- まえがき─カルテは、教師を助ける
- T カルテ的見方
- 一 知らなければ対応を誤る
- 1 男のくせに泣くなよ!
- 2 発言の裏側
- 二 人を知るカルテとは
- 1 H児のカルテ
- 2 カルテに何を書くか
- 3 カルテの効用
- 三 教師の個性のカルテ
- 1 三者三様
- 2 教師の個性とカルテ
- 四 カルテ的見方
- 1 教師は誰もがやっている
- 2 カルテ的見方はボートのオール
- 3 F児と授業
- U カルテを読む
- 一 いじめの芽をつむ
- 1 いじめはある
- 2 いじめの芽をつむ
- 二 心に寄り添う
- 1 受けとめる
- 2 子どもの良さを生かす
- 三 子どもの芽を信じて
- 1 Mちゃんの変化
- 2 子どもは伸びる芽をもっている
- V 教師としての専門性と人間性
- 一 教師悲喜こもごも
- 1 教室の入り口
- 2 受け持ちしだいで子どもは変わる?
- 3 問われる教師
- 4 専門性と人間性
- W カルテと授業
- 一 カルテは授業を生み出す
- 1 音をたてずに沢庵を食べる
- 2 インスタントカレー食べたいヨ
- 3 カルテは授業に生きるか
- 二 カルテのサイクル性
- 1 全体のけしき・座席表
- 2 カルテのサイクル性
- あとがき─当り前を当り前として
まえがき──カルテは、教師を助ける
このところ目を丸くすることが続いている。
興奮の極みで、教師の制止をふりきり、オルガンを蹴とばし、友達につかみかかろうとする一年生を力づくで止めて、訳を訊こうとすると、「うるせえな、おめえなんか関係ねえんだよ! 言いたかあねえよ!」ときた。普段は可愛い腕白さもある子だが、このセリフにはまだ笑って受け答えるゆとりもあった。
離すと、他の子につかみかかりそうなので、ひっぱり合う姿勢が続いた。蹴とばされるか? 噛まれるか? 強い! 手加減すると逃げられそう。「離せ! 暴力をふるうな! 教育委員会に言いつけてやる!」等と喚き続け、半ベソをかき、誠に賑やかである。
少し落ち着いたと思って手を離すとニメートル程飛びのいて、泣き出し、「俺は好きで学校なんか来てるんじゃねえ! みんなそう言ってらあ。学校なんか来たくねえんだよ。」と宣う。オットット。返答につまる。
大勢の子ども達だから、興奮しやすい短気な子もいるのは当り前だが、一年生でここまで言うか。
子どもは可愛い。小学一年生ならなお可愛い。目の前の極楽トンボが飛び去った。
作家の椎名誠さんは、『南国かつおまぐろ旅』というエッセイの中で「いやなガキがふえている」という文を書いている。読めば、そうかと頷くが、のんびり頷いてなどいられない。
それが証拠に、『ナマコもいつか月を見る』というエッセイの「早起き作家のご近所観察学」の中には、わけのわからない先生のおせっかいぶりが出てくる。
人間というのはどんなことをするのにも個人能力差があって、走るのでも食べるのでもそれぞれにスピードが違ったり量が違ったりする。しかしそれはそれで当然のことだから差が出たっていいのだ。
それを何がなんでも一緒にみんながんばって、がんばって……と必死の形相で叫びつつ、その若い先生は遅れている子どもの手を引っぱろうとするのである。いつもいつもがんばらなくてもいいのだ。がんばることが必ずしも一番で無いのだ──などと思いながら、と書かれている。
学校の常識は世間の非常識という教育界の諺がうかんだ。
友達が見て、馬鹿にしたように笑ったからと怒り、次には自分を見ないのは、無視している証拠だと怒る。見れば怒り、見なければ怒り、どうすればいいのだ。世間の常識なら放っておくのか。
ところがである。
ちょっと目には、本人の受け取りがわがままとも見えるが、よくよく見ると違うのである。 見れば怒り、見なければ怒るととるのは、周りの子。いわば、無責任な第三者だということが分かってくる。
この子が近づくと、ピクツと話を止め、別の話題に切り換える場面、けしゴムをしょっ中借りてなかなか返さない子、本を探していると後ろから近づいて背中をこずく子。いる、いる。
確かに、現代の許容社会では、権威はすたれ、躾も甘くなる。希少価値の子どもだから、誰も彼もやさしくする。我慢は美徳ではなく、制約は規範ではなく、自由と放縦の区別があいまいになる。
学校なんか来てやらないとか、死んでやるとか口走る子どもに目を丸くしている暇などないのだ。
大人を大人とも思わず、教師と親の力関係を見抜き「お母さんに言いつけてやる。」という子や「新聞に投書してやる。」と開き直る子にひるんでいる時ではないのだ。
子どもを見ること。
子どもの表れで驚いたことを記録しておくこと。
子どもの生いたちや未来の姿を描いて、今を長い時間の数直線上でとらえること。
こうした人間を見る営みの中で、教師としての自分のあり方を問い、自分を変革すること。
カルテはその一つの手がかりである。
学校や学校教師に対する神話のような思いを抱く人はいないのだ。しかし、「うちの先生は、子どものことをよく分かってくれて、真剣に教育してくれている。」そう思いたいのが保護者である。そう言われるのが社会で求めている教師であろう。
大勢の子を相手に、その子の個性や能力に合った対応など、たった独りの教師でできる訳がない等という言い訳をするより、一人ひとりかけがえのないその子を真摯に前向きに見て、出来るだけのよりよい対応をすることが先決だ。
そして、授業を充実させることだ。新学力観と叫ばれて久しいが、授業は変わっただろうか。授業を変えるのは、教師自身の変革がなくてはならない。変革と簡単に言えるが、自分を内側から変えるのは誰だって大変だ。
カルテは広い時間と空間を十分に活用する人間把握であると上田薫先生は説く。
教師は人間を相手にする仕事である。人間把握をするには、まず自分を磨かねばならない。
こんな思いをこの本にこめたつもりだが、お読みいただき、お教えいただけたら自分を磨く糧としたい。
今回も明治図書編集部の江部編集長のおかげで、なんとか書き上げることができた。心から感謝申し上げたい。
一九九六年八月 /星野 恵美子
2024年は、子どもを見る目を大事にした授業を一緒に目指しましょう!
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