- はじめに
- T 認め合い・育ち合う学習集団づくり
- 一 なぜ学級崩壊が生じるか
- 1 教師の指導が入らない/ 2 子どもたちを集団としてとらえる/ 3 子どもを信じて働きかける/ 4 朝一人で起きられない/ 5 生活実態調査/ 6 評価の達人になる/ 7 教師は評価の仕かけ人/ 8 どの子にも「やる気」を起こす/ 9 わたしにもできる
- 二 ゆったりと子どもを見守る
- 1 あそびは子どもの仕事/ 2 小悪(ワル)のスリル/ 3 ふところ深く見守る/ 4 相性の合う子どもを見つける
- 三 学級は教師と子どもの居場所
- 1 対話がない/ 2 自然体で居場所づくりを/ 3 居場所づくりの目になる/ 4 学級崩壊/ 5 子どもに寄りそう/ 6 学級担任の仕事に専念する
- 四 子どもは発言し合意形成する主体
- 1 統率とは/ 2 したたかな自己主張力を育む/ 3 子どもは学習主体/ 4 子どもを信じる/ 5 子どもを巻きこむ演出
- U 学び合い・分かち合う授業づくり
- 一 戦後の授業実践に学ぶ
- 1 島小学校/ 2 森小学校/ 3 杜陵小学校
- 二 子どもと向き合う授業づくり
- 1 複眼で子どもを見る/ 2 生活にたぐり寄せる学習/ 3 ゆとりをもって子どもを見守る
- 三 ちがいが集団思考を深める
- 1 集団思考はおもしろい/ 2 思考に対立・分化をしかける/ 3 しかけて待つ教師/ 4 指導案の構想
- 四 集団思考を介した「分かち合い」の体験
- 1 「アッ」と驚く導入/ 2 だれでもアクセスできる/ 3 ハラハラとドキドキがある授業/ 4 授業は集団思考の過程/ 5 喜びをみんなで「分かち合う」
- 五 ドイツ授業参観記
- 1 ドイツの教育問題/ 2 よい学校とは何か?/ 3 ドイツでも班学習/ 4 子どもより低い教師の目線
- V 教育改革は総合学習から
- 一 総合学習は授業改革の出発点
- 1 「書物学校」からの決別/ 2 学校・家庭・地域間のネット・ワークづくり/ 3 キーワードは「連続性」/ 4 子どもを「連続性」づくりの主人公に
- 二 気になる子が輝く総合学習
- 1 悪いのは子どもではない/ 2 教師が特定の子に近づく/ 3 気になる子が活躍する場をつくる/ 4 学校の時間外で子どもに接近する/ 5 まちがいの原因まで聴く/ 6 受験学力でなく、生きた学力を/ 7 生きる力のカリキュラム化
- 三 総合的な学習の指導体制
- 1 プロジェクト・チームの立ちあげ/ 2 教師が主体的に参加する指導体制/ 3 総合的な学習の時間と校内研究授業/ 4 管理職のリーダーシップ/ 5 古い教師・新しい教師/ 6 合科的指導の先駆け/ 7 自分で考える
- W 学習集団の実践分析
- 一 小学校一年生に教えられる
- 1 カンニング事件/ 2 低学年は楽?/ 3 返事できて当たり前という思いこみ/ 4 失敗こそがチャンス/ 5 学級を「居場所」にする出発点とは
- 二 子どもの声を聴く
- 1 じっくりと子どもとつき合う/ 2 学級開きの日からブーイング/ 3 喧嘩の裏に隠された心/ 4 現状からスタートする/ 5 子どもの別の面を引き出す/ 6 学習面でも頑張り出す/ 7 聴き役に徹する
- 三 子どもに賭ける
- 1 キレやすい子/ 2 子どもの幼稚化/ 3 総合的学習は弱い子の味方/ 4 自尊感情を育てる
はじめに
昨日までできなかったことが、今日できるようになった。今までわからなかったことが今わかるようになった。この喜びを、隣の仲間にも伝えたい、教師にもわかってほしい、というようなことは、ごく小さなことまで含めると授業の中で、あるいは学級の中で、何千回、何万回と生じているのではないか。だが大多数の教師は、そのほとんどの部分を見逃している。今の時代は、子どもたちの中に生じるこれらのできごとにじっくりと付き合うだけのゆとりが教師にはないのかもしれない。しかしわたしは、数百回以上学校現場の授業を見せてもらう中で感じた。この何千回、何万回と生じているできごとを見逃しているとは、もったいないことではないか、と。
教師の方で、少しだけでよい、自分のできるところからでよい、子どもたちの中に生じているこの小さなできごとの一つだけでよいから、一日に一回だけでもよいから、それに対してほほ笑み返す努力をしていこうという構えをもって欲しい。学級崩壊に近いと言われている学級の子どもたちの中にも、授業が成り立たないと言われている教室にいる子どもたちの中にも、自分のこの成果、小さなことかもしれないが、みんなも認めてくれたらな、先生も認めてくれたらな、と願っている子がきっといるにちがいない。
先生方に言いたい。わたしは駄目教師と自虐的になる前に、もう一度、素直な気持ちで子どもたちの日々の活動を見直して欲しい、と。そうしたら、一日に一つは、学級の子どもたちの中のこのかすかな動きや感動の芽を発見することができるのではないか。何も表に顕れる対応がとれなくてもよい。あのとき、ほほ笑み返してやればよかったのかなぁ、という反省だけでもいい。これさえできれば、教師にも明日への元気が出てくるのではないか。
普通の教師の場合、「やったぁ!」と学級全体が沸き立つようなそんな大げさなことは、一月に一度、いや学期に一回、起こるか起こらないかであろう。わたしは、それでよいと思っている。教育という仕事は、今日、明日にはっきりと答えが出るようなそんな派手なものではない。きわめて地味な仕事である。この地味な仕事を、今日も学校に集っている子どもたちの協力を得ながら、自分のできるところから、みんなで力を合わせて創り出していこう、というスタンスでよいのではないか。いつか必ず、学級の子どもたちにも、教師の想いが通じる日が来るのではないか。
二一世紀の教育は、子ども参加型の教育が主流になる。そのためには、教師ができあいの知識や技能を子どもたちに伝達して、それをどれだけ受容したかで子どもたちを振り分けていくような旧式の教育から離脱する必要がある。小・中学校で、さらには高等学校まで含めて、総合的な学習の時間の創造を基軸にした教育改革が求められている。この種の二一世紀型の教育改革を実現する土台が、学習集団づくりだ、とわたしは考えている。
こんな話を明治図書の江部満氏にしたら、全面的な賛同を得て一冊の本を書いてくれと言われた。それでこの正月休みに、ここ三〜四年の間に請われるままに雑誌に書いてきたものを下敷にして、二一世紀の教育改革へのメッセージとして急遽まとめたのが本書である。
出版事情の厳しい今日、何の注文もつけないで出版の機会を与えてくださった明治図書出版に感謝申し上げる。日々教育の営みに取り組んでおられる先生方に、さらにはこれから教師になろうとする人々にとって、本書がなにがしかの励みになれば望外の幸である。
二〇〇一年三月一〇日 /豊田 ひさき
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- 明治図書