- まえがき
- 1 道徳授業改革の位相
- 1 行動評定は居心地が悪い
- 2 道徳の授業も居心地が悪い
- 3 内容項目は更に居心地が悪い
- 4 低学年の内容項目さえ壮大だ
- 5 物事の要因は複合的だ
- 6 矢面に立たされる
- 7 梯子をはずされる
- 8 梯子をはずされ矢面に立たされている
- 9 本気の道徳授業をつくる
- 2 道徳授業・本気度の位相
- 1 本気の道徳授業を提案する
- 2 譲れることと譲れないこととを意識する
- 3 自主開発道徳・授業づくりの位相
- 道徳授業は〈後ろ〉からつくる
- 1 導入からつくるとうまくいかない
- 2 授業は〈後ろ〉からつくる
- 3 終末の状況を意図的につくる
- 4 終末状況に必要な要素のみで構成する
- 5 最後にすべての布石を回収する
- 道徳授業を〈敬愛する人〉でつくる
- 1 「敬愛」が教材研究を機能させる
- 2 「敬愛する人物」は人生に関わっている
- 実践1 egoist:エゴイスト【自己中心主義者】(A 向上心,個性の伸長)
- 実践2 デニーロ・アプローチ(A 希望と勇気,克己と強い意志)
- 実践3 雨の日(B 思いやり,感謝)
- 道徳授業を〈コラボ〉でつくる
- 1 授業は「方向づけ」を必要とする
- 2 授業は「フレーム」と「中心活動」でできている
- 3 コラボ教材で機能の役割を分担する
- 実践4 帰り道(C 勤労)
- 実践5 ネタにマジレス(C 家族愛,家庭生活の充実)
- 道徳授業は〈ネタ集め〉が勝負である
- 1 見つけた素材を散逸させない
- 2 集めた素材一覧を眺める
- 3 こだわりにはとことんこだわる
- 4 教科書道徳・授業づくりの位相
- 〈シンクロ道徳〉を提案する
- 1 教科書道徳が中心である
- 2 ソロ・縦のコラボ・横のコラボで授業する
- ソロ授業で多面的・多角的に考える
- 実践6 「手品師」ソロ(A 正直,誠実)
- ソロ授業で教材を〈加工〉する
- 実践7 「ブランコ乗りとピエロ」ソロ(B 相互理解,寛容)
- 「縦のコラボ」で教材を読む観点を与える
- 1 コラボ教材を持ち込む
- 2 二つの教材の質にバランスを取る
- 実践8 「ブランコ乗りとピエロ」縦のコラボ(B 相互理解,寛容)
- 実践9 「手品師」縦のコラボ(A 正直,誠実)
- 「横のコラボ」でALを機能させる
- 1 AL課題の四条件を意識する
- 2 答えのない課題を設定する
- 3 複数で交流することにこそ価値をもつ課題を設定する
- 4 子どもの将来に必要とされる課題を設定する
- 5 一回性を実感させる課題を設定する
- 実践10 「手品師」横のコラボ(A 正直,誠実)
- 実践11 「ブランコ乗りとピエロ」横のコラボ(B 相互理解,寛容)
- 〈シンクロ道徳〉で道徳授業の精度を高める
- あとがき
まえがき
かなり挑戦的な本を書いたつもりである。私は道徳授業については,ずぶの素人である。道徳教育についてもこれまで真剣に考えたことがない。2005年・2006年の2年間にたまたま文科省の「命の教育」の指定校に勤務していた折り,これもたまたま研修担当だったので仕方なく中心的に取り組まざるを得なかったという経験ならもっている。しかしそれも指定が解けるとともにすぐにやめてしまい,顧みることさえなくなった。
私は「道徳教育者」ではない。「文学教育者」である。文学教育者は毒のない物語が反吐が出るほどに嫌いである。この世に必要のないものだとさえ感じている。人間の本質を捉えていない。キレイゴトばかりが並んでいる。道徳教材に対して私はそうした認識をもっている。ときに文学作品から毒気を抜き,都合のいいようにリライトして教科書に載せているのを見るにつけ,作品への冒涜,文学への冒涜であると憤りさえ感じる。
しかし時代は道徳の教科化である。こんな私でもどうやら道徳の授業について真剣に考えざるを得ない時代が到来したようである。では,毒気のある道徳を開発してやろうじゃないか。そんな想いで道徳の授業研究を始めた。
「文学教育者」が道徳の授業づくりを行うことはそれほど難しくはない。「文学教育」とは「文学作品の教育」のことではない。「文学的思考の教育」「文学的感受の教育」のことである。教材が文学作品である必要はまったくないのだ。ある事象から文学的思考を喚起する題材を見つけてそれを授業化すれば十分に文学教育になる。日常から文学的感受を喚起する題材を見つけて授業化すれば十分に文学教育になる。そういうものだ。
今回の改訂で道徳授業には「自己を見つめ」たり,「物事を多面的・多角的に考え」たり,「自分の生き方についての考えを深め」たりといったことが求められるようになった。これらは多少の拡大解釈をすれば「文学教育」の理念と同じである。「問題意識喚起の文学教育」とか「十人十色の文学教育」とか「状況認識の文学教育」とか「関係認識の文学教育」とか「自己認識の文学教育」とか,理念的な大枠としては今回の改訂道徳と共通する部分は枚挙に暇がない。前者が人間や人間社会のポジティヴな面にのみ目を向けているのに対し,後者が毒気をもってポジティヴな面よりはネガティヴな面にこそ目を向けているという違いがあるだけである。その意味では,私は此度の道徳の授業研究には入り込みやすかった経緯がある。むしろ年間35時間もの人間を裏返したり社会を切り刻んでみたりという文学的思考の舞台を得られたことに感謝さえするようになっている。裏返したり切り刻んだりしてみないと,「自己を見つめること」も「多面的・多角的に考えること」も「自分の生き方についての考えを深めること」もできない。多くの「道徳教育者」にはその認識が欠けている。或いは欠けているとまでは言わないまでも圧倒的に足りない。私はそう感じている。
本書はこんなスタンスでいる,道徳教育・道徳授業に関して語るには少々問題のある私が,「子どもたちに機能する道徳というのはこういうものではないでしょうか」と問題提起することを趣旨としている。道徳授業づくりの在り方として提案されてはいるものの,理念的には文学教育理論を下敷きにしているものが多いし,授業づくりに関しては国語科教育を下敷きにしているものが多い。道徳教育についてまともに勉強したことがないのだから当然といえば当然である。私にはそれしかできない。しかし,だからこそ,道徳授業の専門家から見ると,私のつくる授業は新鮮に見えるようである。それに対して私は高見から発言するつもりもないし,流行りの言葉で言えば道徳授業の専門家に対してマウンティングするつもりもない。別に皆さんが影響を受けても受けなくても構いませんが,私にはよりよい道徳授業というものがこういうものに見えますよ,と提示するのみである。
本書は道徳授業づくりの在り方に困っているという教師たちにHOW TOを提示する構成にはなっていないと思う。できるだけそうした書き方をとは心がけたつもりではあるが,限界を感じざるを得なかった。ただ読者の皆さんには,私の道徳授業づくりに対する本気度だけは伝わるはずである。本書の問題提起が幾人かでも道徳授業づくりに本気になっている教師たちを触発することができたら,それは望外の幸甚である。
/堀 裕嗣
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