- はじめに
- 序説 国語教育は何のために
- ―「切実さ」と「ことばにならない何か」
- 学ぶことへの「義理」と「切実さ」―「独断のまどろみ」からの目覚め
- 「義理」と「切実さ」をデザインする―国語教育実践事始め
- 「ことばにならない何か」と国語教育―「ことば」の学びの根源的「切実さ」のために
- 「ことばにならない何か」の国語教育的意義―わたしのための「ことば」をつくる
- 「ことばにならない何か」から始まる国語教育が問い直すこと
- 第1章 「言語化する力」を問い直す
- ―学習者たちの「ことば」の姿から
- Aさんの「ことば」―「能力」ゆえに見落とされる「ことば」
- レポートの書けない大学生―こぼれ落ちる「能力」と失われる「義理」
- 感想=「ふりかえり」?―「能力」の誤学習が奪う「ことば」
- 根源的「エネルギー」としての「言語化する力」―「ボキャ貧」を受け入れる
- 「言語化する力」と「ことばにならない何か」
- 第2章 「言語化する力」を受け止める
- ―「ことばにならない何か」から始めるために
- Kさんの「ことば」―学習者をめぐる典型
- 卒業文集の「ことば」―六年担任の苦悩
- 「言語化する力」を受け止める―学習者の「ことば」のために
- 第3章 「言語化する力」と「能力」、そして「ことばにならない何か」
- 「書く」ことの根源的な不自由さと不自然さ
- 「書く」ことの不自由さ―Mさんの話
- 「書かれたこと」への不信―Bさんの話
- 「書く」ことの不自然さ?
- 「書く」を問い直す
- 国語教育の「論理」を問い直す
- 「論理」はそんなにエラいのか?
- 「論理」の価値=イメージの再考
- 「論理」の危うさと信用ならなさ
- 「論理」はそんなにエラくない―三百年前のツッコミを参考に
- 「感じる」こととともにある「論理」
- 「論理」をオーダーメイドする力―□と→としての「論理」
- 「説明的な文章」アレルギーとは何か
- 「論理」との出会い直しへの挑戦
- 学習者の姿から―「論理」カリキュラムの行きつく先
- 「説明的な文章」の隠れたカリキュラム?
- 「論理」をめぐる根深い誤学習?
- 「ことばにならない何か」との出会いとしての文学体験―文学教育再考
- 「文学的な文章」/「説明的な文章」
- 伝えることの始まりとしての「文学」
- 「文学」と出会う、向き合うことの意味
- 第4章 これからの国語教育の話をしよう
- ―「ことばにならない何か」とともに
- 「多様性」と「ことばにならない何か」
- 学校教育における「多様性」―矛盾した要求?
- 「文学」の意義―「ことば」のあり方の「多様性」との出会い
- 「ほんとう」としての「文学」―あまんきみこという体験
- 「幼年期の終わり」と「ことばにならない何か」―「予測困難な時代」への覚悟
- 『幼年期の終り』
- 国語教育の「幼年期の終わり」―言語生活の断絶を前に
- 「幼年期の終わり」の国語教育―知りえない未来に向けて
- おわりに
はじめに
みなさん、またお会いしましたね。はじめましての方は、どうもはじめまして。みなさんと「ことばにならない何か」から始まる国語教育の旅を(ふたたび)始めることができるのを、とてもうれしく思います。
私たちはいったい、何のために「ことば」を学ぶのでしょうか。そもそも、私たちにとって、「ことば」とは何なのでしょうか。考えれば考えるほど、「ことば」とは、実に不思議でややこしいものです。「書くこと」の授業で手が動かなくなる子、「読むこと」の授業で黙って立ち尽くしている子、こうした学習者たちは、知らず知らずのうちに「ことば」をめぐる根源的な「なぞ」に出会ってしまっているのかもしれません。いや、「ことば」は私たちの生活のすべてに関わりますから、この「なぞ」は国語科だけではなく、学習者の発達・成長の全般に関わる「なぞ」であるといってもいいでしょう。
何の因果か、私もいつのころからか、こうした「ことば」をめぐる根源的な「なぞ」に気づいてしまい、その周りを動物園のシロクマよろしくウロウロとしています。
どちらかといえば国語が「得意」であった私は、はじめはそれを圧倒的な語彙力と表現力、思考力によって攻略しようと考えました。大学で「哲学」をやってみようと思ったのも、「ことば」の根源的な「なぞ」が、哲学でなら扱えるかもしれないと感じたからです。
しかし実際のところ、哲学は哲学自身の問題を考えているのであって、「ことば」の根源的な「なぞ」については、どうやらあまり興味がないようでした。哲学の問題にあまり身が入らなかった私は、途中で「もういいか」となってしまい、なんとなく哲学のものの見方や考え方をおみやげに、いったんは大学を出て、就職することにしたのでした。
あとで詳しくお話ししますが、面白いことに、私にとって「ことば」をめぐる根源的な「なぞ」について考える契機となったのは、ただバイトとして関わっていた「国語」学習でした。「ことば」の力をつけるためには、どうやらそもそも「ことば」を使ってみたいと感じる必要がある。では私たちにとって、その「使いたい」思いはどこからどうやって湧いてくるのか……困り感を抱える学習者の姿に触れ、試行錯誤しているうちに思いついたのが、本書でみなさんと見ていく「ことばにならない何か」から始まる国語教育です。
私たちは、「ことば」で物事をとらえ、思いや考えを表現し、伝え合うことを当然だと思っています。そのため、あらゆる思いや考えは基本的に「ことば」にしうるものだし、それができないのは「ことば」の力が足りないからだ……そう考えるようになってしまってはいないでしょうか。近年の「言語化」や「論理」に対しての(過度な)関心の高まりを見るにつけ、私はそう感じてなりません。
しかし、「完全な言語化」が私たちの理想となるということは、裏を返せば、私たちにとって、「完全な言語化」ということがそもそも不可能であることの何よりの証拠です。何をどう言語化し、それをどう精緻な論理に基づいて表現したところで、語られた表現が語らんとする内容に一致することなどありえません。それなのに、どうして私たちはそんなに「ことば」に期待し、その裏返しとして、自分たちの力不足を嘆くのでしょうか。そしてもし仮に、国語科の学習もまたこうした発想に基づいているのなら、私たちは「完全な言語化」という呪いを、よかれと思って再生産しているということにもなりかねません。この呪いは、表現方法の多様化や学習者自身の「ことば」の文化的・個別的背景への意識が重要な今日、いっそう重い問題として受け止めなければならないでしょう。なぜなら、「完全な言語化」を目指すということは、たった一つの理想的な「ことば」のあり方のみを認めるということでもあるからです。
だからこそ私は、「ことば」の前の「ことばにならない何か」から、「ことば」をめぐる根源的な「なぞ」について考えてみようと思っています。つまり、私たちは「ことばにならない何か」をとらえるために「ことば」を必要とするわけですが、「ことばにならない何か」は永遠に完全には「ことば」に転換しえません。どれほどの語彙があろうと、論理的な整合性をもってしても、私たちは「ことばにならない何か」の前では等しくボキャ貧である―この事実から、私たちに必要な「ことば」の学びのあり方を考えたいのです。
どうなるか分からない旅路ですが、みなさん、ぜひ(また)お付き合いのほどを。
/佐藤 宗大
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明治図書















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