- 序論 言語技術教育は文学教育と対立するか
- 1 文学の授業をめぐる現実的な課題
- 2 〈教材内容〉と〈教科内容〉と〈教育内容〉のちがい
- 3 武田常夫氏と阿部昇氏と西郷竹彦氏の授業─何が教えられているか─
- 4 〈教材内容〉と〈教科内容〉と〈教育内容〉を区別することの意義
- 1 文学教材の読解主義の改善
- 2 文学の授業の未来像
- 3 「学習のてびき」の改善
- 4 「注文の多い料理店」(宮沢賢治)の授業
- 1 言語技術教育の系譜と現在─キーパーソンを中心に─
- 2 日本言語技術教育学会の緊急提言の内容と意義
- 3 言語技術教育による思考力・表現力の育成
- 4 詩の言語技術教育─詩の表現原理・方法をふまえた読み方を教える─
- 1 波多野里望氏の「大造じいさんとがん」の模擬授業
- 2 岩井信康氏の「ごんぎつね」の模擬授業
- 1 中村龍一氏の「ライオン」の授業
- 2 浜本純逸氏の「ロシアパン」の授業
- 1 「おおきなかぶ」(ロシア民話)
- 2 「かさこじぞう」(岩崎京子)
- 3 「麦畑」(アリスン=アトリー)
- 4 「おいのり」(三木卓)
- 5 「子供のいる駅」(黒井千次)
- あとがき
序論言語技術教育は文学教育と対立するか
1 言語技術教育と文学教育の関係
次のような文章がある。
文学教育は、官制の言語技術主義的な国語教育との闘いの中から生まれ、育ってきました。それは、国語科を単なる言語技術の教育におとしめることなく、生きいきとした人間教育の場とするために、きびしい状況の中で実践されてきたのです。それは、ある立場からは芸術教育として位置づけられ、国語科の枠を破るものでもあったのです。
ここに見られるように、文学教育とは、「人間教育」の立場から「言語技術主義の教育」を否定し乗り越えようとしたものである、という認識が一般的である。確かに、日本の国語科教育が、少なくとも学習指導要領などの制度面では、読み方・書き方・話し方・聞き方の言語技術教育をめざしてきたことは事実である。それに対抗して、民間教育研究団体の側から「豊かな人格や感性を育てる」「感動体験を育てる」「鋭い現実認識や人間認識を育てる」「正しい民族意識を育てる」といった理念のもとでさまざまな文学教育が展開されてきた。しかし、それによって「文学教育は言語技術教育と対立する」という先入観が作られてしまったのである。
私はそういう固定的な考え方に疑問を持っている。拙著『言語技術教育としての文学教材の指導』(一九九六年、明治図書)でも述べた通り、本来、文学教育と言語技術教育とは対立するものではない。文学鑑賞にも一定の技術が必要だからである。それは、作品の面白さを発見し、味わいや感動や認識を深めるような技術である。「文学の楽しみ方」と言ってもよい。そうした基本的な技術を教えることなしにはどんな文学教育も成立しないはずである。言語技術教育は豊かな文学教育のための前提なのである。要は、何をどう教えるかという問題である。
2 日本文学協会の「趣意書」の問題
日本文学協会の機関誌『日本文学』の「編集委員会」は、「いま、文学教育にこだわること」という一九九八年八月号の特集を組むにあたって、次のように述べている。
学校の現状は教育の大きな転換を求めている。だが、現在文部省が進める教育改革はこの声に応えるものだろうか。国語科教育についていえば、改革の方向は「教課審」の「文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導のあり方を改め」という文言に見られるように「脱文学」教育にあり、「新しい学力観」のいっそうの浸透をねらうものである。これと重なるかたちで言語技術教育もさかんに主張されているが、「新しい学力観」に立つ活動主義や言語技術主義は、ことばの教育による子どもたちのゆたかな人間的成長の機会を切り捨ててしまうおそれがありはしない。
ここには疑問点が二つある。
第一は、「文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導のあり方を改め」ることが、どうして「『脱文学』教育」ということになるのかという点である。「文学的な文章の詳細な読解」がそのまま「文学教育」を意味するものではないことは明らかである。むしろ、多くの場合、それは「文学教育」と呼ぶことが憚られるような表面的・形式的・網羅的な読解指導であった。つまり、従来のように、一つの教材に十数時間もかけて「場面の様子を想像する」や「人物の気持ちを考える」という「教材をまるごと分からせる授業」「しらみつぶしの授業」の問題の方が深刻なのである。これが文学の授業を曖昧で魅力のないものにしてきたからである。作品を隅々まで鑑賞することに追われて、授業で「確かなもの」「新しいこと」として何を学んだか、どんな力(知識・技術)が身についたのかということがはっきりせず、上達感・達成感に欠けていたからである。野口芳宏氏が言うように、文章の「なぞりと確認」「わかっていることの確かめ」に過ぎないような表層の読みに陥ることが多く、子どもにとって追究心や知的好奇心を刺激するような学習が行われてこなかったからであ。
