- まえがき
- 第1部 子どもが無気力症になる交流障害とは
- 人間は"無気力"にはなり難い
- 気力の源泉としての情緒的安定感
- 無気力と親子の交流障害
- 劣等感に刺激され促進される優越要求
- 人間は誰しも劣等感の所有者
- 満たされぬ優越要求がもたらす無気力
- 無気力と心理的葛藤
- コンプレックスの根源と幼児体験
- 無気力の背後にひそむ自己否定感
- "自己肯定"への転換が生きる意欲をもたらす
- 自己を取り戻す
- 人間関係の中の"自分"
- 一つのコースにのっていては育たない個性
- 「自分はいったい何なのか」を問う難しさ
- 無気力となって出てきた自我同一性要求の混乱
- 自己を高めようとする"自尊心"
- 心理的問題と歪んだ「自尊心」
- 自らの学歴や職業にこだわる気持ち
- 「自尊心」の危機をのり越える
- 世間に浸透している学歴重視の心理
- 無気力症の五つのタイプ
- 心理的に傷つけられた「無気力」
- ひ弱い精神の子が通らなければならない関門
- 急性のショックで無気力よりも死を選んだ子
- 環境不適応による「慢性無気力」
- 真面目サラリーマンの無気力
- 慢性無気力は"心理的休戦"である
- 学校環境に適応出来ない子
- 学校環境の無気力も社会に出て回復
- 問題行動に走る「反抗的無気力」
- 息子の知能タイプの理解不足
- 悪くならない程度のサボリ能力も
- 「生理・病質的無気力」への理解
- 病的な心身症や精神症には薬物療法
- 親の干渉過剰が生む病的無気力
- 精神医学面から見た無気力
- 自己主張としての「実存的無気力」
- 親は子どもをのみ込もうとしている
- 「そんなことでこの世は生きていけない」
- 病的状態は健康な心を守る最後の防波堤
- 人間はみな自尊と自律を内面に秘めている
- 無気力を超える――無気力症からの脱却
- 生体のパワーが低下し,外からの「圧」を感じる
- 生体リズムの崩れから無気力へ
- 助力の設定こそが急務
- 失感情表現言語症と無気力
- 「不登校」という退行現象で身を守る
- 「心の再生」の場としてのフリースクール
- 第2部 事例で見る無気力症の表れ方
- 気づかいのX君の反乱
- 家庭内暴力の三例
- カウンセラーの「手紙作戦」
- まず本人の体調の回復が先
- 思春期危機からの脱出
- ひきこもり的無気力症にさせない
- ひきこもり無気力に見る「身体因」
- "心の反乱"の背後にある"身体の反乱"
- 所属団体の確保と個人的かかわりの必要性
- 子ども慢性疲労症候群無気力に陥ったK君の回復への道
- 不登校にいたる心身症的プロセス
- フリースクールの対応
- バイオリズムがもとに
- 第3部 どんな生き方指導がよいのか
- ――メンターの役割と展望
- 「無気力症」の回復の手段
- 心理人間学的考察――共進社会に向けて
- 展望――臨床心理のベースにあるもの
- 具体的臨床例――中学一年の女生徒の母親の訴え
- 具体的臨床例――O君の事例
まえがき
人は誰しも,気力の充実している時,しない時に関してそれとなく知る,というか,体感しているものである。もの心がつけば多少の気づきが可能とはいえ,本人が「そうか,あれが原因だったのか」と,はっきり自分なりに分かるようになるのには,やはりそれ相応の年令が必要となる。
児童といわずとも外から見ると,小さい子どもは元気印のように動いているかと思っていると,すぐにゴロンと寝入ってしまっているのを目にするものである。身体の仕組みが自然のリズムと合致,次なる気力発揮の準備のため眠らせてしまっているのである。まさしく「寝る子は育つ」というのは至言といえる。
ところが,その生体の自然のリズムが崩れる時,気力の発現に異常をきたすということの理解は,やはり年をくわないと分からないものである。
例えばの話,小学三年や四年で週三回以上の通塾でよい成績を上げ,目指すトップの進学校のテストをクリア出来る実力を持ち,有名N中学合格間違いないと周りから励まされたが,受験寸前ダウンしてしまう塾生が結構多いのである。結果的には,偏差値で受ける中学校を決めることになるのだが,トップのN中学校に100%入れる実力者がなぜに目前で潰れるのか,その大半が「無気力症」に陥っているのである。ひと言で表わせば,「頭が働かなくなっている」というわけである。単純にいえば,「疲労困憊」に陥っているということになる。
どうして頭が鈍るのか。答えは簡単,脳細胞の働きに支障をきたしているのである。筋肉疲労だって同じ。使い過ぎればくたびれて動かなくなる。即ち,動かなくなることで身体の方が休戦を申し出ているわけなのだ。それなりに休めば回復する。ただそれだけのことなのだが,このリズムの認知を「もう少し,もう少し」やればの欲の突っ張りが抱え込むと,当分気力も低下,動かなくなってしまう。というのは,その生体の仕組みから見て当然なのである。
とりわけ,過去の通塾で神経がボロボロ,夜,昼逆転といったリズムの崩れにいたるほど,無理した「受験戦士」が元のような気力の充実の時を迎えるのには,ひたすら休む以外にない。「三年寝た郎」ではないが,一番の薬は「ゴロゴロ」することである。
しかしそれを周りが見て見ぬ振りをするだけの度量がないと「怠け」と受け取り,叱責と干渉でハッパをかけるしか手がなく,結局若い子どもの脳の働きを駄目にしてしまう。そんな無気力症をたくさん見ているだけに,改めて「無気力」を「症」にしてしまわない知恵が,子どもを育てる親,塾と学校の教師に欲しいのである。
