- 第1部 子どもを見る目――子どもをどうとらえるか――
- 一 子どもが教師の思うように動いてくれないということ
- 二 ほんとうの子どもは、そのもうひとつ向こうにいる
- 三 子どもが教師の思うようにならないということは、ほんとうは、すばらしいことであるかもしれない
- 四 視点を変えて子どもを観る
- 五 縛られた頭、縛られた目で子どもを観てはならない
- 六 「千の子どもに千の花」
- 七 やんちゃな子にはやんちゃな子の光 おとなしい子にはおとなしい子の光
- 八 先生のいうことを聞かない子だって、そういう子しかもたない光をもっている
- 九 わるいことをする子もわるいことをしたくてしているのではない
- 一〇 子どもは、さまざまな家庭事情を背負って生きている
- 一一 子どもは、地域社会や世の中のおとなの生き方の論理をいつの間にか背負わされている
- 第2部 目を磨き、目を養う
- 一 「見れども見えず」ということ
- 二 「生きている」ということのすばらしさが見える目
- 三 子どもが生きていることがまばゆく見える目
- 四 「とらわれ」を断ち切る
- 五 「迷盲」を破る
- 六 「高あがり」、「思いあがり」が「目」を狂わせる
- 七 「エコヒイキ」だけは固く自戒しよう
- 八 子どもの作文から学ぼう
- 九 作家の目に学ぼう
- 一〇 「人間」をみがく
- 一一 教育の道は甘くはない
- 第3部 子どもを活かすために
- 一 何がまちがっても、絶対まちがいなくやってくること
- 二 「自主性を育てる」ということ
- 三 「バカにはなるまい」
- 四 「こころにスイッチを」
- 五 教育においては、物の貧しさより豊かさの方が恐ろしい
- 六 豊かさの中でどうすればいいのか
- 七 「欲望」にどう対処するか
- 八 「欲望」や「衝動」の奴隷にならない工夫
- 九 「勤労」を見直そう
- 一〇 「働く姿」を見せる
- 一一 学習指導の中でも
- 一二 「心身とも健康な」子どもをとり戻すために
- 一三 人間らしい心情を育てる
- あとがき
第1部 子どもを見る目――子どもをどうとらえるか――(冒頭)
一 子どもが教師の思うように動いてくれないということ
Mさん、あなたの
「一生懸命になればなるほど、子どもが離れていってしまうのです。どうして子どもは私のいうことを聞いてくれないのでしょうか」
という真剣な問いかけの手紙、半世紀前の私を思い出しながら、感慨深く読ませてもらった。私自身もこのおなじ悩みから、どうしても脱却することができないで苦しんだ教師であったからである。あせればあせるほど子どもが離れていってしまう。その、教師と子どもとの距離を埋めるために、かんしゃくをおこして叱りつけることが逆効果しかないことがわかっていながら、叱りつける以外、方法を見出すことのできない私であった。
あの頃の私たちの初任給は「八級下俸当分四八円」ということになっていた。これを日給に換算すると「一円五十何銭何厘」ということになった。その頃の私の日記を開いてみると「毎日、子どもを叱り賃に一円五十何銭何厘はちと高すぎる」と書いている。子どもを叱ってばかりいて、こんなにたくさんもらってもいいものだろうか、という思いであったのだ。
私は、最初、子どもと遊ぶことによって子どもとの間の溝を埋めようと試みた。校時と校時との僅かな休み時間も、私は必ず子どもと遊んだ。だが、体には汗しているくせに、遊びの中に没入できないのだ。遊んでいても「子どもにおもねっているさもしい自分」が見えて、どうしても遊びの中に没入できないのだ。私の過剰な自意識が、遊んでいる時にさえも距離をつくってしまうのだ。
私は、教員として不適格に生まれついているのではないかという思いがだんだん深まってきた。先輩から「教育は愛に始まって愛に終わるといっていい」と、何べんも聞かされたが、あの頃の私の気持ちは、とても「子どもがかわいい」などといえる状態ではなかった。「憎い」といい切ってしまうとウソになる気はしたが、「かわいい」と「憎い」とどちらに近いかといわれると、あきらかに「憎い」に近いのが私の実態であった。
そういう私と子どもとの間の距離を徐々に縮め、埋めていってくれたのは、私にとっては、どうも「作文(綴り方)」であったような気がするのだ。
ところがその「作文(綴り方)」なのだが、この仕事を愛する人というのは、たいてい文学が好きだとか、子どもが大すきだという人がほとんどのように思うのだが、私の場合はそんな立派なことではなかった。子どもが大すきどころか「憎い」に近いような私であったし、徹底的な貧乏の中で育ったコチコチの私に、文学などわかるはずはなかった。そんな私に「作文(綴り方)」との間に縁が結ばれるようになったのは、当時「綴り方」といっていたこの時間の過ごしようがわからなかったからなのだ。他の教科は「教科書」があるから、それを使って「教生(教育実習生)」のとき教えてもらった教法で授業を進めることができるのだが、この時間は、私にとって「綴り方」ではなくて、全く「あずり方」の時間であった。何とか、一時間が過ごせるようになりたい、そんな思いで「綴り方」の本を読むようになった私であったのだ。
しかも、いちばんはじめに求めて読んだのが、全く偶然であったのだが、富原義徳という方の「土の綴り方」であった。富原義徳先生は静岡県の方なので、近頃静岡県から講演などの依頼を受けて出向くたびにこの先生のことを尋ねてみるのだが、あまり知られていないらしいのはどういうことだろうか。「灯台もと暗し」ということであろうか。
今の自分に必要な内容!だと思い、復刊投票させていただきました。
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