これからの文学の授業は、教科論・教材論・授業論・学習者論の視点から根本的に問い直される必要がある。従来の「文学教育」の擁護論の方がよほど危険なのである。
第二は、「新しい学力観」に立つ「言語技術主義」とは何かという点である。そもそも、言語技術教育は「新しい学力観」とは全く別のものである。言語技術教育が言語技術の系統的な指導・訓練をめざしていることを考えてみれば一目瞭然である。また、そうした教育が「子どもたちのゆたかな人間的成長の機会を切り捨ててしまう」とは、紋切り型の観念論であり、言語技術教育に対する誤解である。
ここには、「言語技術教育」は「文学教育」「心の教育」「人間教育」と背馳するものだという固定的な先入観が根強くある。言語技術ということを言い出すと、偏狭な文学教育論者は必ず「浅薄で形式的な技術主義」と侮蔑や非難を繰り返してきた歴史がある。しかし、こういう見方は誤っている。また、そうした態度は非生産的である。こうした二元論がこれまでの国語科教育の発展を阻んできたのである。むしろ、すぐれた文学教育のためには、基本的な言語技術(読み方・書き方・話し方・聞き方)の指導は絶対に必要である。
本書でも、前著『言語技術教育としての文学教材の指導』と同様に、言語技術教育は「心の教育」や「文学教育」と何ら対立するものではなく、むしろ、それが成立するための〈教科内容〉論的な前提であることを明らかにしたい。
3 本書の構成
最後に、本書の構成について簡単に述べておきたい。
第一章では、文学の授業の目標や構造を理解するために、〈教材内容〉〈教科内容〉〈教育内容〉という三つの概念を区別して、そのちがいを明らかにしたい。本書の前提、ひいては言語技術教育の基盤となる部分である。「文学教材の詳細な読解を改めるにはどうしたらよいか」という問題に答えるためにも必要な理論的な整理である。やや回り道のような感じを受けるかもしれないが、国語科教育学の建設にとって最も重要な基礎工事にあたる部分である。
第二章では、文学教材の詳細な読解に代わるべき授業のあり方について、〈教科内容〉としての「読みの技術」の精選と系統化という観点から私案を示した。「学習のてびき」というミクロなレベルから二一世紀の授業像というマクロなレベルまで視野に入れている。
第三章では、文学の授業を改善するための切り札となる言語技術教育について、その全体的な系譜(キーパーソンとその業績)や今後の展開について、歴史的な視点も交えながら述べた。
第四章と第五章では、言語技術教育と文学教育が両立していないと考えられる授業実践を取り上げて、なぜそれがうまくいかないのかという原因について考察した。第四章は言語技術教育を標榜する側の授業の問題点、第五章は文学教育を標榜する側の授業の問題点を検討した。前者を〈教科内容〉限定型、後者を〈教育内容〉肥大型と呼んでもよい。
第六章では、いくつかの教科書教材を取り上げて、読解主義を改めるための教材研究法と指導プランを示した。従来のような「ベタ読み」「しらみつぶしの読み」ではなく、その教材で教えるべき言語技術は何かという観点から、それを切り口にしてテキストを〈分析〉する(結果的に〈解釈〉や〈感動〉も深まる)という方法である。
全体を通じて「オピニオン叢書」にふさわしく、刺激的かつ大胆な問題提起になるように心がけた。意見を述べること、何かを主張することは、とりもなおさず現状に対する反論や批判をすることであるという基本的な原則を貫いたつもりである。
本書に対する忌憚のないご意見やご批判をお願いしたい。
〔注〕
(1) 西郷竹彦・浜本純逸・足立悦男編『文学教育基本論文集@』一九八八年三月、明治図書、二頁。
(2) 『日本文学』一九九八年二月号、七一頁。
(3) 野口芳宏「『見える学力・使える技術』への実践的指向――国語科授業改善への新しい指標――」
(『教育科学国語教育』一九九八年四月号、一一八頁)
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- 持っておいてもいいかなーと思って。古書価格、手が出ません。2019/2/21すずらん