有名進学校N中の一年に努力の末見事合格,本人も家族も万万歳で喜びの入学となったS君の事例を紹介したい。
4・5月は,小三から小六までの三年間通塾することで,身体が夜目覚めるリズムになっていたが,小学校ではその疲れを癒すべくぼんやりの登校。もともと頭がよくて,全てを一回で覚えてしまい長期記憶の得意だったS君,学校では仮眠の状態でも成績は校内一番であった。そのS君がN中合格の喜びがまだ残っている一学期の始めのN中の学習に,ついて行けなくなったのである。
なぜか。朝から進学校のレベルの高い学習に,身体がついて行かないのである。身体の覚醒リズムが完全に「夜型」となっていたための学校適応障害,おまけに加速する教室の学習レベルについて行けず成績は下降,小テストの集計では,順位がクラスで下から4番目となってしまった。
S君の所属する学年の主任ははっきりものをいう教師,自分のブログで下から5番以内は「認知症」だと断言していたのである。小学校を終えたばかり,それも500人わずかしかいない,IQでいうと150クラスのレベルの高い子を集めておいて「認知症」と決めつけたのだから,子どもやその親たちの自負心が傷ついて当然,「そう頭から決めつけられた」という,ある種のトラウマがますますS君の無気力を「症」にまで追い詰めてしまったのである。それもブログでならともかく,本人に向かって直言というのだからひどい。S君の頑張りの線がプツンと切れ,最寄のJRの駅までは行くものの,そこから学校までの徒歩15分が出来なくなったのである。駅のホームに降り立って改札を抜け,さて学校に向かい歩もうとすると「足が動かなくなる」といった,当人にとっても不思議な現象に戸惑い,その瞬間に忍び寄る不気味な不安感も重なり,登校難渋をはるかにオーバー,まさしく「拒否症」に陥ったのであった。
N中にはIQ150レベルの超秀才が集まってくる。入学は出来ても,このクラスの男子生徒間の競争に立ち向かうのには,知能レベルというより「気力」がなくては日々の学習の積み重ねは困難である。生体を維持する体の仕組みの営みに不具合が起きているのである。塾ではトップ,「出来る子」として賞賛を浴び,小学校でも始めてのN中合格者,当人のプライドは大満足。これがN中に入ってほんの一学期の中間テスト前で崩れてしまったのである。
進学校は中高一貫教育,六年間も受験競争のレース。なのに入ってすぐにダウン,こういう中学生はどの有名進学校にも見られる,いわば日常茶飯事。結局「力のない子」として見放されてしまうのである。
私はこういった,いわば夜中心の過熱した通塾で夜型化したバイオリズムの崩れた秀才たちを,臨床的にたくさんかかわってきたことで,頭でなくて,気力の出ない子どもの問題の背後にある問題と取り組んできて,思いついて書いたのが本著『無気力症』であった。
ともかく,どの子も相応の努力をしているのに頭が働かず,気力が保てない子どもが通塾現象でたくさん見られ,これは放っておけないと思う親心のような心境が,本著の執筆の動機であった。大人がもう少し余裕を持って,子どもの「無気力」と取り組んでほしいのである。気力を失った子を見る視点を変えてほしいと願ったものであった。
子どもの少子化が小学生の低学年にまで塾の魔手が,となると,合格した時が最高,後は急降下のみ。無気力のまま登校,続かなくて当然である。運動のクラブ活動で見られる,野球だと打ってもよく,投げてもエースと実力発揮,多くの試合で記録を残すほど,頑張った小学生が有名運動校で潰れてしまうケースが結構多い。その段階で擦り切れてしまっているのである。
それが分かった上で,ではどうすればいいのか。その具体的臨床例などを取り上げたのが本著である。昔も今も「無気力」で戸惑い悩む当人,そして親が多い。本著を読んでサイドラインを引かれ,「ここがうちの子とぴったり当てはまるのです」と相談に来所された親の数は数え切れない。
「三年寝た郎です」といったことを素直に受け止め,全く干渉を止め,元気でいることだけでいいと悟って,子どもに接するようになって子どもが立派に回復,後に有名大学に合格というのはいいのだが,追い立てて追い詰めた結果,わが子を精神病院に連れて行かざるを得なかったという悲劇もいっぱいある。中には自殺も後を絶たない。
改めて「無気力」のメカニズムに理解を示し,気力を失った子どもへの見方を新しく見返すことで,「気力回復」への道を辿ることの出来る内容が,この本著の課題である。じっくり読んで下さることを願いまえがきとしたい。
拙著『無気力症』は1979年に刊行したものである。これが30年経過した今も読まれている。図書館の貸し出しカードは読んだ人の記載でいっぱい。表紙もかなりくたびれている。
この辺りで,内容は古いようで今も同じ悩みを持ち,読もうとされる親と教師の多さを垣間見ることもあり,文章はそのまま生かし建築でいえばある種改良工事,今も役立つ箇所はそのままにして,時代の古さを読者が感じられると思われるところは新たな文章で置き換え,『なぜ,あの子は無気力症になったのか』とタイトルを付け,明治図書出版KKから再出発となった。
原書を生かしての本づくり,多少のレトロ的感覚が残るにせよ,全体的には今も通じる本ではと確信を持ち,刊行することになった。
/井上 敏明
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