- はしがき
- 一 説明文教材の読み方学習指導の立場の現在
- 二 創立期の小学校の『読本』の文章の一例
- 三 文章に関する「事柄」重視か、文章の叙述「形式」の重視か
- 四 教材としての説明文の変質の過程
- 1 知識としての情報を得ることから、読み取り能力の育成の過程
- 2 「何が書かれているか」と「どのように書かれているか」の再度の分離
- 五 説明文の学習をつまらなくするもの
- ──「形式(小)段落」と「意味(大)段落」──
- 1 全文通読の直後に、意味(大)段落分けの学習は出来るのか
- 2 第二次段階で、意味(大)段落分けをさせる契機になったもの
- 3 新提案が普及すること、しないことの問題
- 4 大(意味)段落の認め方の問題
- 5 大段落分けの意味
- 6 大段落分けの学習の意味と無意味
- (1) 一つの教材例「動物の体」
- (2) 各小段落ごとの精読の段階
- (3) 文章の構成を調べる読みの手立て
- 六 読み取る手立て(言語技術)をつける説明文の教材論と学習指導のあり方
- 1 言葉を覚える筋道
- 2 新しい説明文の教材と読み方学習の指導方法
- (1) 「ひばり」の剥製を見せる段階を誤まらないこと
- (2) 実物についての知識(すずめ)を基にしての類推(ひばり)
- (3) 鳥についての知識を与えることの是非
- 3 説明文の読み方指導とは、説明されている事柄についての知識を身につけることか
- 4 「魚の身の守り方」で教えるべき、読み取りの手立て(言語技術)は何か
- 七 説明文の教材論、授業論の現在の問題
- 1 説明文の教材論と授業論のあるべき立場
- 2 最近の教材論と授業論の動向──説明文教材を情報資料として見る立場とその授業の問題──
- (1) 多様な手立てによる情報獲得学習
- (2) 情報読みという知識収得学習
- (3) 情報化時代の幸と不幸
- 3 筆者想定の読み方、筆者の工夫を評価する読み方の問題
- (1) 作者の想定
- (2) 書き手の意図を探るという考え方の登場
- (3) 筆者想定法
- (4) 筆者の工夫を評価する読み方の問題
- (5) 説明文教材の「記述の不足」という教材批判の問題
- (6) 小田迪夫氏の書き手の認識の視点の捉え方の問題
- (7) この第七章第三節のまとめ──長崎伸仁氏の「筆者を読む」について──
- 八 読み手の立場の重視と筆者想定の重視の矛盾
- 1 問題の意味
- 2 読者の重視と筆者の工夫の重視の矛盾
- 3 「私の読み取り」と「周辺の知識・作者の意図」
- 九 説明文の情報読みと説明文の読み方学習とは異なること
- 1 提案の趣旨
- 2 基礎的・基本的事項の学習指導
- 3 類似の事柄を取り上げた他の教材との対比読み
- 4 いろいろなじどう車の作りと働きの特徴についての情報収得学習
- 5 この章のまとめ
- 十 説明文教材を使った単元学習と総合的学習
- 1 「総合的学習」は、先導的な新しい学習か
- 2 総合的学習の概念は規定されているか
- 3 総合的学習の輪郭
- 4 単元学習と説明文の読み方学習
- あとがき
はしがき
現在の説明的文章(以下、説明文と略称)の学習指導上の諸々の問題は、直接には一九五〇年代以降の問題を引き継いでいる。一九五〇年代の読み方学習指導では、文章ジャンルの特徴と教材解釈と指導法との関係は、精密に考察されることはなかったようである。この時期、説明文は、事柄を拾い出しての生活化を図る知識学習の趣が強かった。それが一九六〇年代になると、変化を示し始めた。その原因としては種々の契機があるが、その一つは、昭和三十三年版の学習指導要領国語科編である。説明文教材の特徴が、文学教材との対比において本格的に問題にされ始めた。形式(小)段落と意味(大)段落との関係を調べての文章構成の吟味、要旨の把握、要点調べ、作者の意図の推察、主題の吟味などのきめ細かな実践的研究が本格的に行なわれた。
ところが、一九七〇年代に入ると、その学習指導上の問題点が、いくつも露わになって来た。その一つは、「書き手の意図や文章の主題をとらえること」(小五)や、「書かれていることの中の事実と意見を判断しながら読むこと」(小六)に関わることである。読み手が説明文を読んで、その内容から、書き手の意図なり、動機なりを推察することと原作者としての書き手の意図や動機とは同じことではないこと、それと連動するが、説明文における「事実」と「意見」を「判断しながら読むこと」などの問題である。その問題の克服の過程において、現在の説明文の教材研究と授業研究が行なわれている。例えば説明文の事柄は、現実的事柄と対応関係にはないことの理解の成立に伴って、いわゆる形式主義と内容主義との対立は克服されつつある。また説明文の指導過程は、文学教材のそれよりは、画一的ないし形式的であった。(1)全文通読による全体の趣旨についての概観、(2)意味段落分け、(3)各意味段落ごとの「精読」、(4)語句の吟味と主題把握、(5)練習という指導過程を教材の如何を問わずに適応することは、なくなって来ている。
ところが現在は、一九七〇年代にはなかった新たな問題が生じている。主要な問題の第一は、説明文の読みにおける「筆者想定」とか、「筆者の工夫の評価」という問題である。そこには、読み手が推察した限りでの「筆者想定」ないし「筆者の工夫の評価」なのか、読み手とは関係のない原作者の問題なのかがあいまいだという問題がある。しかも、「筆者想定」や「筆者の工夫の評価」の重視の立場は、文学教材の読みにおける読者主体の重視の立場とまったく矛盾している。この関係の有無についての説明がないのも問題である。この問題については、主として本書の第七、八章において考察した。第二には、説明文の読み方学習指導は、学習者にとって主体的なものにすべきだという立場のもとでの、従来とは趣の異なった一種の「内容」読みの問題である。説明文教材の読み方学習指導の本旨は、当該教材の趣旨を読み取るための手立てを身につけることが第一義的なことである。ところがその立場は、一九六〇年代の基本的技能指導の亜流だと見なされやすい。この問題の克服については、主として第六章において考察した。第三の問題は、説明文の情報読みということが、さながら新しい立場のように提唱されていることである。そもそも情報化社会と言われる現在の状況は、決して好ましいことだけがある訳ではない。情報読みという名の知識収得学習は、単独の説明文教材の読み方学習指導の「孤立化」を克服出来る方法だという主張まである。「孤立化」という言葉には、負のイメージが纏いつくが、それは無用の懸念である。情報収得の学習指導は、学習者の状況に応じて必要である。しかしそれと、説明文教材による読み方学習指導は、立場が異なる。その立場の違いを混同しないことが必要である。その問題は主として第九、十章において考察した。
なお本書は『二十一世紀型授業づくり』叢書の一冊として刊行される。学校が近代的制度として発足してから一世紀以上が経過して、いわば一種の「制度疲労」に陥っている。集団としての学級、指導方法としての一斉指導、義務制、個別教科ごとの領域など、多様な問題の新しいあり方を視野に入れながら、二十一世紀の授業づくりを新たに模索して行く必要がある。すなわち新版の学習指導要領の立場に埋没して一時の流行に終わらせることなく、それと反対に新版に否定の立場だけは示しながら、何等の具体的提案を行なわない怠惰に陥ることがないように研究的な実践をして行く必要がある。
識者の批正によって、この問題の解明のための一つの手がかりになり得るなら、ありがたいことである。
1999(平成11)年10月 /渋谷 孝
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- 明治図書