にチャレンジしよう
- 浜岡実践の解説
- 第三章 詩とイマジネーションの教育のこれから
- 附属東雲小学校低学年・中学年の実践からの展望
- 小学校五年生〜中学校三年生の実践からの展望
- おわりに
- ――詩の生まれるとき
はじめに
――なぜ、今「詩とイマジネーション」の教育か
二〇一七年に小学校学習指導要領が告示され、二〇二〇年から施行される。引き続いて、中学校および高等学校の学習指導要領も施行されていく。大学入試センター試験も変更され、記述式の問題が国語科などに導入される。高等学校の国語科の科目も再編され、文学教育が衰退するのではないかという不安がある一方で、実用文が多く高等学校の国語科教科書に採り入れられることで、実生活に役立つ国語科として改善されるという声もある。
こういった「教育改革の喧騒」は、既視感が伴うものである。近代教育が成立してから、学校教育は、主権者の関心も高いため、国家や地方自治体の「政策の中心」に扱われてきた。したがって、「教育の制度いじり」が頻繁に行われるようになる。もちろん、二〇一〇年代後半から行われてきた教育改革にも目的と意義があるだろう。しかし、学校教育の結果は何十年もかかって現れるものである。にもかかわらず、「教育の制度いじり」が頻発している。このことで振り回されるのは、その時々の学習者である。
このような「流行」の中で、それでもしっかりと足に地をつけた学習者を育て、足に地をつけた学校教育を行いたい。「不易」の教育が今こそ求められると考えられる。その「不易」の基盤をどこに求めればいいだろうか。
私達は、「不易」の教育、教育の「不易」を、子どものイマジネーションに求めることにした。
近代以前から人間は、イメージと無意識の世界を内に持って生きてきた。イメージと無意識は、夜には夢によって現れ、昼には口承歌や絵画、舞踊として、また、視覚的な意匠として現れ、伝承されてきた。そのような豊かなイメージと無意識の世界を内に持ち外に表現しつつ、日常生活という苦しい現実を乗り越えようと人間は生きてきた。
これは近代以後の、私達も同じである。大人も子どもも同じである。私達から、イメージと無意識の世界を奪うことは、文学や音楽、ゲームやアニメ、ダンスや絵画、空想や幻想を奪うことであり、それは、人間として生きることを奪うことである。
イメージと無意識は、イマジネーションという力動性を持って表現される。しかし、近代はそのことを難しくさせる。とすれば、子どもたちが持っている(本来性の)イメージと無意識をイマジネーションから言語へと誘う詩作を行わせることは、子どもの本来性を回復することになるのではないか。近代が奪いつつある本来性を回復することを、近代教育で行うという壮大な矛盾を抱えながら、それでも「不易」の教育を求めて行ったのが、私達の実践である。
子どもたちの本来性の回復は、本書の理論的基盤の一つである児童の言語生態研究会の言葉を借りれば「うちにかえる」ことである。どれだけ、子どもたちが、詩作を通して「うちにかえる」ことができたか、ご覧いただきたい。
/難波 博孝
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- 明治図書
- 指導の正解がわからない詩創作について学べた2020/11/2030代・中学校教員
- 実践事例が豊富で分かりやすかったです2019/10/1820代・小学校教員